鹿児島県の離島である奄美大島。
そんな奄美大島の空港に降りると、驚くことがある。
とにかく、空港の土産物屋が「黒糖」一色なのだ。そのままの黒糖はもちろん、黒糖チョコレート、黒糖ピーナツ、黒糖バナナ。はては黒糖焼酎から黒糖とよもぎを使った黒いお餅「ふちもち」まで。いやはや、これでもかというほどの「黒糖」推し。
奄美大島の人はそんなに黒糖が好きなのかとも思ったが。じつは、島には、黒糖にまつわる知られざる暗黒時代があった。俗にいう「黒糖地獄」である。
島の歴史を語る上で「黒糖」だけは外せない。
ということで、「知る旅―奄美大島」の次の取材先はコチラ。
昭和60(1985)年創業の「水間(みずま)黒糖製造工場」である。
奄美大島とは切っても切れない「黒糖」。そんな黒糖を昔ながらの手作業で製造し、今なお伝統を守り続けている「水間黒糖製造工場」を訪れた。
今回は、黒糖製造に携わる人たちの声と共に、その製造工程や、出来立ての味なども併せてご紹介しよう。
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出来上がる黒糖の量はたったの1割?
バス停から国道沿いを歩くこと5分。少し先でもくもくと白い煙が見えてきた。ようやく看板にさしかかった辺りから、微かに感じる甘い香り。近付くにつれて強くなる黒糖の香りに、たまらずお腹がグーッとなった。時刻は7時半過ぎ。久しぶりに早朝からの取材である。
今回訪れた「水間黒糖製造工場」は、奄美大島の北部に位置する龍郷町(たつごうちょう)中勝(なかがち)地区にある。昭和60(1985)年創業だというが、じつは、その歴史は古い。
明治31(1898)年8月、「第2回黒糖品評会」でこの龍郷町中勝地区の集落で作られた黒糖が一等賞を受賞した。その黒糖づくりに参加した家系を引くのが、コチラの水島黒糖製造工場なのである。奄美大島産のさとうきびを使い、当時から変わらない「平釜」で作るスタイルだ。
「さとうきびが少なくなってきてるから、それが大変」
そう話すのは、水間製糖工場代表の水間範光(みずまのりみつ)氏。
水間黒糖製造工場が使うサトウキビは奄美大島産のもの。現在では、空港近くの笠利(かさり)地区が主な生産地となっている。昔ながらの付き合いで取引をお願いしているそうだが、将来的には難しいという。既にご高齢の方が多く、なかにはサトウキビ作りをやめる農家もあるからだ。
「もう、今、若い人はあまり作ってませんのでね。今はほとんど機械で刈り取って、それが主流になってきてるから。僕ら(のサトウキビ)は1本1本手摘みだから。だから、それでやめていかれた方が多いですね」
ちなみに、1日に使うサトウキビの量は、1トンを少し超えるほど。それでも、出来上がる黒糖の量は1/10くらいになるという。
「大体90~100㎏ぐらい。100㎏できればいいかなっていう感じ。もうほとんど水分ですから、その水分が飛んでってね黒糖になります」
1日に1工程を4~5回繰り返すという。ただ、1年中行うワケではない。水間黒糖製造工場では、夏場の7月からは一切稼働せず、釜のメンテナンスなどを行い、10月半ば辺りに再開するのだとか。これも、サトウキビだけを主原料としているからこそ。余計なモノをいれない純黒糖の製造は季節限定なのである。
シンプルなのに奥が深い黒糖製造
黒糖とは、一言でいえばサトウキビジュースをぎゅっと凝縮したモノ。ここで、実際の製造工程をご紹介しよう。
第1工程は、圧縮機で原料となるサトウキビを絞ってジュースにする。このジュース自体はほぼ水分でできており、これを直火の平釜で煮詰めて、水分を飛ばすのが第2工程となる。途中で灰汁(あく)を取ることも必須だ。
なお、忘れてはならないのが、水で溶いた食用石灰の投入だ。タイミングや量など、すべては経験値に左右される。重要な職人技の1つといえるだろう。
「(石灰を入れる理由は)固めるためと、あと酸性からアルカリ性に変えること。石灰を入れるタイミングは様々だと思うんですけど、自分らは最初に入れますね」と水間氏。
次第にサトウキビジュースの色合いが変わってくる。カーキ色に近かった液体は、煮ることで薄茶色に変化。辺りは湯気が立ち込め、まるで霧の中のようである。ある種、写真撮影泣かせの現場だ。
煮詰める時間は、だいたい1時間から1時間弱。ただ、これも一定ではない。マニュアルなどないのだ。季節や気候により、その都度、変化する。
