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2020.10.14

旅する暮らしはこの人に学べ!江戸時代に50年間旅し続けた博物学者・菅江真澄

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今、旅する暮らしが流行っている。シェアハウスやゲストハウスを渡り歩き、様々な場所で働くことが可能な時代になった。同業者が提携しあい、多拠点居住を促進するようなサービスも増えている。

今でこそ旅する暮らしを簡単に実現できるが、江戸時代はどうだっただろうか。関所を設けて人の出入りを厳しく取り締まられ、電車も車もバスも飛行機もなく移動手段は限られていた。

しかし、そのような時代でも、なんと50年間も旅を続けたまさに「旅人」という人物がいる。その名も、菅江真澄(すがえますみ)。仕事は?泊まるところは?と疑問は尽きない。この人物の旅する暮らしに迫る。

旅の始まりは未知への好奇心!?

真澄に関する過去の情報は少ない。安永6(1777)年に、三河国の岡崎に居住していたことがわかっている。生まれも三河という説が有力だ。天明3(1783)年、30歳の時に旅に出た。なぜ旅に出たかは定かではない。幕府のスパイだったという説があるが、「たくさんの神社を巡りたい」ということで旅に出たという説もある。当時は、お伊勢参りが行われていたし、お参りをするための旅は良いことと考えられていた。この神社巡りというのは建前かも知れない。真澄の著作の詳細な記述を見ると、人一倍好奇心があって旅を始めたのは間違いないだろう。

旅の中で仕事はどうしていたのか

真澄は旅に出る前に、本草学(医療)や国学、写生、和文、地誌など様々な分野の学問を学んでいた。これらの経験を生かして、各地で仕事を作り出したようだ。三河を出て、信濃、越後、庄内、秋田、津軽、南部、仙台、蝦夷地などを訪れ、再訪した秋田で最期を迎える。このような長い旅を続けられた秘訣について見ていこう。

地誌の編纂をする

真澄遊覽記. 第17冊より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション

真澄は各地を歩きながら旅の記録を続け、著作は200冊以上と言われる。秋田では地誌を書くことが仕事になった。文化10(1813)年に秋田六郡の地誌を「雪・月・花」という3本立てで編纂する企画書を書き、秋田藩に提案。当初は、日記形式で公的な文書を作成することや他の土地からきた旅人に任せることに反対の声が多く、企画はすんなり通らなかった。しかし、後に藩主が許可を出し、紆余曲折ありながら、この仕事は晩年の文政12(1829)年まで続くこととなる。図や絵、文章を用いて詳細に土地の暮らしを描写することで、藩にとっては重要な地域資料となった。

「くすし」として人の役に立つ

薬草に精通する「くすし(医者のこと)」としても活動していた。寛政9(1797)年から寛政11(1799)年までの2年間は、弘前藩で薬草栽培や採取に携わっていたという記録がある。また、秋田藩で1ヶ月、くすしの手伝いをしていたとも言われる。現代でも医者と文化人類学者を掛け持つ人がいるが、旅先ですぐに人の役に立てるのがくすしの強みである。医者のいない集落で、村人たちにとても感謝されることは容易に想像できる。

「うたし」として和歌を詠む

これは仕事と言えるのかわからないが、歌を詠う「うたし」としても活動していた。主に2つの形式で歌が詠まれていて、土地の地名を入れた日記のような歌と、人が集まる場で詠まれた歌があった。民俗学者の柳田國男は後世の近代短歌の流れもあり、真澄の歌は自分の心情を率直に反映させず、人を喜ばせるような詠み方だとあまり良い評価をしていない。しかし、真澄にとって歌を詠むことは旅先でのコミュニケーションツールだったと考えられる。現地の人と歌を通して交流が深まり、家に招かれて泊まらせてもらうこともあったようだ。この歌のネットワークを通して、金銭的に負担の少ない旅ができたとも考えられる。

菅江真澄が後世に残したもの

柳田國男著『菅江真澄』より真澄の肖像画。出典:国立国会図書館デジタルコレクション

このように今まで学んだことを生かして旅をした真澄は、土地の歴史や民俗を記録し続けた。当時は日本では民俗学が確立していない時代でありながら、かなりそれに近い先進的なことをしていた。民俗学を確立した柳田國男は、真澄のことを「民俗学の祖」と呼んでいる。

