有名な肖像画に描かれた徳川家康は、小太りで決してカッコイイとは言い難い風貌です。しかし、家康のおばあちゃんは三河一の美女として名高く、なんと5回も結婚したのだとか!
天下人のおばあちゃん「お富」のモテモテエピソードや、その生涯をご紹介しましょう。
最初の結婚で家康の母を生む
お富は明応元(1492)年に生まれたとされていますが、出自にはさまざまな説があり詳細はわかっていません。
最初の結婚相手は、三河国刈谷城城主・水野忠政(みずの ただまさ)でした。忠政には離婚歴があったため、お富は継室(後妻)となります。忠政との間には3男1女が生まれ、その女の子こそが家康の母・於大の方(おだいのかた)です。
子どもにも恵まれ円満に思える夫婦関係ですが、お富の美しさゆえに、この後波乱の人生が待ち受けているのです。
夫と離婚し、超年下男性と再婚!
美しいお富に目を付けたのが、岡崎城城主・松平清康(まつだいら きよやす)です。三河で勢力を拡大していた清康は、水野忠政にお富との離縁を迫り自分の妻にしたのだとか。一説によるとこの時清康は18才、お富は40才前後だったとされています。自分の子どものような男性にまで惚れられてしまうとは、どれほどの美貌だったのでしょう。
※清康と結婚した事実はなかったという説もあります。
再婚を繰り返すも、次々に夫と死別
2人目の夫松平清康と死別したお富は、星野秋国・菅沼定望・川口盛祐と次々に再婚。しかし全員お富を残して先立ってしまったのです。
「きれいな薔薇には棘がある」という言葉のように、お富は美しさゆえに一種の毒のようなものを持っていたのかもしれません。もしくは天下人の祖母たらしめる、何か強烈なエネルギーを持っていたのでしょうか。
5人目の夫との死別後は仏門に入り、源応尼(げんおうに)または華陽院(けよういん)と名乗りました。
幼少の家康を親代わりとして育成
幼少期の家康(竹千代)が駿府に人質として送られた際、身の回りの世話をするために付き添ったのがお富です。この頃お富は既に出家していたため、庵室を設けて家康を育成しました。
お富が七十余才で息を引きった際、家康は戦(いくさ)に出ており葬儀に立ち会えなかったのだとか。しかし、家康は幼少期の自分を育ててくれた祖母への感謝を忘れず、庵室に近い知源院を墓所と定め、のちに玉桂山華陽院(ぎょくけいさんけよういん)と名を改め篤く弔います。
玉桂山華陽院にはお富のほか、3才で夭折した家康の娘・市姫も眠っています。
玉桂山華陽院(浄土宗)
住所:静岡県静岡市葵区鷹匠2-24-18
参考:『女たちの戦国』楠戸義昭 『日本人名大辞典』