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大人だけが知っている!「静寂の京都」

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2020.10.24

茶の作法など知らぬ!京から近江、伊勢、山陰へ。島津家久の戦国あばれ旅【復路編】

この記事を書いた人

鹿児島市の西北約30kmに位置する、いちき串木野市。
戦国の頃、串木野城の城主を務めていたのが、南九州に勢力を広げる島津(しまづ)4兄弟の末弟で、戦(いくさ)上手で知られる島津中務大輔家久(なかつかさだゆういえひさ)であった。

天正3年(1575)、29歳の家久は、家臣らとともに京都、伊勢への旅に出る。旅の名目は、長兄で島津家当主の義久(よしひさ)が南九州を無事に治めていることを、兄に代わって伊勢神宮や京都の愛宕(あたご)山などに参詣し、諸神仏に御礼を述べるためである。とはいえ、百戦錬磨の武将である家久の旅の本当の目的が、そんな殊勝なものであるはずもない。実際はさまざまな見聞を広めるためで、時に無礼者をこらしめ、大いに酒を飲みながらの「あばれ旅」であった。

串木野から京都まで、現在のJRの路線でおよそ900km余り。この距離を家久一行は、途中船も利用しつつ2ヵ月弱で踏破した。その様子は、本記事の前編にあたる「『無礼な奴はぶん殴れ!』薩摩から京都を目指す、島津家久の戦国あばれ旅」で紹介しているので、そちらもお読み頂けると、より楽しんで頂けることと思う。

今回は後編として、京都から近江、伊勢、奈良などを経て、日本海側のルートで帰途につく「あばれ旅」の復路を取り上げる。なお前編同様、記事は『中務大輔家久公御上京日記』(東京大学史料編纂所蔵)の原文をかみくだいて訳し、必要に応じて解説を加えるかたちで進めることにしたい。

島津氏の家紋「丸に十の字」

京都探訪の日々

一流の蹴鞠に驚き、風呂でもてなされる

天正3年の2月20日に串木野城を発った島津家久一行(100人余り)は、修験者(しゅげんじゃ)の南覚坊(なんかくぼう)をツアーガイドに九州を北上、関門海峡を渡り、瀬戸内海に沿って船も使いながら東に進む。途中、態度の悪い関守(せきもり)や暴言を吐いた水夫(かこ)を家臣がぶん殴る一幕もあった。4月17日、目的地の一つである京都の愛宕山に到着。4日後の21日、当代きっての文化人である連歌師の里村紹巴(さとむらじょうは)の歓迎を受け、紹巴の弟子・心前(しんぜん)の屋敷を京都の宿として貸してもらうことになる。同じ日、家久は心前とともに、大坂本願寺(おおさかほんがんじ)との戦いから京都に戻ってきた織田信長の大軍を見物し、その威容と、馬上で居眠りする信長の姿に目を見張るのだった(以上が前編のあらすじ)。

4月22日、飛鳥井(あすかい)殿(雅教〈まさのり〉)の屋敷の庭で、公家衆が蹴鞠(けまり)を催した。飛鳥井父子の技は見事で、拙者は知らなかったが、雅教殿のご子息の巧みさにはひときわ驚かされた。
4月23日、里村紹巴が風呂をたいてくれ、馳走になった。それから前句付けを行う。夜に入って酒宴となり、紹巴や里村昌叱(しょうしつ)、心前らが歌を詠んだ。

蹴鞠飾(猪熊浅麿『旧儀装飾十六式図譜』、国立国会図書館デジタルコレクション)

4月22日、家久らは公家の飛鳥井雅教の屋敷で蹴鞠を見物している。飛鳥井家は代々、和歌と蹴鞠に秀でており、家久らは里村紹巴の紹介で見物できたのだろう。前編の塩飽本島(しあくほんじま)では「足を高く上げるのは見苦しい」と蹴鞠を気に入らなかった家久だが、一流の技を初めて見て驚いたようだ。なお蹴鞠の巧みな子息とは、飛鳥井雅敦(まさあつ)のことだろうか。

翌23日、家久は紹巴が用意した風呂に入る。当時の風呂は現在のように湯船につかるものではなく、蒸し風呂で、ぜいたくなものだった。家久は大切な客として、紹巴からもてなされたわけである。また前句付けとは、出題された和歌の七・七もしくは五・七・五の前句に句を付けるもので、連歌の稽古の一種であった。なお里村昌叱は紹巴の師匠の子で、娘婿でもある。その後、数日は出歩かなかった家久だが、4月28日、東山界隈の見物に出かける。

京都東山を観光

4月28日、家久は上総(かずさ)殿(織田信長)の軍勢が、(相国寺〈しょうこくじ〉から)美濃(現、岐阜県)へ帰るのを見物。畿内を掌握する織田軍の威容を、再度確認したのだろう。なお信長はこの直後、三河(現、愛知県東部)に出陣し、長篠(ながしの)の戦いに臨むことになる。一方、家久はこの日、里村紹巴、同昌叱、肥後(現、熊本県)の宇土(うと)衆である加悦式部大輔(かえつしきぶだゆう)、北野大炊助行豊(きたのおおいのすけゆきとよ)らと一緒に東山界隈を散策している。

まず右に等持寺(とうじじ)という寺の跡がある。四条の道場(金蓮寺〈こんれんじ〉)、四条の橋を左に見て通り過ぎ、五条の橋を渡ると中洲に法城寺(ほうじょうじ)があった。法城とは「水が去り、土が成る」という治水の意味だという。その先に六原堂(六波羅蜜寺〈ろくはらみつじ〉)がある。本尊は観世音、脇に堂があって地蔵が祀られている。蓮華座(れんげざ)の下に獅子があった。運慶(うんけい)、湛慶(たんけい)という仏師の名作だという。その前には浄光(常康か?)親王、延喜(えんぎ)年間の頃の六代の帝、空也(くうや)上人の像があり、空也上人像は念仏を唱えた口から仏が出てこられる様子を表現している。さらに行くと六道の辻で、小野篁(おののたかむら)が現世と冥途を往来したという所(井戸)があった。続いて北殿(きたどの)という院御所があったというが、今はない。左には八坂の五重塔が望め、経書(きょうかく)堂、子安の塔がある。真福寺を過ぎ、清水(きよみず)一の坂の上に細川道永(ほそかわどうえい、高国〈たかくに〉)が建立(こんりゅう)した三重塔があった。

