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2020.08.14

「無礼な奴はぶん殴れ!」薩摩から京都を目指す、島津家久の戦国あばれ旅

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島津家久(しまづいえひさ)という武将をご存じだろうか。戦国の九州を席捲した島津4兄弟の末弟で……。といってもピンとこなければ、平野耕太の人気コミック『ドリフターズ』の主人公・島津豊久(とよひさ)の父親、といえば何となくイメージできる人もいるかもしれない。コミックの島津豊久は関ヶ原合戦で戦死せずに、異世界に飛ばされて大暴れするが、父親の家久は実世界で大暴れしている。そんな家久が29歳の時に上京した際の「あばれ旅」の記録を、本記事では超訳風にして紹介してみたい。

平野耕太『ドリフターズ』(少年画報社)

「この度、島津中務大輔(なかつかさだゆう)家久は上洛することになった。薩摩(現、鹿児島県西部)、大隅(現、鹿児島県東部)、日向(現、宮崎県)の戦乱が収まり、家臣らの忠節のおかげで太守の島津義久(よしひさ)公が三国を無事に治めておられるのは、ひとえに神のご加護のゆえである。そこで御礼に伊勢神宮や京都の愛宕(あたご)山をはじめ、諸神社仏閣に参詣するため、天正3年(1575)2月7日、御館(おやかた)様(義久)に旅に出るお許しを頂いた」

そんな書き出しで始まる旅日記がある。『中務大輔家久公御上京日記』(東京大学史料編纂所蔵)と呼ばれるもので、島津家当主義久の弟・家久が、京都や伊勢をめぐる約半年間の旅の日々を記録したものだ。当時の旅の様子や風俗を知ることができる、貴重な史料とされる。

神社仏閣の参詣のためといえば殊勝(しゅしょう)な心がけに聞こえるが、すでに戦場経験も豊富な29歳の家久の旅の目的が、それだけであるはずもない。よく酒を飲み、理不尽な相手はこらしめ、多くの有名人と出会い、古典ゆかりの地を訪ね、見聞を広める充実した旅であったようだ。旅の紹介に入る前に、まず当時の島津氏について簡単に触れておこう。

桜島(鹿児島市)

戦国島津4兄弟と家久

島津家中興の祖

南九州の氏族として知られる島津氏の歴史は鎌倉時代にまでさかのぼる。祖である島津忠久(ただひさ)が、鎌倉殿の源頼朝(みなもとのよりとも)より薩摩・大隅・日向の守護に任ぜられたことに始まるという。忠久はもともと京都の公家・近衛(このえ)家に仕えていたが、頼朝の御家人でもあった。南九州の薩摩や大隅といえば古代、隼人(はやと)と呼ばれる勇猛果敢な人々がいて、たびたび中央に反乱を起こした土地柄。そこに島津氏は根を下ろし、地元の人々と同化しつつ勢力を拡大していく。

源頼朝

しかしその後、一族内の争いや国衆(くにしゅう、地元の小領主)の抵抗などもあり、戦国期の16世紀前半には瓦解寸前の状況にまで追い込まれていた。そうした中で一族内の対立に決着をつけ、島津本宗(ほんそう)家を継承したのが、島津忠良(ただよし)・貴久(たかひさ)父子である。忠良は日新斎(じっしんさい)の号で知られ、息子の貴久とともに島津家中興の祖とされている。

島津4兄弟

貴久には、4人の息子がいた。一般に「島津4兄弟」として知られており、その末弟が本記事の主人公・家久である。ちなみに4兄弟は長男が当主となる義久(よしひさ)、二男が義弘(よしひろ)、三男が歳久(としひさ)、四男が家久。この中で今日、最も有名なのは二男の義弘だろう。武略に優れ、朝鮮出兵での活躍や関ヶ原合戦終盤での「敵中突破」で、その名を天下に轟かせた。

島津義弘像(日置市)

しかしながら、実は義弘を上回る戦(いくさ)上手と呼ばれたのが末弟の家久である。今回取り上げる旅日記からずっと後年のことになるが、龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)を討ち取った沖田畷(おきたなわて)の戦いでの逆転勝利や、豊臣(とよとみ)軍先鋒を粉砕した戸次川(へつぎがわ)の戦いの鮮やかな勝利は、家久の采配(さいはい)によるものだ。

