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2022.09.02

青森ねぶた祭とはどんなお祭り?歴史・起源・制作工程など詳しく紹介

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コロナ禍のせいで2年連続して中止となった「青森ねぶた祭」。

秋田竿燈まつり、仙台七夕まつりとともに東北三大祭りの一角を占めるこの祭りは、2022年8月に復活しました。

行ったことはなくても、そのもようを写真・映像で見たことがない人はいないほどメジャーな祭りでしょう。

ですが、その割には歴史や制作工程など、文化的側面はあまり知られていないのが実情です。

……というわけで今回は、青森ねぶた祭の知られざる世界を解説していきます。

今年から復活してよかったですね!

お上が禁止しても強行することもあった

江戸時代に弘前藩の港町として発展した青森ですが、青森ねぶた祭の起源はわかっていません。確実性のある最古の言及は、『柿崎日記』に見える次の一文です。

当年七夕祭は子供ばかりにて、町内よりねぶた一切不出

幕末期の1842年に書かれた、この短い文から読み取れるのは、七夕祭の一環としてねぶたが出されたこと、ねぶたは町内単位で作られていたこと、子供も参加していたということです。他の資料も照らし合わせると、燈籠をねぶたと呼び、太鼓・笛の音とともに町内を練り歩いて、祭りの最終日に川に流したことがわかります。燈籠の形状は、昨今見る人形燈籠なのかどうかまでは不明です。

ところで、さきの一文に「ねぶた一切不出」とありますが、この年は天保の大飢饉の痛手がまだ残り、そのせいでとりやめとなったようです。毎年夏に行われた祭りですが、凶作や麻疹の流行といった理由で中止になり、黒船来航のような国家非常時には、藩から禁令が出されることしばしばでした。

『柿崎日記』には、こんな記述も見られます。

総名主役戸〆を命せられる(中略)当年は七夕祭にねぶた御差留めのところ、惣町(そうちょう)より出候に付、八町名主残らず戸〆仰せ付けられる

この年も農作物の不作が見込まれたのか、藩からねぶたを差し止めるよう命令が出されました。にもかかわらず、各町はねぶたを出したので、八町の名主全員が門を釘付けにして謹慎させられる処罰「戸〆」を受けたという内容です。

この頃から、ねぶたは大型化し、細工は複雑化し、経費がかかるものとなりました。あわせて人々のねぶたにかける情熱もいや増しました。庶民が奢侈に魅かれ、祭りのどさくさで喧嘩が増えるのを危惧したお上の禁令など、おかまいなしに祭りが催行されることもあったのです。

日本人から祭りを取り上げて何が残るというのでしょうか。

戦争の苦難を乗り越えさらに発展

明治時代になると、青森ねぶた祭は質量ともにさらにグレードアップしていきました。

そんな折、青森県よりねぶた禁止令が出されます。行政側の言い分は、人形燈籠を持ち出して市中を徘徊するのは、昔の蝦夷の「野蛮」な風習の名残であり、卑しむべきもの。大勢で集まって最後は喧嘩沙汰になるのも迷惑だからというものでした。

この禁止令は、10年後に解除され、許可制になりました。人形燈籠は、高さ5.5メートル、幅4メートルまでなどと規制はあったものの、基本OKとなったのです。

明治末期~大正初期に発行された「青森七夕祭ノ盛況(其一)」とある絵ハガキ(出典No.2)

当時のねぶた祭の様子を、民俗学者の柳田国男が『郷土研究』で次のように描写しています。

明治三九年八月下旬、津軽海峡を渡らんとして青森で夜半の汽船を待って居ると、あたかも旧暦の盆のことで、その夜この町のネブタ流しがあった。偉大なる紙張の人形の西洋顔料で彩ったのを長い竿の尖端に立て、その張り子の中には火を灯して、市外の電線を邪魔にしつつ諸方からやって来る。その晩は公認せられた無礼講で、若い者も老人も自由な騒ぎをする。我々が酒を飲んで居たある茶屋の表二階へ、頬冠りをして踊り込んだ婆さんがあった。

この記述からだけでも、今と変わらぬ、人々のねぶた祭への熱狂が見てとれますね。

ねぶたの人形燈籠が、ある種のアートとして意識され出したのは昭和初期からです。造作が手の込んだ緻密なものとなっていき、数も50前後に増えて、できばえを競い合うようになりました。しかし、日本が戦争の道を突き進んだ1937年に、祭りは中止されます。例外的に一度だけ、「銃後の士気を高揚し決戦生活の明朗化をはかるため」と、祭りが催行されました。終戦1年前、1944年のことです。翌年7月、青森市街は大規模な空襲を受け、焦土と化します。