五条橋から見た鴨川(京都市)

28日の記述は長いので、ここでいったん切っておこう。信長の軍勢を見送った家久は、里村紹巴、昌叱、加悦式部大輔、北野大炊助らとともに東山散策に出かける。加悦と北野は肥後の宇土衆、すなわち宇土城主・名和顕孝(なわあきたか)の家臣で、加悦は連歌師として知られていた。おそらく連歌の大家である里村紹巴を訪ねてきたところ、たまたま家久と合流したのだろう。家久は式部大輔と記すが、実際は式部少輔(しきぶしょうゆう)と名乗っていた。加悦は当時、48歳。29歳の家久とは歳が離れているが、九州人同士、京都では親しく交わったようで、のちに肥後の八代(やつしろ)で二人は再会している。さて、東山散策の続きに戻ろう。

戦国の修学旅行生?

その次に清水寺を見物。庭の池に飼われている鳥がたくさんいて、中には鵠(くぐい、白鳥のこと)もいた。田村堂を過ぎて観世音(本堂)に参ると、懸造(かけづくり)である。都の巽(たつみ、南東)に位置する。地主権現(じしゅごんげん)には桜があり、近くに鐘があった。音羽の滝は石の懸樋(かけい)から水が落ちるもので、上流は不動堂の下で見えない。近くに奥の千手(せんじゅ)という堂があり、付近には小庵がたくさんあった。歌の中山を越えていくと、左に清閑寺(せいかんじ)の跡があり、右は鳥辺(とりべ)山である。阿弥陀の岳(阿弥陀ヶ峯)、若松の池を過ぎると泉涌寺(せんにゅうじ)という寺があった。帝が崩御(ほうぎょ)された折、葬り奉る寺である。そこに茶の湯の座敷があり、見物していると茶を飲まされた。さらに引き留められ、酒を勧められる。本堂に参り、釈迦の歯なるものを拝んだ。長さ二寸八分(約8.4cm)、幅一寸八分(約5.4cm)ほどである。寺の境内に泉が涌いており、そのため泉涌寺と称する。僧は皆、律を学んでいる(以下略)。

清水の坂(京都市)

28日の記述はまだ続くのだが、この辺にしておく。里村紹巴のガイドで五条橋を渡り、六波羅蜜寺、六道の辻から清水寺、泉涌寺を見物、その様子を細かく記しているのは、古典の舞台でもある都の風景に少なからず興奮しているからだろうか。初めて京都を訪れた修学旅行生のようでもある。清閑寺は『平家物語』で知られる高倉(たかくら)天皇と小督(こごう)の悲恋の舞台だが、跡と記すのは応仁(おうにん)の乱で焼失したためであった。京都も戦乱の巷(ちまた)であったことがわかる。

泉涌寺のあと、家久らは東福(とうふく)寺に赴いて通天橋(つうてんきょう)や僧堂天井に描かれた龍の絵などを見物。続いて歌人として高名な藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい)の墓に参り、三十三間堂を見て、六波羅蜜寺で酒飯のもてなしを受けた。さらに愛宕(おたぎ)の寺(六道珍皇寺〈ろくどうちんのうじ〉)を訪れ、再び六波羅蜜寺で酒を飲んでから、四条大橋を渡って帰ったと記す。

そぞろ歩き制限と連歌会三昧

単独外出は制限されていた?

ところで、京都滞在中の家久の日記は4月28日の東山散策のように、毎日こと細かく長々と記されているというわけではない。むしろ一行で簡単に済まされている日の方が多いのだ。たとえば……。

4月25日 昌叱に礼を申し上げたところ、酒を勧められた。紹巴が歌を詠唱した。
4月27日 何もせず、ぼんやりと一日を過ごす。
4月30日 朝は紹巴が書物を読み、それから風呂に入った。

といった具合である。京都散策に出かける時は必ず紹巴が同道しており、家久は好き勝手にそぞろ歩きすることはできなかったのかもしれない。おそらく市中を護衛の家臣をぞろぞろ連れて歩くのははばかられるので、諸方面に顔が利く紹巴が家久の専属ガイドを務めたのではないだろうか。とはいうものの5月2日には、紹巴が宇治(うじ)に出かけた留守に下京へ出かけたりもしている。

拙者、連歌を催す

さて50日間に及ぶ家久の京都滞在中、散策以外で日記によく記されているのが、連歌会への参加である。連歌会とは即興の歌会で、五・七・五の「発句」を七・七の「脇句」で受け、これを五・七・五の「第三句」に転じ……と七・七の短句と五・七・五の長句を交互に挟んで連ねながら、百句百韻に及んで「一巻き(一作品)」とするのが一般的である。会を催すことを張行(ちょうぎょう)といい、参加者は4、5人から十数人に及ぶこともあった。メンバーは主催者にあたる亭主役、宗匠、書記役の他に客が招かれる。スタンダードな百句百韻に要する時間は十数時間ともいわれ、たとえば夕方始めると翌朝終わるという感覚だったらしい。

5月7日 宇土殿(加悦式部)と蒙丹が連歌会を催す。連歌が終わり、月見をしようと昌叱と心前が屋外に出て、酒宴となる。宇土殿らも加わった。するとその場で、紹巴が一句詠む。
五月雨の 晴まの月や天の戸を ひらきて出し光りなりけん
5月9日 宇土殿と北野大炊助行豊が連歌会を催す。
5月11日 拙者、連歌会を催す。執筆(書記役)は文閑。連歌が終わると酒宴になり、一座の面々と数回盃を交わした後、10斗も入りそうな二つ重ねの大盃で拙者が飲まされた。
5月13日 河上拾郎三郎(かわかみじゅうろうさぶろう)が連歌会を催す。一座に但馬(たじま)衆の八木(やぎ)殿の弟で、隠岐守(おきのかみ)という人が参加していた(以下略)。