旅をすることは外の視点からその土地を観ることであり、地域の人には気がつかない新しい視点で物事を捉えることができる。地域の人にも新しい気づきが生まれ、地域資源の価値を見直すことができるのだ。

半年間旅して暮らした実体験

私自身も、実は2019年の4月から10月まで旅する暮らしを行なっていた。真澄に比べれば期間が少なく旅人と言えないかもしれないが、その時の話も最後にご紹介したい。私の旅の目的は「未知に対する好奇心を満たすため」だった一方で、「移動しながら仕事が成り立つのかを検証するため」でもあった。仕事は主に3つあって、現地でのアルバイトやPC上で完結する仕事等だった。

仕事①現地でアルバイトをする

インターネットや知り合い経由で、行きたい場所の仕事を探すという方法である。宿泊業や農業の仕事は繁忙期と閑散期の仕事量が格段に違うので、繁忙期と重なれば仕事がたくさんある。宿泊業はゴールデンウィークや夏休み時期、農業は作物によりけりである。実際に私が経験したアルバイトはこちら。

2019.5 徳島 古民家宿泊施設

2019.5 愛媛 古民家ゲストハウス, 農業

2019.6 石川 農業(現地農家&JA)

2019.8 京都 古民家宿泊施設, 茅葺職人の手伝い

2019.9 島根 建築事務所

2019.9 大阪 建築事務所, シェアハウス広報

基本的には、フリーランスとして自分の仕事を確立していればアルバイトをする必要はない。そうでない場合はアルバイトで収入を得るしかない。特に宿泊業や農業は未経験でも受け入れてもらいやすいのでおすすめ。仕事を通して、地域の暮らしを知ることもできる。

仕事②PCで完結する仕事をする

PC上で成果物を作り、メールのやり取りで完結するライターの仕事は場所に縛られないでできる。私はライターとして、旅で訪れた場所のことをwebメディアに寄稿していた。ただし、このやり方は仕事を抱えすぎると、肝心の旅にのめり込めなくなってしまい辛くなる時がある。自分のタイミングで寄稿できるメディアと契約するのが良いだろう。もしくはブロガーとして、個人メディアを立ち上げてそこで収益化するというのもあり。

仕事③手伝いをして宿泊と食事をタダにする

そのほかにも、収入はないが滞在先の手伝いをして、宿泊費と食事代がタダになるというサービスもある。「workaway」「wwoof」「HelpX」などである。これらは日本のみならず、海外でも利用することができる。ちなみに、私は台湾でworkawayを利用し宿泊の手伝いをした。workawayでは他に、依頼主の語学を学ぶ手伝いなどのユニークなプランもある。

自分の得意を武器に旅する暮らしを実現

このように、江戸時代と現代では旅する暮らしの実態が大きく異なる。江戸時代は個人のネットワークの中から滞在先や仕事が決まることが多かったし、旅人を自分の家に招き入れるという寛容さがあった。しかし、現在はアポなしで見ず知らずの家に泊まるのはハードルが高い。その代わり、インターネットを使って滞在先を探せて、仕事もPC上で完結できる時代となった。

真澄のように自分の得意なことやできることを生かして、旅する暮らしを実現できるのは旅人にとって理想的な姿かもしれない。土地に縛られず、好奇心の赴くままに旅して暮らすことを検討してみてはいかがだろうか。

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参考文献
『菅江真澄が見た日本』,石井正己, 三弥井書店, 2018年8月

トップ画像出典:メトロポリタン美術館

書いた人

千葉県在住。国内外問わず旅に出て、その土地の伝統文化にまつわる記事などを書いている。得意分野は「獅子舞」と「古民家」。獅子舞の鼻を撮影しまくって記事を書いたり、写真集を作ったりしている。古民家鑑定士の資格を取得し全国の古民家を100軒取材、論文を書いた経験がある。長距離徒歩を好み、エネルギーを注入するために1食3合の玄米を食べていた事もあった。