戦後間もなく、ねぶた祭は復活します。当初は、「青森港まつり」という名称で、ねぶたの運行を含む様々な催しが行われる形でした。それが「青森ねぶた祭」と、現在の名称に変更されたのは1958年のことです。この頃には、人出は約150万の規模となり、名実ともに日本でも有数の大規模な祭りになりました。

150万人! 青森県の人口より多い……。


1962年に行われた青森ねぶた祭のにぎわい(出典No.3)

1979年、人気の高まりとともに祭りの会期は1日延長され、8月2~7日の6日間の催行となりました。2~3日は大小ねぶたの夜間運行、4~6日は大型ねぶたのみの夜間運行、最終日の7日は、日中に大型ねぶたが運行し、夜は花火が空を染め上げる中、一部の大型ねぶたが船に乗って海上運行するという、現在と同じ形式です。

3年ぶりに復活した青森ねぶた祭

現在の青森ねぶた祭は、国の重要無形民俗文化財の指定を受けた1980年の頃から大枠としては変わりませんが、細かい改善を積み重ねながら今の形になっています。

3年ぶりに開催される今年(2022年)は、コース上に待機する全ねぶたが一斉に運行する形式を改め、1か所のスタート地点から1台ずつ運行する「順次スタート方式」が採用されました。また、浴衣姿にたすきをかけて、ねぶたの周囲で乱舞するハネト(跳人)は事前登録制となり、登録者以外は飛び入り参加ができなくなっています。これは、かねてより問題となっていたねぶたの渋滞を防ぎ、参加者の「密」も回避するための方策です。また、例年8月1日は前夜祭がとり行われていましたが、今年は中止となりました。

今年の運行ルートは、新町通りの大和証券青森支店が位置する交差点から出発。みちのく銀行青森支店の見える交差点で左に回り、国道4号に入ったところでまた左に曲がり、国道上をまっすぐ突き進みます。そして、国道と平和公園通りが交差するところで左に曲がり、ホテル青森のある交差点でまた左に回り、再び新町通りを進みます。ちょうど長方形の辺を沿うように、3キロ余りのルートを周回するわけです。

2022年の運行ルート(青森ねぶた祭公式サイトより)

ねぶたは、そのサイズから大型ねぶたと子どもねぶたの2種類に大別され、大型ねぶたは、おおむね幅9メートル、奥行き7メートル、高さ5メートルの大きさ。4トンもの重量があるため、ねぶたを載せる台車の前後に付いた曳き棒を、前後合わせて20人ほどで動かします。一方、子どもねぶたはそれより二回りほど小さく、地元の町会・子ども会が制作したものです。

アジアゾウ4頭分の重さ!

ねぶたはこうして作られる

大型ねぶたを制作する人は「ねぶた師」と呼ばれ、十数人が現職としてねぶた作りに励んでいます。彼らは、青写真となる下絵描きにはじまり、全体的な構造や色彩を決める、いわば「総合プロデューサー」「現場監督」の役回り。電飾や紙貼りなど実際の作業工程では、大勢のスタッフがかかわり、1体が完成するまでに「のべ300人」を要するそうです。

では、ねぶたが完成するまでの工程をざっと紹介していきましょう。

まずは、下絵を描くことから始まります。それには、テーマ選びが必要となりますが、昨今の主流は、日本や中国の神話・物語の登場人物、あるいは実在した武将をモチーフにしたものです。

その構想~下絵のプロセスだけで2~3か月かかることも珍しくなく、折に触れて構想し続けたものが、何年もあとになって具現化することもあるそうです。

こうして、どんな内容にするか決まると、手足や刀剣など細かい部位のパーツ作りが始まります。春になって「青い海公園」に、制作のためのねぶた小屋が開設されると、ねぶた師はパーツをそこに搬入します。小屋の中では角材で支柱を組み、針金で形を作り、パーツを付けていきます。

ねぶた小屋で制作中のねぶた(筆者撮影)

忘れてはならないのが、照明のための電気の配線です。これがあってこそ、夜に運行して見映えのするものになります。1000個を超える電球・蛍光灯を適切な箇所に取り付け、電線 は邪魔にならないよう、支柱に沿って取り付けます。それから約3000枚の和紙(奉書紙)を、木工用ボンドで針金に貼り付け、ねぶたの外観を形作っていきます。