家久は連歌会に頻繁に顔を出し、時には自ら主催していることがわかる。それだけの教養があり、また和歌を好んでもいたのだろう。一緒に東山を散策した加悦式部少輔主催の連歌会にも参加し、親交を深めていたことが窺える。ところで10斗も入りそうな大盃とあるが、1斗はおよそ18ℓなので、10斗は180ℓ。もちろん誇張で、痛飲したことを表現したのだろう。なお但馬(現、兵庫県北部)衆の八木殿とは八木豊信(とよのぶ)のことで、但馬守護の山名(やまな)氏の重臣であった。この時、家久と顔を合わせたのは豊信の弟だが、旅の帰途、家久は豊信の領地を通ることになる。

明智光秀との出会い

屋形船の屋根上で痛飲!

京都滞在中、家久は里村紹巴とともに近江(現、滋賀県)に出かけ、紹巴と親しい坂本城主の明智光秀(あけちみつひで)と出会う。これも旅のハイライトシーンの一つであるので、紹介してみよう。

水色桔梗(ききょう)紋。明智光秀の家紋と伝わる

5月14日 紹巴とともに志賀(現、滋賀県大津市)見物に出かける。白川を過ぎ、近江(現、滋賀県)の中山茶屋で一休み。「風のかけたる しがらみ」などの歌が詠まれた場所を眺めて志賀の山を越え、長等(ながら)の山、比叡の山などの歌を詠みながら歩いていると、紹巴を迎えに明智光秀殿の側衆3人が馬に乗って来られた。その馬に拙者も乗るよううながされたが、状況を見て遠慮する。唐崎(からさき)の松を見物し、坂本の町に宿をとった。五月雨の晴れ間といわれるように、くまなく湖水を照らす月影も、風が移ろえば時雨に、などと話しているところに、宿の近くまで明智殿が船で参られたので、紹巴や行豊とともに拙者も出向いて船に乗る。そのまま(琵琶湖に突き出る)明智殿の坂本城を、船を漕ぎまわりながら見せられた。船には三畳敷ほどの屋形があり、珍しいので板葺きの屋根に登って、大いに酒を飲む。その後、屋根から下り、明智殿に船の内部を見せられた。

琵琶湖

「山川(やまがわ)に 風のかけたる 柵(しがらみ)は 流れもあへぬ 紅葉なりけり」は『古今集』にある、春道列樹(はるみちのつらき)が「志賀の山越え」で詠んだ歌。紹巴はもちろん家久もそれを踏まえて、歌が詠まれた舞台を歩いたのだろう。やがて明智光秀の家臣が紹巴らを迎えに来るが、家久は勧められても馬には乗らなかった。これは織田家重臣の光秀に、遠慮して見せたのだろうか。ところが光秀は気さくにも、宿の近くまで一行を舟で迎えに来る。家久は屋形船に喜び、屋根上で痛飲。光秀が皆に見せたかったのであろう、琵琶湖に浮かぶ坂本城の威容については何も記していないのが面白い(もっとも家久は旅の途中で見た他の城も、詳細は記していないのだが)。

茶の湯のこと不案内にて候

5月15日 紹巴とともにあちこちを見物。坂本の比叡の山は麓(ふもと)に日吉(ひよし)大社の橋殿(はしどの)、その上に八王子山、下に大宮所、上七社、中七社、下七社の跡があった。はるか遠くに比良(ひら)の高峰や横川(よかわ)も望むことができる。京都の真葛(まくず)が原の松のように、昔(の恨み)を残しているように見えた。宿に帰ると、明智殿から城に来てほしいと伝言があったが、遠慮していると、城下まで明智殿が迎えにきて城内で一緒に食事をすることになった。一座の面々は紹巴、明智殿、行豊、堺衆の大炊助、拙者の5人である。四畳半の座敷に入り、まずは茶の湯となったが、作法が不案内なので、拙者はただ「湯を所望したい」と申し上げた。

坂本(大津市)

この日の記述も長いので、いったん切っておく。前日、船上で明智光秀と初めて会った家久は、翌日、紹巴とともに比叡山の麓・坂本を散策。家久が日吉大社について「跡があった」と記すのは、4年前の元亀2年(1571)に織田信長の比叡山焼き討ちで、日吉大社も焼失したからであった。家久は突然、真葛が原の松をたとえに出すが、それは「わが恋は 松を時雨の染めかねて 真葛が原に風さわぐなり」という『新古今集』の慈円(じえん)の歌以来、真葛が原の松が「恨み」を意味するからである。焼き討ちの惨状跡を見てのことだろう。その後、家久は明智光秀に誘われ城内で一緒に食事をすることになる。メンバーの堺衆の大炊助は紹巴の弟子だろうか。光秀は食事の前に一同を茶室に招き、茶を点(た)てようとするが、家久は作法を知らないので「白湯を所望しもす」と断った。教養人として振る舞う光秀に、「拙者は茶の湯の作法など存じもはん」と率直に伝えたわけである。

光秀に名布を贈られる

庭のひとむらの竹の陰に筵(むしろ)を敷いて、酒宴となった。一座に朝倉(あさくら)の兵庫助(ひょうごのすけ)という人も加わって、盃を交わす。(中略)明智殿は織田殿が東国の陣立ての最中であるので、酒宴どころではなく、参加されなかった。その後、風呂の前に舟を押し着けると明智殿が出てこられて、風呂のある場所でそうめんや鯉、鮒を肴に酒になった。やがて紹巴が「四方(よも)の風 あつまりて涼し 一(ひとつ)松」と発句を詠むと、明智殿が「浜辺の千鳥 ましるかるの子」と脇の句を詠まれ、本来であれば拙者が第三句を詠むべきところだったが、遠慮して席を離れた。