家久の横顔と三州回復

家久は天文16年(1547)の生まれで、母親は3人の兄とは異なり、父・貴久の側室である。通称は又七郎で、後年、中務大輔を称した。長兄の義久とは14歳、義弘とは13歳、歳久とは11歳も年が離れている。初陣は永禄4年(1561)の大隅廻(めぐり)城(現、霧島市)攻防戦で、15歳の家久は敵方の工藤隠岐守(くどうおきのかみ)を討ち取る武功を立てた。その後、島津家きっての和歌の名手・樺山善久(かばやまよしひさ)の娘を妻とし、和歌や古典への造詣も深めている。なお元亀元年に生まれた嫡男が、豊久である。

島津氏の家紋「丸に十の字」

さて、4兄弟の活躍で島津氏は悲願であった三州(薩摩・大隅・日向)回復を実現し、さらに九州統一に向けて怒濤の進撃を始めることになるのだが、それはもう少し先の話。家久が上京する天正3年頃の状況はといえば、5年前の元亀元年に薩摩を統一し、2年前の天正元年に大隅を統一。いよいよ、日向統一を目前としている頃であった(ちなみに日向統一は翌天正4年に実現する)。そんな島津家の上り調子の時に、家久は旅に出かけるのである。

九州における南の三州

では、家久主従とともに薩摩から京都・伊勢への旅に出かけるとしよう。日記は今のところ現代語訳がないので、基本的に原文をかみくだいて訳し、必要に応じて解説を加えるかたちで進めることとしたい。なお家久の旅は軍勢を率いたものではなく、通過する土地の領主にも知らせていない、お忍びである。この時、家久一行がおよそ何人で、どんな格好(かっこう)をしていたかについては日記の中にヒントが出てくるので、追い追い紹介しよう。

旅の始まり

初日は飲んで、食って、騒いで、酔って(串木野~久見崎)

2月20日、正午頃に居城の串木野(くしきの)を出発。麓(ふもと、島津氏独特の郷士〈ごうし〉集落)にわが老母や妻子が暮らすささやかな屋敷があり、別れの酒宴を開いた。薩摩山付近には、菱刈(ひしかり)衆や隈城(くまのじょう)衆の屋敷があり、そこで新納右衛門佐(にいろえもんのすけ)殿より餞別(せんべつ)に脇刀を預かる。さらに川内(せんだい)川下流の開聞(かいもん)に至ると、川の渡しに平佐(ひらさ)の者たちが酒を持ってきてくれた。川舟10艘ほどで新田(にった)神社の鳥居の前まで渡ると、今度は東郷(とうごう)、中郷(なかごう)の者たちが、数えきれないほどの食べ物の入った籠を持ってきて、酒宴となる。

串木野の武家屋敷跡(いちき串木野市)

その後、新田神社に参拝し、社頭にて酒を三献。さらに正宮寺にも参詣して、酒を少々飲む。鳥居の前から舟に揺られて、食って騒いで大いに酔い、歌を吟じるなどいろいろやった。舟で高江に至ると、山田新介有信(やまだしんすけありのぶ)が用意した休み処があり、湯漬けを食べて、酒を少々飲む。その日は久見埼(ぐみざき)の港の膳介(ぜんすけ)という者の屋敷に宿泊。それからもまだまだ酒の樽やら肴やらが届いたが、もう面倒なので省略。

鹿児島市から西北に約30km。現在のいちき串木野市に家久の居城・串木野城があった。家久の上京の旅はここから始まる。麓とは山すそのことではなく、島津氏独特の城下町的な郷士集落を意味した。家久の家族も麓の屋敷で暮らしていたようだ。串木野を出発した家久一行は、北に約11kmの開聞(現、薩摩川内市)に向かい、そこから川舟で川内川対岸に渡って、新田神社に参拝。さらに舟で川を西へ下り、高江を経て、河口の久見埼(現、薩摩川内市)に至っている。しかし、それにしてもよく酒を飲む。行く先々で地元の家臣らの手厚いもてなしを受けたのだろうが、いい気分で舟旅を楽しんだ旅の初日であったようだ。

「串木野~久見崎」推定ルート

各地の城を望見し、温泉に浸かる(久見崎~平野)

2月21日、久見埼を出航。浦々に泊まりながら、25日まで海路を北上する。舅(しゅうと)の和歌の名手・樺山善久より歌が届くと歌を返し、宿では毎晩のように地元衆のもてなしを受けて酒宴、時には船上でも酒宴となった。25日の明け方、薩摩を出て肥後(現、熊本県)の松橋(まつばせ、現、宇城〈うき〉市)の浦に着き、そこからは陸路を北上する。