和紙をすべて貼り終えると、純白のねぶた像に、書き割りといって、墨で線を引く作業が始まります。これによって、面(顔)の各部や手足の筋肉から龍の鱗まで、絵柄のおおまかな輪郭が整ってきます。

それが終わると色付けですが、その前にパラフィンを溶かしたものを塗る作業があります。これは「ロウ書き」といって、内側からの明かりの通りを良くし、また、色付けの際ににじみや混色を防ぐという目的があります。

最終段階に近づいたところで、色付けに入ります。筆やエアブラシを用い、丁寧にすみずみまで彩色していきます。色付くにつれて、ねぶたは命が吹き込まれていきます。

最後にねぶたを台車に載せ、台車への飾り付けを済ますと完成です。

これだけのものだと、つくるのに1年ぐらいかかりそう。そうすると、職人さんたちはねぶた祭りが終わったらすぐに来年のねぶたにとりかかるのでしょうか。(エンドレスねぶた…….)

数字で見る青森ねぶた祭

ここで趣向をちょっと変えて、青森ねぶた祭の数字についてみていきましょう。

まず、観客動員数。コロナ禍前の2019年は285万人。さかのぼって調べると2010年は297万人と300万人の大台に迫る勢いから、微減というところです。少子高齢化や地球温暖化というネガティブ要因があるなか、大健闘していると思います。青森市の人口は28万人なので、祭りの期間は10倍の人で街は膨れ上がるわけです。弘前ねぷたまつりと五所川原立佞武多(たちねぷた)を含む三大ねぶた祭りを合わせると600万人、東北の主要夏祭り全体を合計すると約1600万人に及びます。この数値は延べ人数です。例えば、青森ねぶた祭を見たら、弘前や五所川原の祭りも見に行く人は少なくないはずです。ちなみに神奈川県に住む筆者の知人は、「マイカーに家族を乗せて、長岡の花火大会、秋田竿燈まつり、青森ねぶた祭、仙台七夕まつりを周遊」するそうです。1週間のうちにこれだけ回るのは相当ハードだと思いますが、毎年の恒例行事だそうです。

対して、日本三大祭りの1つ、京都祇園祭は約180万人、徳島の阿波おどりは約130万人、さっぽろ雪まつりは約200万人であり、いかに青森ねぶた祭が多くの人を惹きつけるものかが実感されます。

さて次は、大型ねぶた1台作るためにかかる費用について。50年前、高度経済成長期にあった頃の地方紙『東奥日報』の記事に、次の記述がみられます。

ねぶたは小屋、製作、運行をワンセットにして会期中一台あたり三五〇万円というところだが、ハネトの衣装、食費などを含めると一千万円かかるほどジャンボ化してきた。

平成の世に入ると、どの運行団体も1千万円を超えるようになります。ちょっと古いデータになりますが、1998年にある団体がかけたお金は総額17,456,171円。内訳は、(ねぶた師への支払いを含む)制作費が5,430,938円、ねぶた小屋の使用に1,483,601円、(人件費を含む)運行費が4,108,205円、運行飲食費が1,576,920円などとなっています。日本はデフレ経済が続いていますが、それでも現在は2千万円台の費用がかかっている団体もあります。

今後どうなる青森ねぶた祭

今年はコロナ禍以前に比べ、青森ねぶた祭の運行団体が半数以下に落ち込んでいるという報道がありました。もともと少子化などで担い手不足という課題があり、コロナ禍が追い打ちをかけたかたちです。ですが、昔からあった日本人の祭り好きの性分、そして関係者のねぶたにかける情熱は、簡単には消えることはないはずです。今後、再び盛り上がりを見せるものと確信しています。

切に願っています……!!!

主要参考文献

『青森ねぶた誌増補版』(宮田登著、小松和彦監修/青森市)
『ねぶた祭“ねぶたバカ”たちの祭典』(河合清子著/角川書店)

協力

青森ねぶた祭実行委員会事務局

写真出典

トップ画像: 桧山『ねぶた』(青森県所蔵)「青森県史デジタルアーカイブス 絵はがき・写真類データベース」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/aokenshida_pic-A44_00_00_080_11)
出典No.2: 『絵ハガキ(青森七夕祭ノ盛況)』(青森県所蔵)「青森県史デジタルアーカイブス 絵はがき・写真類データベース」収録(https://jpsearch.go.jp/item/aokenshida_pic-02475_01)
出典No.3: 柿崎『ねぶた』(青森県所蔵)「青森県史デジタルアーカイブス 絵はがき・写真類データベース」収録 (https://jpsearch.go.jp/item/aokenshida_pic-A44_00_00_036_04)