それから和田玄蕃(わだげんば)と一緒に城内を見物。城の蓄えはそれぞれの倉に収蔵され、薪などまで積み置いてあるのは、さすがである。舟に乗り、明智殿に暇乞いをして宿の近くに舟を着けて、宿でしばらく休む。そこへ明智殿から紹巴へ、拙者のためにとかたびら3枚と宇治の名布を贈って来られた。着たきりの衣類の旅やつれの様子を見て、心遣いをしてくれたのだろう。(以下略)

酒宴に加わった朝倉兵庫助は越前(現、福井県)朝倉氏の一族で、一向一揆(いっこういっき)に城を奪われた朝倉景綱(かげつな)とする説がある。さて「風呂の前に舟押付候へハ、明智とのさし出られ、風呂にてさうめん」の部分をどう解釈すべきか悩んだが、屋外の風呂の前にある水路に舟が到着し、舟から降りてきた明智光秀とそのまま風呂の近くに座を移して酒になったと考えた。

ところで光秀は、家久の正体をどこまで知っていたのだろう。おそらく紹巴は「九州の島津家の家中で、連歌を好む客人」程度にしか伝えていなかったのではないか。島津家当主の実弟とわかれば、政治的な配慮で光秀は信長に報告するはずである。家久もそれを知るからこそ、極力目立たぬように振る舞っていたのだろう。しかし光秀は、紹巴の客である家久の衣類が、長旅でくたびれていることにまで気を遣っている。細やかな心配りのできる人物であったようだ。なお光秀も出陣する長篠合戦は、6日後の5月21日に迫っていた。一方、家久、紹巴らは湖西の堅田(かたた)から湖を渡り、石山寺、木曾義仲(きそよしなか)最期の地、三井寺などを見物して、5月17日に帰京している。

伊勢から奈良へ

険しい山々を越えて

近江見物から京都に戻った家久は、また連歌会に何度か参加し、5月24日には紹巴とともに鞍馬(くらま)寺見物に出かけている。鞍馬の薬師坊では、紹巴が『源氏物語』の若紫を朗読して興じていると、坊主が興を削ぐことを言ったため、紹巴が気色ばんで立ち上がり、坊主の手を振り払って庭に飛び降りる一幕もあった。紹巴の気性の激しさを物語る記述である。やがて京都滞在も終わりに近づいた5月27日、家久は今回の旅のもう一つの目的地である伊勢神宮参詣に出かける。

5月27日 伊勢参詣に出立。五条橋のたもとまで紹巴が見送り、酒飯を持たせてくれた。今夜、食事する場所がなかろうと見越してのことで、心遣いに深く感じ入る。皆に挨拶して出立。醍醐(だいご)を過ぎ、近江の伊井の尾(実際は山城国二尾〈にのお〉)を過ぎると、畑(近江国志賀郡外畑〈そとはた〉)に関所があった。桜谷(さくらだに)で渡し賃を払って川を渡り、とひ川(富川〈とみかわ〉)に関所。またのうそ(納所)にも関所。さらに野尻(のじり)にも関所があった。朝宮のいのよ兵衛(ひょうえ)の屋敷に一泊。旅の引手(先導役)は四条油小路の山伏・新覚坊(しんかくぼう)である。
5月28日 早朝に出立。甲賀に入ると小川城があった。御斎(おとぎ)峠を越えると伊賀国(現、三重県北西部)である。(阿拝〈あえ〉郡の)小田(おた)に関所があり、丸山という所にも関所があった。さらに進み、阿保(あお)の村(現、伊賀市阿保)の竹屋三郎兵衛の屋敷に一泊。

「五条~阿保」推定ルート

醍醐から山道を南下して近江に入った家久一行。関所の多さに閉口しているようだ。28日には甲賀を抜けて御斎峠を越え、伊賀に入る。甲賀者、伊賀者と呼ばれる忍びの者たちの本拠地で、道も険しかったはずだが、それに関する記述はない。一行は健脚だったのだろう。なお29日には青山越えをして伊勢国(現、三重県の大半)に入り、入道垣内(にゅうどうかいと)村、小倭(おやまと)の谷、田尻、三渡(みわたり)を経て、飯高(いいたか)郡の平尾に一泊している。

とんでもない禰宜どもと神聖な内宮外宮

6月1日、早朝に出立。あやい笠という村を通る。編み笠を編む村であった。櫛田川で渡し賃を払い、斎宮(さいくう)に至る。さらに行くと絵馬を掛ける鳥居があり、笛吹の橋、明星が茶屋、臥見坂、土大仏、田丸の城(現、度会郡玉城町)などが見えた。宮川を渡ってお祓いを受けると、禰宜(ねぎ)どもが大勢寄ってきて、さまざまなことを言っては物を盗ろうとする。ちょうどその時、安芸国(現、広島県西部)の人が妻子の手を引いて参詣していたが、川の中でお祓いを受けるために解いた帯を、禰宜どもが奪い取ろうとしたので、川の中より走り上がり裸相撲となった。手に抱えていた物のことも忘れ、妻子はもちろん、周囲の目もはばからず騒ぎ回るのはみっともない。

そこから関所を二つ過ぎ、山田(ようだ)の町のかしき大夫という御師(おし)のもとに到着。挨拶をして、内宮(ないくう)、外宮(げくう)に参拝する。途中の霊仏霊社の荘厳なこと、筆舌に尽くしがたい。とりわけ6、7歳の童女が文殊(もんじゅ)堂で鐘を打ち、扉を開けてさまざまに謡う様子は、まるで文殊菩薩(ぼさつ)の再誕ではないかと、感じ入った。その後、天の岩戸にお参りし、宿に帰る。
6月2日 御供物(おくもつ)をあげ、神宮をあとにする。八太(はた)村の満五郎の屋敷に一泊。