2月25日、(中略)左の方に宇土(うと)殿(名和顕孝〈なわあきたか〉)の城(現、宇土市)が見え、なお行くと、右の方に甲斐(かい)氏の隈庄(くまのしょう)城(現、熊本市)があった。舞の江(まいのえ、現、熊本市)という渡しでは、身分を問わず皆が渡し賃を取られる。大渡(おおわたり)や川尻(かわじり)という関所でも通行料を取られた。その日は廣瀬右京亮(ひろせうきょうのすけ)の子・源三郎という者の屋敷に宿泊。

2月26日、午前8時頃に出発。城親賢(じょうちかまさ)殿の隈本(くまもと)城(現、熊本市)を望む。午後2時頃、鹿子木(かのこぎ、現、熊本市)という町に至り散策していると、地頭職の大野治部大夫(おおのじぶだゆう)殿(忠宗〈ただむね〉)が追いついてきたが、ほどなく別れた。右の方に合志(こうし)殿(親為〈ちかため〉か)の合志城(現、合志市)が見え、遠くには赤星(あかほし)殿(統家〈むねいえ〉)の菊池(きくち)城(現、菊池市)を望むことができた。その日は清水左近という者の屋敷に一泊。

隈本古城跡(熊本市)

2月27日、午前8時頃に出発。今藤(現、熊本市)という村を過ぎると、千破(せんば)の代表と称する木場三介や、その舅の藤左衛門ら猟師たちがいた。さらに進んで山賀(やまが、現、山鹿市)という町に着くと、あちこちに出湯(いでゆ)がある。そこで温泉に浸かってからまた歩き、平野(ひらの、現、和水町)の池田右京という者の屋敷に一泊。

山鹿温泉(山鹿市)

歩きながら、家久は沿道の肥後の城をチェックしている。戦上手の彼らしい情報収集なのだろう。城氏や赤星氏は菊池氏の一族で、当時は豊後(現、大分県)の大友(おおとも)氏の傘下にあった。赤星統家は、のちに家久とともに沖田畷で戦うことになる。また、私的な関所で通行料を取られたことを記録しているのは、少々腹立たしく感じたからだろうか。それが、筑後(現、福岡県南西部)で起きる事件の伏線となったようだ。

「松橋~平野」推定ルート

無礼な関守に怒り、天候に翻弄される

こん、馬鹿すったんがあッ!(平野~高良山)

2月28日、天候が悪かったが、午後2時頃になって晴れたので出発。南の関(現、南関町)では、関所で足止めされた。我々50人ほどは通過できたが、後に続く60人ほどが止められ、なす術のなかったところ、先達(せんだつ)の南覚坊(なんかくぼう)のとりなしで全員が通過することができた。その夜は北の関(現、みやま市)の、小市別当(こいちのべっとう)の屋敷に一泊。

大津山の関(南関町)

2月29日、関所を避けるため暗いうちに出発。5、6ヵ所の関所を避けて脇道を行くと、右に蒲池(かまち)殿(鑑盛〈あきもり〉)の城(柳川〈やながわ〉城)があった。さらに進むと関所があり、関守(せきもり)が余りに厳しく詮索し、無理難題をふっかける。これに家来たちが怒り、関守をぶん殴って黙らせた。そして何事もなく全員通過し、筑後の町(現、久留米市)を経て高良山圓輪坊(こうらさんえんりんぼう)に宿泊。

肥後から筑後に入った家久一行は、私設関所の多さに辟易(へきえき)している。南の関では一行の約半数60人が足止めされた。これによって家久一行が、100人を超す数であったことがわかる。島津家当主の実弟で、名の通った武将の旅である以上、万一に備え、そのぐらいの警固は当然だったかもしれない。いずれも屈強な家臣らであろう。また関所の足止めを解いたのは、一行の案内人役である南覚坊という修験者(しゅげんじゃ)であったようだ。旅のアテンド、宿泊先の手配などを行ったと思われる南覚坊は、この後も何度か登場する。

柳川城の蒲池鑑盛は、大友氏に属する筑後の有力武将。義心に篤い名将として知られる。そして柳川城近くの関所で事件は起きた。関守の無礼な態度に家来が怒り、「打ちなやました」と原文にある。これは一発ぶん殴ったどころではなく、ぼこぼこにしたというニュアンスらしい。その際「こん、馬鹿すったんがあッ(この馬鹿野郎が)、無礼(じも)ね奴(わろ)はぶん殴れ!」と言ったかどうかは知らないが、家久は続けて「何事なく通り」と記しており、関守をノックアウトしたことなど気にも留めていない。血気盛んな薩摩隼人ならでは、だろうか。


「平野~高良山」推定ルート

風と大雨に悩まされ(高良山~舟木)