伊勢の木漏れ日

伊勢神宮近くの宮川に現れたという、盗みを働く禰宜たちには驚かされる。禰宜は下級神官だが、神宮参詣に来た人々をねらって物を奪うのは、罰当たりという他ない。あるいは禰宜を装った窃盗団なのだろうか。帯を奪われかけている家族連れの男性に対し、家久は「騒ぎ回るのはみっともない」と冷めた感想だが、おそらく、もし禰宜たちが自分たちにちょっかいを出せば、一切騒ぐことなく、問答無用にぶん殴るつもりだったからではないか。

一方、旅の目的地である伊勢神宮参拝の記述は、非常にあっさりとしている。これはもう一つの目的地であった京都の愛宕(あたご)山も同じだった。家久は内宮、外宮そのものよりも、そこに至るまでの神域の荘厳な雰囲気と、文殊堂で謡う童女の様子が印象に残ったようだ。伊勢神宮をあとにした家久一行は、再び伊賀を経て、さらに西へ向かう。

「阿保~伊勢神宮」推定ルート

奈良の古寺巡礼と最先端の城を見物

猿沢の池の藻

6月3日に伊賀の治田(はった)村(現、伊賀市)に宿を借りた家久一行は、翌日、奈良に入った。

6月4日 松瀬(まつのせ)の渡で渡し賃を払い、北野(現、奈良県山辺郡山添村北野)という村を経て、鉢伏(はちぶせ)峠を越えて奈良に入る。左に筒井(つつい)の城があった。それから心前の舎弟きたのはし新三郎という者の屋敷に寄ると、水飯(すいはん)や酒でもてなしてくれた。やがて、つくし彦左衛門という者が来る。薩摩で見知った者なので宿を貸してやってほしいと伝え、挨拶を交わした。その後、近所を見物。猿沢の池の藻が「わぎもこのねくたれかみ」と詠まれたのは、いかにもそうであろう。藻の間から、鮒や鯉が濡れた姿を見せるのを目に留めた。興福寺を見物。

筒井の城とは、当時、大和(現、奈良県)で勢力を持ち、信長に従っていた筒井順慶(じゅんけい)の筒井城(現、大和郡山市)を指すのだろう。また家久一行が里村紹巴の弟子・心前の弟の屋敷に世話になったのは、この伊勢・奈良の旅のプランに紹巴が関与していたことを窺わせる。なお猿沢の池について「わぎもこのねくたれかみ」と記すのは、「わぎもこの ねくたれ髪を猿沢の 池の玉藻とみるぞかなしき」という柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の歌を踏まえてのことである。

「伊勢神宮~奈良」推定ルート

不思議なみかんの木

6月5日、東大寺内の新禅院を見物後、大仏を拝んだ。周囲には若草山、二月堂、北に手向山(たむけやま)がある。手向山八幡に参拝すると、神前にみかんの木があった。実がなって色づいているのに、花が咲き葉も茂って枝にあるのがまことに不思議であった。その実に心引かれたが、通り過ぎる。春日大社へ毎日二度、御供をととのえる場所があった。春日四所明神(ししょみょうじん)に参拝すると、八乙女(やおとめ)や祝子(はふりこ)が神前に控えており、お神楽(かぐら)を奉納した。帰る途中に雪消(ゆきげ)の沢があった。宿(心前の弟の屋敷)に戻り、礼を述べて出立する。

みかんの木

この日の記述も長いので、ここでいったん切っておこう。家久は東大寺の大仏に参拝するが、永禄10年(1567)の松永久秀(まつながひさひで)と三好(みよし)三人衆の戦いで、大仏殿は焼失、大仏は頭部を失っていた。家久は仮殿の中に鎮座する頭部のない大仏を拝んだはずだが、何の感想も記していない。むしろ家久の印象に残ったのは、手向山八幡の神前の、実が色づきながら花が咲く不思議なみかんの木であったようだ。なお雪消の沢は「春来れば 雪消澤に袖たれて まだうらわき若葉をぞつむ」という崇徳(すとく)上皇の歌でも知られる歌枕である。

多聞山城より大和国を一望

一乗寺を見物。棹(佐保)川を渡り、多聞山(たもんやま)城を見物。城内に数多(あまた)ある部屋のことごとくを見てまわる。楊貴妃(ようきひ)の間という部屋があり、遠近(おちこち)の名所を望むことができた。生駒(いこま)の岳、秋篠(あきしの)、西大寺、龍田(たつた)山、二上の岳、当麻(たいま)寺、天香具(あめのかぐ)山、飛鳥川、多武峰(とうのみね)、吉野、初瀬、三輪、布留(ふる)山、石上(いそのかみ)、高圓寺(白毫〈びゃくごう〉寺)、羽かい山、すべて見える。二階に城の番を務める山がた対馬守(つしまのかみ)がいた。自ら盆に山桃を載せて持って来られ、酒を勧めてくれた。巡礼姿なのでこちらが誰であるかはわかるまいと、熊手串を持って楊桃(やまもも)を手にとり、賞味したのは、今思えば恥ずかしい。馬を用意しようかといわれたが、巡礼姿なので遠慮する。

山桃

多聞山城を出てしばらく行くと、般若(はんにゃ)寺の文殊堂という所に、奈良の人々が酒や食べ物を持ち寄って酒宴を開いていた。道からかなり遠い川を渡るのに渡し賃が必要だったが、山がた殿から頂いた過書(かしょ、関所の通行許可証)のおかげで、知らない人まで一緒になって渡ることができた。(中略)なお行くと、寺田という村で薩摩の大輔(たゆう)という山伏と出くわす。互いに見忘れてはいたが、何か感じるところがあったのだろう、追いついて来て、そう名乗った。そのまま引き留められて宿を借りる。奈良の人で紹巴の弟子である宗慶(そうけい)も合流した。

多聞山城は永禄3年(1560)に松永久秀が築いた城で、塁上に築かれた長屋状の櫓(やぐら)を多聞櫓と呼ぶのは、この城に由来する。また4階の高櫓を備え、一説にこれが城郭の天守(てんしゅ)の始まりといわれるなど、画期的な城であった。永禄11年(1568)に織田信長が上洛すると久秀はいったん従うが、元亀3年(1572)に反逆し、翌年、降伏。多聞山城は信長が接収する。家久一行が訪れたのは、織田家の管理下に置かれた多聞山城であった。例によって家久は、多聞櫓や高櫓などの城の特徴を一切記していない。そうした軍事情報にあたるものは、日記ではなく、別に記録していたのかもしれない。家久が記す山がた対馬守は、正しくは山岡(やまおか)対馬守景佐(かげすけ)である。山岡は当時、明智光秀の配下であり、家久らが多聞山城を見物でき、山岡から厚遇されたのは、里村紹巴の依頼で光秀より山岡になんらかの指示があったからだろう。

多聞櫓(写真は熊本城)

また家久一行は寺田という村で、薩摩から来た山伏とばったり出会う。珍しいことだろうが、戦国の世とはいえ、諸国の人々の往来が盛んであったことを裏づけているともいえる。家久一行は翌6月6日、宇治の平等院などを見物し、ある寺で酒の飲みっぷりをほめられたり、水を求めた家久らに、惜しんで飲ませなかった者に「まことに餓鬼の心」とあきれたりしながら京都に戻った。

帰国の途

紹巴らとの別れ

伊勢・奈良の旅から戻った翌日が、家久らにとって京都滞在の最終日である。6月7日のこの日、家久は紹巴とともに祇園會(ぎおんえ、祇園祭)の見物に出かけた。鉾(ほこ)という6つの山などを引くのを見た後、四条の道場(金蓮寺)に赴くと、近江の武将進藤賢盛(しんどうかたもり)が来て、進藤から信長と武田勝頼(たけだかつより)の長篠合戦の様子を聞いている。その後、紹巴の屋敷に戻ると、前関白(さきのかんぱく)近衛前久(このえさきひさ)からの使いが書状を持参した。島津家はその祖・忠久(ただひさ)が近衛家に仕えていたといわれ、両家のつながりは深い。近衛前久はこの3ヵ月後、信長の意を受けて九州に下向するので、それに関する書状だった可能性もある。そして、4月17日以来、50日に及んだ家久の京都の日々も終わりを告げた。

6月8日 国許へと出立。紹巴、昌叱とともに東寺に行き、弘法大師に御霊供(おりょうぐ)を供えるのを拝見した。今井宗久(いまいそうきゅう)という入道の所に寄った後、紹巴が持参してくれた食事を一緒にとる。そして紹巴、昌叱に暇乞いをすると、古田佐介(ふるたさすけ)という人が下鳥羽まで送ってくれた。途中、恋塚、鳥羽院の跡があり、やがて秋の山。下鳥羽から舟で淀川へ。きつね川に舟を着けて、石清水(いわしみず)八幡に参拝。ここまで佐介が従者をつけてくれた。さらに進み、その夜は茨木村の藤持寺の観音堂で仮寝をした。

京都を出立する日、紹巴と昌叱が東寺まで見送ってくれた。彼らは弁当を家久らと一緒に食べ、別れを告げる。どんな言葉を交わしたのだろう。家久らを下鳥羽まで送った古田佐介は、後年、茶人として名を残す「へうげもの」こと古田織部(おりべ)である。当時、織部は織田家に仕え、茶よりも連歌に熱中していたらしい。おそらく紹巴に頼まれて送ったのだろう。なお恋塚は平安時代の「袈裟(けさ)御前、文覚(もんがく)の悲劇」ゆかりの寺、鳥羽院、秋の山は鳥羽離宮跡である。

山陰道へ

その後、家久一行は吹田(すいた)を過ぎて尼崎から舟に乗り、堺を訪れる。10日に住吉大社に参詣し、堺の町を見物して11日には尼崎に戻った。そして信長配下の荒木村重(あらきむらしげ)の石蔵普請を見物。侍たちが自ら石を運んでいる姿に驚いている。12日には北に向かい、池田宿を過ぎて、月の瀬(現、兵庫県三田市下槻瀬付近)に至った。山陰道の旅の始まりである。

6月13日 朝出立。高平(たかひら)には2ヵ所の関があった。ちょうどこの時、山賊が出るからといって土地の者が走って行く。われらを襲ってくるかと胆を冷やしたが、何事もなく通り過ぎた。丹波国(現、京都府中央部、兵庫県東部)の大野原を見物。それから駒鞍(こまくら)という峠越えで、草鞋(わらじ)を履いて越える。途中、出城(でじろ)らしきものがあった。明野(あけの、現、丹波篠山市)という市場がある。通町の田村豫三次郎(たむらよそじろう)の屋敷に一泊。
6月14日 午前8時頃出立。追入(おいれ、現、丹波篠山市)という村で加治木(かじき、現、鹿児島県姶良〈あいら〉市)衆の山本坊に出くわす。箱谷(はこや、現、丹波篠山市)で支度をし、金(かね)山を越えて氷上(ひかみ)郡に入ると、猪の山(猪ノ口山か?)に城があった。また貝田(かいた)城、芦田(あしだ)城もある。小倉(おぐら、現、丹波市)の町の茶やの彦三郎の屋敷に一泊。

「池田~小倉」推定ルート

丹波・但馬・因幡・伯耆・出雲

八木豊信と山中鹿助

丹波国の山々を越えて北上する家久一行は、ほどなく但馬国に入る。

6月15日 出立。三里坂を越えると、但馬の太田垣の城(竹田城、朝来市)があった。簗瀬(やなせ、現、朝来市)の市場を通り、垣屋(かきや)殿(光成〈みつなり〉)の高田町で一休み。一日坂を越えて、八木殿(豊信)の町(現、養父〈やぶ〉市八鹿〈ようか〉町八木)に到着。善左衛門という者の屋敷に一泊。

およそ1ヵ月前の5月13日、家久は京都で八木豊信の弟・隠岐守と連歌会で顔を合わせている。八木において豊信と接触があった記述はないが、後に豊信が家久に祐筆(ゆうひつ)として仕えたとする説があり、それが事実ならばこの時、日記に記されていない何らかのやりとりがあったのかもしれない。翌16日、氷ノ山(ひょうのせん)を越えて因幡国(現、鳥取県東部)に入った家久一行は、舂米(つくよね、現、鳥取県八頭〈やず〉郡若桜〈わかさ〉町)という村の寺で仮寝をする。