3月1日に高良山の神社に参拝。それから筑前(現、福岡県北西部)に入り、3月4日には招きを受けて、修験道場として名高い豊前(現、福岡県東部、大分県北部)の彦山(ひこさん、英彦山)に参詣した。おそらく南覚坊が、前もって彦山に知らせていたのだろう。彦山で歓待されて2泊後、さらに一行は北上を続け、3月10日に小倉(現、北九州市)に至る。

3月10日、午前8時頃に曽祢(そね、現、北九州市)を出発。午後2時頃に小倉の町に着いた。小倉城主の高橋鑑種(たかはしあきたね)殿の館を外から見物後、舟に乗る。右手に赤坂という村があり、続いてねぶたの松があった。これは平家の時代からあるといい、今まで見たこともない立派な松だった。さらに行くと大裏(だいり、大里)という町があり、小森江、四の瀬という村があって、その並びに文字(もじ、門司)の城があった。また左手には福島(彦島)という島があり、周辺には漁船が多く、漁をしているらしい。やがて長門(現、山口県西部)の赤間(あかま)が関(現、下関市)の南部(なべ)に至り、桜尾の湊に舟を着けて上陸。関の町や南部の町を見物し、関の町の左馬(さま)という者の屋敷に一泊。

関門海峡(下関市)

小倉城主の高橋鑑種は大友氏の配下だが、かつて中国の毛利(もうり)氏に味方して大友氏と戦った人物である。家久らはいよいよ九州から本州に上陸。ねぶたの松を見て、源平合戦に思いを馳せただろうか。一行は関の町に着いた翌日の11日、海路、安芸(現、広島県西部)の宮島まで行こうと船賃を払うが、風向きが悪く船が出ない。仕方なく時間をつぶし、14日の明け方にようやく出航するが、翌日、また風待ちの状態になってしまう。結局家久一行は15日、船賃を捨てて陸路に切り換えた。16日に長門の町を出発した一行は、その日、厚狭(あさ)村の山野井(現、小野田市)の膳九郎の屋敷に一泊するのだが……。

3月17日、天候が悪いので出発を見合わせていると、宿の主の膳九郎がひどく迷惑そうなので、午前8時頃に出発。しかし余りの大雨で、石丸(現、小野田市)という村で雨宿りするが、ここも良い顔をしないので、天候が回復した午後4時頃に出発。厚狭の町を通り、舟木(ふなき、現、宇部市)という町のえびす屋平左衛門(へいざえもん)という者の屋敷に一泊。えびす屋とはおそろしげな屋号だが(えびすには異民族の意味がある)、誠意のある人であった。

宿を貸してくれた者の機嫌をうかがい、大雨の中、出発しなければならない家久一行。雨宿りにも気を遣う。旅行者ならではの苦労だが、だからこそえびす屋の親身なもてなしが心に響いたのだろう。薩摩・串木野の殿様である家久にすれば、得難い体験だったのではないだろうか。

「高良山~船木」推定ルート

海賊の関所を経て、念願の宮島へ

あわや……家久のみ関所で足止め(舟木~富海)

3月18日、一行は周防(現、山口県東部)に入る。小郡を過ぎて、陶(すえ、現、山口市)の町に着き、太郎左衛門(たろうざえもん)という者の屋敷に一泊した。そして……。

3月19日、午前10時頃に出発。陶の町外れに役所公事(くじ)の関所があり、通行料を取られる。午後2時頃に松崎天満宮(現、防府天満宮)に着き、国分寺を見物すると糸ざくらがあった。また進み浮野(うけの、現、防府市)という町に至ると、ここは皆、檜物師(ひものし、木具類の職人)ばかりである。さらに進むと、兵士(ひょうし)公事と称する、海賊上がりの者たちの関所があった。通過しようとすると、一行の中で拙者のみが引き留められる。すぐに南覚坊が来て関守をとりなし、通ることができた。午後6時頃に富海(とのみ、現、防府市)という町に着き、かんの大夫という者の屋敷に一泊。

周防国分寺(防府市)

一行は、周防国府跡そばの防府天満宮や国分寺を見物しつつ進む。町外れには関所があり、通行料を取られた。中には海賊上がりの者たちによる関所もあり、なぜか一行の中で家久のみが足止めされる。南覚坊が相手の機嫌をとって事なきを得たが、一つ間違えばまた関守を「打ちなやまし」かねなかったかもしれない。危ない、危ない。その後、東に向かう一行が安芸に入り、念願の宮島に向かうのは4日後の23日のことである。

風流を解する一面(柱野~宮島)