6月17日 若桜の町を通ると、若桜鬼ヶ城の城主・矢部(やべ)氏が2、3日前に山中鹿助(やまなかしかのすけ、鹿介)の謀略で生け捕られ、鹿助が城主となったという。矢部氏を城に閉じ込めた兵たちと行き会った。さらに行くと丹比(たんぴ)殿の城があり、また半廻の城があった。石井大膳介(いしいだいぜんのすけ)という者が峯入り(山中での修行)を行うと修験者姿になっているところに出くわし、その人と船岡(現、八頭郡八頭町)で夜通し昔のことを語り合った。宿は助左衛門。

山中鹿之助幸盛(部分、『芳年武者无類』、国立国会図書館デジタルコレクション)

山中鹿介といえば、主家である尼子(あまご)家再興に尽力した忠臣として知られる。当時、鹿介は但馬の山名氏を頼っていたが、山名氏が尼子を滅ぼした毛利(もうり)氏と結んだため、鹿介は謀略をもって6月14日から15日頃に若桜鬼ヶ城を攻略した。家久の2、3日前という記述とぴったり符合している。石井大膳介と親しく語り合ったのは、同じ修験者(巡礼)姿だったからだろうか。

「小倉~船岡」推定ルート

大山寺から出雲大社へ

6月18日の朝、大膳介と別れた家久一行は、鳥取城や鵯尾(ひよどりお)城(いずれも鳥取市)などを目にし、途中、吉岡温泉に浸かって、気高(けたか)の郡下坂本(現、鳥取市気高町下坂本)に宿泊。翌19日は夜中に出立して青谷(あおや)の町を経て、水無瀬の浜から舟を出し、伯耆国(現、鳥取県西部)の大塚(現、大山〈だいせん〉町)に着いた。

6月20日 朝出立。「はやなせ」という城があった(八橋〈やなせ〉城の端城か?)。その町を過ぎると、安芸の浅猪那信濃(あさいなしなの)という者と出会い、(巡礼姿の)我らにわらじ銭を喜捨してくれた。それから畑(はた)という所を過ぎるが腹痛が起きたため、九郎左衛門の屋敷に一泊。
6月21日 出立。午後2時頃、文光坊という寺に立ち寄って一休み。それから大山寺(だいせんじ)に参詣した。さらに行くと尾高(おだか)という城があり(現、米子市尾高)、その町を過ぎて米子という町に着く。豫三郎(よさぶろう)という者の屋敷に一泊。

翌22日は明け方から船で中海(なかのうみ)を渡って出雲国(現、島根県東部)に入り、白潟(しらかた、現、松江市)に船を着けて食事をとると、再び船で宍道湖(しんじこ)を西へ。湖の端に蓮(はす)が1町(ちょう、約3,000坪)にわたって咲き乱れており、まるで極楽を行くような心地であったという。平田(現、出雲市平田町)の町に一泊。翌日、家久一行は出雲大社に参拝する。

6月23日 出立し、杵築(きつき)の大やしろ(出雲大社)に参拝。大渡(おおわたり)という川(飯梨〈いいなし〉川)で渡し賃を取られ、埼田(実際は田儀〈たぎ〉)の清左衛門(実際は清右衛門)の屋敷に一泊。下総(しもうさ、家臣の一人だろうか)が酒を飲んだ。

伯耆の名刹(めいさつ)大山寺や出雲大社を訪れながら、感想が全く記されていないのも家久らしいというべきだろうか。むしろ宍道湖に咲き乱れた蓮の方が、強く印象に残ったようだ。翌日(24日)、家久一行は羽根(現、大田市波根町)を過ぎ、石見国(現、島根県西部)に入る。

「船岡~田儀」推定ルート

長い旅の終わり

国許の者たちが続々と

6月24日 (中略)簗瀬(やなせ、現、邑智〈おおち〉郡美郷〈みさと〉町)の宿を過ぎ、大田村(現、大田市)の門脇対馬(かどわきつしま)という人の所に立ち寄る。さらに進んで石見銀山の清左衛門という人の屋敷に一泊。夜に入り、加治木の早崎助十郎、久保田弥彦右衛門が酒を持ってやって来た。また従者の一閑(いっかん)が瓜を食べる。
6月25日 出立すると、肝付新介(きもつきしんすけ)と行き合う。加治木の衆が30人ほど一緒だった。西田(にした、現、大田市温泉津〈ゆのつ〉町)を過ぎ、湯津に着く。小濱の神社の拝殿で休憩していると、伊集院(現、鹿児島県日置市伊集院町)の大炊左衛門(おおいさえもん)が酒と瓜を持ってきた。温泉に入っていると、喜入(きいれ)殿(季久〈すえひさ〉、島津義久の家老)の舟に乗った者たちや秋目(あきめ、現、鹿児島県南さつま市坊津〈ぼうのつ〉町)の舟衆、東郷(現、鹿児島県薩摩川内〈さつませんだい〉市)の舟衆、白羽(しらは、同)の舟衆らが酒を持参する。小濱に戻り、出雲の男女の子どもたちが能とも神舞ともわからぬ踊りと、出雲の歌を歌うのを見物(以下略)。

石見国に入ったとたんに、家久の前に次々と国許の者たちが酒を持って現れる。彼らは舟衆、つまり舟運や交易を行う者たちだが、このタイミングで続々と家久の許に集まったのは偶然ではあるまい。間もなく九州に入る家久を迎えに来たのだろうし、それは薩摩までの護衛も兼ねていたのではないか。九州で勢力を広げる島津義久の弟が上方から帰還中と知れば、他の九州の大名がよこしまな考えを抱かないとも限らず、家久の身を案じた義久が迎えに行くよう命じたのかもしれない。

「田儀~小浜」推定ルート

平戸へ

家久一行は6月27日に濱田(現、浜田市)に移り、それから約2週間、船待ちで逗留し続ける。その間は連日、国許の舟衆が酒を持参して酒宴となり、時に宿屋の家族や船頭をも巻き込んで、乱舞ありの飲んだくれる日々となった。濱田を出港したのは、7月10日の午後4時頃である。

7月11日 船中昼より風が強くなり、夜中にはなお大風となって水夫らも困るほどで、帆を下げ、波に任せて進んだ。
7月12日 午前10時頃に辛うじて平戸(現、長崎県平戸市)に着く。(以下略)
7月13日 平戸港の南蛮船に乗り込んで見物する。南蛮より豊後殿(大友宗麟〈おおともそうりん〉)に進呈する4匹の虎の子が珍しかった。帰ると加治木衆の彦太郎という者が酒樽と食べ物を持参。また平松七郎左衛門(ひらまつしちろうざえもん)という使者が、肥州(松浦隆信〈まつらたかのぶ〉)からということで、酒樽2つと肴を持ってきた。

強風で船が流され、浜田から一気に肥前(現、長崎県、佐賀県)の平戸にまで至った家久一行。翌日には平戸港に碇泊する南蛮船に乗り込み、豊後(現、大分県)の大友宗麟に献上するという虎の子どもを見物している。また領主の松浦肥前守隆信より、酒と肴を贈られた。家久一行が平戸港に入った知らせは、すぐに松浦隆信に伝わっていたことがわかる。

「小浜~平戸」推定ルート

松浦隆信のもてなし

7月14日 (中略)平戸の町や寺などを見物していると、普門寺で肥州と出会う。中に招かれるが遠慮していると、重ねて来るように申されるので、仕方なく肥州と、同席していた舎弟に挨拶をした。寺から帰ると、肥州が礼に来られた。その後、宿で酒盛り。肥州から太刀を頂いた。
7月16日 (中略)晩には普門寺に肥州から招かれ、多くの庭(庭とは何かの符丁か?)が来て、山口の舞を舞う者も3人来た。それから肥州の館に同行し、子息などとも対面するなりゆきとなった。
7月18日 正午頃に船で出立。肥州が船で見送ってくれ、拙者は肥州の船に乗り移り、別れの酒盛りをした。やがて暇乞いをし、自分たちの船に戻ると、酒樽や食べ物など種々の肴を持たせてくれ、瀬戸渡(せとのと)という所まで、肥州が見送ってくれた。それより九十九島を左に見て過ぎ、右には五島(列島)。福田、礼崎(長崎)は夜中に通過した。

平戸の風景。寺の奥に教会の塔が見える(平戸市)

家久の日記の中で、領主と面会した記録があるのは、明智光秀と松浦隆信のみである。松浦氏は形式上、肥前守護である大友宗麟の配下であった。守護の家柄である島津氏から見れば松浦氏は在地領主であり、そのため家久は、宗麟を「豊後殿」と記す一方、隆信を「肥州」と記して、「殿」という敬称をつけなかったのだろう。普門寺は松浦氏の菩提寺。館で対面した隆信の子息とは、鎮信(しげのぶ)だろうか。隆信は突然現れた家久一行に、できる限りのもてなしをしたようである。

千秋万歳

7月19日 樺島(かばしま、現、長崎市野母崎樺島町)で夜を明かし、左に志岐(熊本県天草郡苓北町)、天草を見て過ぎると、大炊左衛門が粥をつくった。右に甑(こしき)島、左に阿久根が見え、京どまり(鹿児島県薩摩川内市)には午後6時頃に到着。小舟に乗り換えて(川内川を)高江にさかのぼり、山田新介方に宿泊。
7月20日 夜中に出立。隈之城(くまのじょう、薩摩川内市)で夜を明かし、清藤土佐介(きよふじとさのすけ)の所に立ち寄ると、城中の者たちが酒を持参し、千秋万歳を祝った。それから串木野に至るまで、途中で帰還を祝ってくれる人々の数知れず、祝いの酒も数え切れない。湛枝の薬師に参拝、色々あって、さらに御諏方(すわ)に参拝して宿に着くと、近所の僧俗男女、東郷から中郷にかけて、往来の人々が「めでたい、めでたい」と言ってくれた。ここに書きとどめておく。

「平戸~串木野」推定ルート

平戸から樺島を経て、京泊まで海路を南下した家久一行は、さらに小舟に乗り換えて、往路でも通った川内川を東にさかのぼり、さらに串木野へと南下。沿道は家久の無事の帰還を祝う人々で満ち溢れた。家久は笑顔で応えたことだろう。5ヵ月に及んだ家久の長い旅は、ようやく幕を閉じた。

おわりに

戦国時代に活躍した武将が、自ら記録した旅日記はそう多くない。『中務大輔家久公御上京日記』は、当時の旅がどんなものか、人々がどんな言葉を使い、交通の便はどうであったのかなどが臨場感をもって生き生きと伝わってくる貴重な史料である。また政治的思惑から離れた文化人としての交流や、客をもてなす様子から、当時の人々の生き方の一端も垣間見える。現代とは異なり、戦乱、災害、病などで簡単に命が失われる時代である。旅先で交流した相手とは、別れれば生涯再会する機会は訪れないだろう。だからこそ、今という瞬間を大切に生きる。まさに「一期一会」を、誰もが無意識に自覚していたのかもしれない。なお前編と合わせて随分長い記事になってしまったが、それでも端折った部分は相当ある。また独特な言い回しに文意がとれず、悩んだ箇所も少なくないので、誤りもあるかもしれない。興味を持たれた方は、ぜひ原文を覗いてみて頂きたい。家久の旅に引き込まれるはずである。

参考文献:村井祐樹『中務大輔家久公御上京日記』(東京大学史料編纂所所蔵)、新名一仁『島津四兄弟の九州統一戦』(星海社新書)、両角倉一『里村紹巴小伝』、大石隆三『肥後の連歌師桜井素丹』、ブログ『徒然草独歩の写日記』内の「家久君上京日記」他

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。