3月23日、柱野(はしらの、現、岩国市)を午前8時頃に出発。河内(こうち、現、岩国市)という村を通り、御庄(みしょう)川の渡しで渡し賃を払う。また小瀬(おぜ)川でも渡し賃を払った。小瀬川を渡ると安芸国だという。小方(おがた、現、大竹市)という町に着き、船を頼んで宮島に渡る。海上から望むと浦々の遠く近くが霞んで見え、折しも小雨の降る様子は類のない景色であった。左に口和田(くちわだ、現、広島市)の町があり、舟を作っている。未完成で進水していない舟が52艘、船底板は数知れず並んでいた。

進んでいくとやせ松・こえ松という兵士公事(関所)があり、先にはもととり山と明神の池があった。池の島の岩上に見事な松が生え、(天下の名勝である近江〈現、滋賀県〉の)唐崎(からさき)の松もこうであろうかと話し合った。たかね、塩屋という村があり、その先に明神が御作りになったとされる橋柱という島が二つあった。右の方には明神が落とされた錦の袋が石になったものがあり、色は赤いままである。下がり松を過ぎたところに、宮島の大本の神様が鎮座しておわす。大本の神様は、今の厳島(いつくしま)明神に場所を御貸しになり、ご自身は小さな宮に鎮座されているという。庇(ひさし)を貸して母屋(もや)を、という例であろうか。宿は柳下太郎左衛門(やなぎもとたろうざえもん)。

安芸の宮島(廿日市市)

宮島に向かう船上からの景色を「浦々遠く近く打霞、折しも小雨打そそきたる躰(てい)、類なき景なり」と表現し、池の島に生える松を「唐崎の松」になぞらえて話すあたり、家久の和歌や古典への教養と風流心が伝わってくる。決して粗野な人物ではないのだ。宮島に上陸した一行は24日に厳島神社を参詣、本記事では割愛するが、家久は神社の様子を詳細に記録している。その日は中村兵庫助(なかむらひょうごのすけ)という者に引き留められ逗留(とうりゅう)、夜は酒宴となった。なお兵庫助が家久らに「此(この)順礼はよしある者(私はあなた方巡礼にご縁がある者)」と言って引き留めていることから、一行が巡礼の姿(笈摺〈おいずり〉と呼ばれる袖のない羽織を着ていたか、もしくは修験者の姿)であったことがわかる。修験者であれば、太刀を帯びていても不自然ではない。

「船木~宮島」推定ルート

毛利氏の広大な領地を抜けて

餅を食いながら備後へ(宮島~三原)

3月25日、一行は舟で宮島を発つが、兵庫助らが酒を持参して見送ってくれ、一緒に舟の上で小唄を歌うなどして楽しんだ。舟は廿日市(はつかいち、現、廿日市市)に着き、町の高みに築かれた穂井田元清(ほいだもときよ、毛利元就〈もうりもとなり4男〉)の桜尾(さくらお)城を望む。見送りの人々と別れ、東へ。26日には道を間違えて引き返し、27日には西条の四日市(現、東広島市)を過ぎて丘を越える際、17人の瞽女(ごぜ、盲人芸能者)とすれ違った。一行が備後(現、広島県東部)に入るのは29日のことである。

3月29日、朝出発。和田崎という町を過ぎると、左に高山(たかやま)という沼田(ぬた)の城(新高山〈にいたかやま〉城)があった。小早川(こばやかわ)殿(隆景〈たかかげ〉)の御座所であると地元の人がいう。その麓に沼田川が流れ、渡し賃を払った。さらに七日市、新町(現、三原市か)を過ぎると出川があり、皆、裸になって渡った。対岸に渡ったところで、従者の一閑(いっかん)から餅を渡され、食べる。片手に餅を持ち、何度も後悔しながらの道すがら、備後三原の又左衛門(またざえもん)という者の屋敷に一泊。

新高山城跡(三原市)

小早川隆景は毛利元就の3男で、兄・吉川元春(きっかわもとはる)とともに毛利本家を支えた名将である。前日の雨で水かさが増していただろう川を、裸になって渡った家久一行。その後、餅を食べながらの道中は、みっともないと思ったのか、何度も後悔するほど家久は嬉しくなかったらしい。翌4月1日に今津(いまづ、現、福山市)まで進んだ一行は、2日に鞆(とも、現、福山市)から船に乗る。なお、京都を追われた将軍足利義昭(あしかがよしあき)が、毛利氏を頼って鞆に亡命してくるのは、この翌年のことであった。

塩飽水軍の本拠地で蹴鞠(鞆~塩飽本島)

4月2日、出発。(中略)備後の鞆に着き、善左衛門(ぜんざえもん)という者を訪ねて、船の準備が整うまでの間、周辺を見物。鞆の城(村上水軍〈むらかみすいぐん〉の大可島〈だいがしま〉城)があった。やがて乗船し港を出ると、数知れないほどの島があり、その間を漕ぎ進む。左は備中(現、岡山県西部)、備前(現、岡山県南東部)、右には四国の阿波(現、徳島県)を遥かに望むことができた。それから塩飽(しあく)の島(本島〈ほんじま〉)に着き、東次郎左衛門(ひがしじろうざえもん)という者の屋敷に宿泊。

4月3日、塩飽本島見物。
4月4日、塩飽本島の甲生(こうしょう)という浦を見物。その後、福田又次郎(ふくだまたじろう)という人の館で鞠(まり)遊びをした。よく知らないが無方(むほう)鞠というものであろう。いずれの者も足を天に向けて高く上げ、見苦しいことはいうまでもない。

塩飽本島(丸亀市)から海を望む

家久一行は鞆から塩飽本島に渡ると、2日間滞在している。塩飽本島は村上水軍と並んで瀬戸内に勢力を誇った、塩飽諸島の「塩飽水軍」の本拠地であった。塩飽水軍は操船技術と造船技術に長けており、優れた水先案内人として活躍したという。また塩飽本島には笠島(かさじま)城があり、讃岐(現、香川県)の香川氏の一門である福田又次郎が城主を務めていた。家久一行は福田の館を訪ね、蹴鞠(けまり)をして遊ぶが、家久は足を高く上げるのは見苦しいと、気に入らなかったようだ。一行は5日に塩飽本島を発つ。

「宮島~塩飽本島」推定ルート

船旅中の出来事

海路、播磨へ(塩飽本島~明石)

4月5日、午後2時頃に船が出る。左は備前の児島(現、倉敷市)、右は四国である。やがて日比(ひび)の関、また直(のう)島の関という船が来て通行料を求め、船頭がこれに対処した。その夜は直島(現、直〈なお〉島町)というところに船を繋留する。

4月6日、夜明けに船が出る。西牛窓の関という兵船が一艘接近して、船頭が対処した。午後4時頃に牛窓(現、瀬戸内市)に船を着けたので、上陸して見物。ほどなく船が出て、その夜は大多府(おおたぶ)島(現、備前市)というところに船を繋留する。

牛窓(瀬戸内市)

4月7日、夜明けに船が出る。左に坂越(さこし、現、赤穂市)郷、次いで那波(なば、現、相生市)という村があった。播磨(現、兵庫県)の室(むろ)の津(現、たつの市)に午後4時頃、船を繋留。室を見物し源兵衛尉(げんべえのじょう)という者の屋敷に宿泊。

一行を乗せた船は海上の各関で通行料を支払いつつ、瀬戸内海を順調に進み、播磨に入った。7日には室の津に一泊。翌8日には明石(現、明石市)に着くが、副船頭が早船でどこかに出かけたので、その日は戻るまで待った。ところが明石で風待ちになってしまう。一行は9日から12日まで、兵庫の衆や堺衆らと、船内や近所の寺で酒を飲んで過ごした。そして待ちくたびれた頃に、再び事件が起きるのである。

またも、やらかす(明石~西宮)

4月13日、堺が混乱しているという噂があるので、我々が乗ってきた船は室の津に繫留中だと船頭が言う。そこで熊野衆、高野山の衆、日向衆らと南覚坊が相談し、別の岩屋(いわや、現、淡路市)の船を一艘借りることにした。すると岩屋船の船頭が「板を乗せる」と言う。我々は「乗せるな」と言って口論になり、水夫(かこ)の一人が汚い言葉でののしった。そして、なおも南覚坊と言い争うこの水夫の顔を、従者の一閑がぶん殴った。よい振る舞いである。気分を害した我らが「船を下りる」と言うと、他の乗客たちが「何も下りる必要はない」と言うので、乗ったままにした。午後10時頃に船が出る。進んでいくと、播磨の龍野城がある。夜通し船を漕ぎ続け、高砂(現、高砂市)のあたりで夜が明けた。

またも、やらかしてしまった。柳川近くの関守に続き、今度は明石で雑言を吐いた水夫をぶん殴る。しかも家久は悪びれるどころか、善きふるまい、つまり「よくやった」と殴った一閑を褒めるのである。巡礼の格好はしていても、彼らは誇り高き薩摩武士。喧嘩を売られて引き下がる選択肢は持ち合わせていないようだ。なお、堺が混乱している噂はまんざら誤報ではなく、織田信長による石山本願寺(いしやまほんがんじ)攻めのことを指している。

14日には明石の浦にある万葉の歌人・柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)のしるしの松や明石城を望みつつ進み、一の谷の源平合戦古戦場や、在原行平(ありわらのゆきひら)の悲恋伝説で知られる松風村雨の松を見て、兵庫(現、神戸市)の津に着く。兵庫は当時、摂津国(現、大阪府北西部、兵庫県南東部)であった。翌15日の西宮(現、西宮市)到着で、鞆からの船旅が終わる。船旅中に親しくなった奈良屋の彦三郎、松井甚介、藤次郎が西宮の町を案内してくれ、名物の酒や焼餅を味わった。さらに昆陽(こや)の寺で茶を頂き、名残を惜しみながら彼らと別れると、家久一行はいよいよ京都に向かうことになる。

「塩飽本島~西宮」推定ルート

信長配下の諸城、そして京へ

摂津の諸城と荒木村重(西宮~山崎)

4月15日、(甚介らと別れて歩き始めると)左に昆陽の池があり、続いて右に有岡(ありおか)という城があった。元は伊丹(いたみ)という城である(現、伊丹市)。さらに左に池田という城があるが(現、池田市)、これは壊されて廃城となっていた。瀬川という郷を過ぎ、西宿(にししゅく)村(現、箕面市)の弥五郎という者の屋敷に一泊。

4月16日、出立(しゅったつ)すると右に茨木(いばらき)という城があった(現、茨木市)。芥(あくた)川を渡ると、右に高槻(たかつき)という城がある(現、高槻市)。その日は山城国(現、京都府南部)山崎(現、大山崎町)の井上新兵衛という者の屋敷に一泊。

家久一行は、すでに織田信長の勢力圏に入っている。有岡城は信長配下で摂津守護の荒木村重(あらきむらしげ)の城。村重はこれから3年後、信長に叛旗を翻す。また池田城が廃城になったのは一般にこの5年後といわれているので、天正3年時点で「割り捨られ候」とする家久の記録は興味深い。茨木城は中川清秀(なかがわきよひで)、高槻城は高山右近(たかやまうこん)が城主を務め、いずれも荒木村重に従う立場である。そして一行は山城国へ。

嵯峨野から愛宕山へ(山崎~愛宕山)

4月17日、出立すると左に小倉の明神(現、小倉神社)の鳥居があり、続いて右に勝龍寺(しょうりゅうじ)城(現、長岡京市)という細川兵部大輔(ほそかわひょうぶだゆう)殿(藤孝〈ふじたか〉)の城があった。なお行くと左に松尾(まつお)大社に法輪(ほうりん)寺(いずれも京都市)。その辺に小督(こごう)の局(つぼね)が隠れ住んだという跡のみがある。続いて嵐山、近くに戸無瀬(となせ)の滝があった。大井川を渡り、天龍(てんりゅう)寺門前の桜の根元に、小督の局の石塔がある。天龍寺の近くには芹川が流れ、また背後には亀山があった。嵯峨野(さがの)の町でしばらく休憩後、清瀧(きよたき)川で祓(はらい)を受けてから愛宕山に登り、参詣する。愛宕山白雲(はくうん)寺の五つの宿坊を見物し、長床(ながとこ)坊に宿泊。

愛宕山の愛宕神社。武の神として武将たちから尊崇された(京都市)

細川藤孝の勝龍寺城を横目に、家久一行はいよいよ嵯峨野から京都に入る。小督の局は『平家物語』などで知られる悲劇の女性で、箏(そう、こと)の名手。高倉(たかくら)天皇の寵愛を受けたことで平清盛の怒りを買い、宮中から追われた。天皇が密かに遣わした源仲国(みなもとのなかくに)が嵯峨野で笛を吹くと、見事な「想夫恋(そうぶれん)」の曲で応えたという。家久も、そんなエピソードを思い出していたのだろう。そして一行は、今回の旅の目的地の一つ、愛宕山に参詣。一泊し、百味供養(ひゃくみくよう、平安無事の御礼を述べる儀式)を行うが、簡単には終わらないというので、一行は南覚坊のみを残して、翌18日早朝に下山している。

「西宮~愛宕山」推定ルート

織田信長の軍勢に出くわす

嵯峨野から京都市中へ

4月19日、嵯峨野を見物。まずは二尊院。そばには西行(さいぎょう)の庵室の跡があった。その東に野々宮(ののみや)神社。宿に戻ると愛宕山より百味の札を使いの僧が持ってきてくれたので、御礼に酒をご馳走する。午後4時頃、嵯峨野の釈迦(しゃか)堂(清涼〈せいりょう〉寺)前で祭礼があり、丹波(現、京都府中央部、兵庫県東部)の能役者・日吉大夫(ひよしだゆう)が来て、舞台などを準備するが、大雨のため釈迦堂内で能を演じた。

4月20日、出かけると左に広沢池、右に千代の古道(ふるみち)があった。さらに行くと御所の御影堂(みえいどう、仁和〈にんな〉寺)があり、北野天満宮に参拝する。上京(かみぎょう)に行き、細川殿の館を見物するが、今は荒れ果てた跡のみである。下京(しもぎょう)の与介(よすけ)という者の親の屋敷に一泊。仏具商であった。

北野天満宮(京都市)

家久一行の京都滞在は50日近くに及び、その間、精力的に見物しているが、その最初は嵯峨野であった。二尊院、野々宮神社、さらに釈迦堂内で観能。翌日は北野天満宮から市中に繰り出し、室町幕府の管領(かんれい)細川氏の荒れ果てた館跡を見て、栄枯盛衰を感じたのだろうか。そして21日、京都滞在におけるハイライトシーンの一つを迎える。

17ヵ国の大軍

4月21日、連歌師の里村紹巴(さとむらじょうは)を訪問。紹巴の高弟である心前(しんぜん)の屋敷を貸してくれたので、京都の宿と定めた。

さて、織田上総(おだかずさ)殿(信長)が大坂の陣から引き上げてくるのを、心前とともに見物。下京から上京へ、馬廻(うままわり)の衆を引き連れ、宿所の相国(しょうこく)寺に向かう。幟(のぼり)旗は9本で、黄礼薬(永楽)という銭の形を幟の紋としてつけている。上総殿の前には母衣(ほろ)の衆が20騎いて、母衣の色は様々であった。母衣は弓箭(きゅうせん)に覚えのある者に許されるという。

馬廻の衆は100騎ほどで、引き上げの行軍ではあるものの各々鎧(よろい)をまとい、また馬面(ばめん)や馬鎧をつけたり、虎の皮を馬に着せている者もいる。そして馬母衣、尾袋(おぶくろ)などをした馬が3頭、上総殿の乗り換え用として用意されていた。上総殿は皮衣をまとい、馬上で居眠りしながら通って行った。軍勢は17ヵ国から集められており、総勢何万騎に及ぶのか見当もつかないという。

織田信長像(岐阜市)

連歌師の里村紹巴は、当時第一級の文化人。そんな紹巴がなぜこの時、薩摩島津家当主の弟である家久を歓待したのだろう。明確な理由はわからないが、一つの可能性として、島津家に仕える連歌師の高城珠長(たかきしゅちょう)が紹巴の弟子であり、珠長が師匠の紹巴に京都滞在中の家久の面倒をみてくれるよう頼んだのかもしれない。あるいは珠長にそれを依頼したのは当主の義久と、家久の舅で和歌の名手の樺山善久だったとも考えられる。紹巴は当時52歳。中央政界に顔がきく彼を通じて、家久はさまざまな人物と出会うことになる。

そして紹巴と初対面のその日、家久は京都に帰還する織田信長の軍勢を目撃する。大坂の石山本願寺攻めから引き上げてきたところだが、その威容、きらびやかな装いと圧倒的な数に息をのんだようだ。そして肝心の信長はといえば、なんと馬上で居眠りしていた! それを家久がどんな表情で眺めていたのか、想像するのも楽しい。なお信長はこの直後に岐阜を経て、長篠(ながしの)の戦いに臨むのである。

『上京日記』後半について

さて、薩摩・串木野を出発して京都に到着するまでで、『中務大輔家久公御上京日記』の内容のほぼ半分を紹介した。後半の家久は、里村紹巴と親しい明智光秀(あけちみつひで)に出会い、伊勢神宮に赴き、松永久秀(まつながひさひで)が築いた大和(現、奈良県)多聞山(たもんやま)城を訪れ、往路とは異なる日本海側のルートから帰途につくことになる。それについてはまた、稿を改めて紹介することにしたい。

参考文献:村井祐樹『中務大輔家久公御上京日記』(東京大学史料編纂所所蔵)、新名一仁『島津四兄弟の九州統一戦』(星海社新書)、両角倉一『里村紹巴小伝』、ブログ『徒然草独歩の写日記』内の「家久君上京日記」他

アイキャッチ画像:シカゴ美術館より

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。