「冬の今は1時間ぐらいですね。夏場に近づくと、やっぱり糖度が落ちるから、その分(煮るのを)長くしないと。だから、今が一番いい。あと、煮詰めるのは一気にやった方がいい。ずっと弱火でやると辛くなっちゃう。煮詰めると辛くなっちゃうのと同じでね」
煮詰めたあとは、隣の登り窯へ糖液を移す。余熱で丁寧に混ぜながら仕上げていくのが、第3工程だ。邪魔にならないようにと、一歩引いて煮詰まる様子を観察していたが、何やらポタッと頭に落ちてきた。水滴だ。水蒸気が冷えて水滴となったのである。
何粒もの水滴が降り注ぐなか、それでも混ぜる手を止めない。こうして十分な濃度の糖液になったところで、釜の左手にある撹拌機に移して撹拌。空気に触れさせて残った水分をさらに飛ばす。これが第4工程となる。
「(撹拌する時間を決める)一番の理由は、サトウキビの良し悪しですね。サトウキビの状態がいいと早い。糖度は高ければ高いほどいい。もう今は全部糖度が高い。寒いほど糖度は高くなって。だいたいピークは3月ぐらいまでです」
最後の工程は、商品としての「黒糖」に形を整えること。じつは、2通りの仕上げ方がある。1つ目は一口サイズの「サイコロ黒糖」だ。
撹拌機から出てくるのは、ドロドロとした黒糖の原液。結晶と蜜の混合物で、これをバットに流し入れて冷却、乾燥させる。固まる前に、ナイフで切れ目を入れておくと、あとで切りやすいのだとか。こうして乾燥した板状の黒糖を、ハサミで切って出来上がりである。
なお、ご好意で固まる前の出来立ての黒糖原液を少し分けていただいた。奥様に「噛まないで舐めてね」と言われたが、人間、日頃の習慣にはかなわない。うっかり左奥歯で噛んでしまったが、あとのまつり。
あっという間に冷めて固まったモノが、左奥歯をしっかりホールド。奥様の言葉の真意が分かった瞬間である。加えて、原液をバットに移す作業が時間との勝負なのだと、身を持って理解することに。ただ、一番衝撃を受けたのは、他でもない出来立てのその味わい。なんと優しい甘さなのかと驚いた。
2つ目は「なべかき黒糖」だ。撹拌機に残った少量の糖液をさらに撹拌。適宜、撹拌機に付いた塊をへらで削ぎ落し、水分を極限まで飛ばしていく。こうして出来上がったのは、茶色というよりも黄土色(おうどいろ)に近い塊だ。
これを温かいうちに、手で一口サイズにちぎっていく。この「なべかき黒糖」は、通常の「サイコロ黒糖」よりも少量しかできない。こちらも出来立てをいただいた。固いというよりは、口の中に入れた瞬間、ホロッと崩れてあっという間に溶けていく。もはや、私が知っている「黒糖」ではない。全くの別物だ。甘すぎず、何個でも一気に食べられる。恐ろしくクセになる味わいである。
ちなみに、サトウキビは絞ったカスも最後まで使い切る。コチラの車の荷台に乗っているのが、1日分のサトウキビのカスの量だという。じつは、このあと、コーヒー農園に運ばれ、堆肥として再利用されるのだとか。
黒糖の大事な原料となる手摘みのサトウキビ。幾人もの人の手で育てられたのだ。だから1本たりとも無駄にはしない。
搾られたあとのサトウキビにも価値があるのだ。
奄美大島を苦しめた「黒糖地獄」
現在では、奄美大島の特産物である黒糖。
だが、意外にも、黒糖製造が始められたのは古代からではない。ここからは『奄美の債務奴隷ヤンチュ』(名越護著)を参考に、奄美大島の黒糖の歴史を振り返る。開始時期は諸説あるも、元禄年間(1688年~1704年)に始められたとするのが現在の通説だ。
そもそも、中世までは琉球王国の支配下であった奄美大島。じつは、海上交易中心の「海の民」であったという。だが、慶長14(1609)年に薩摩藩に侵攻され降伏。粟粥(あわがゆ)を炊いて敵に吹っかけるという古くからの戦法では、船に鉄砲を装備した薩摩軍を追い払えなかったのも無理はない。
同年、琉球王国を平定した薩摩藩は、奄美大島や徳之島など5島を琉球から分割し、直轄地に編入した。当時の奄美大島には、ヤンチュ(家人、地方豪族や豪農に隷属した下人のような立場の人)と呼ばれる人たちがいたが、薩摩藩は「大島置目条々(おおしまおきめじょうじょう)」を発布し、彼らを解放。島民全員から年貢を取り立てるために、中間搾取の体制を排除しようとしたのである。
ちなみに、薩摩藩もいきなり黒糖製造へ傾倒したワケではない。当初は自営農民を育てて、本土と同じく稲作を中心に考えていたようだ。だが、政策の方向性は大きく転換する。大坂市場で高値で取引される「黒糖」の価値に気付いてしまったのである。
こうして「黒糖」にターゲットを置いた薩摩藩は、元禄8(1695)年、黒糖製造の命令と監督を行う「黍検者(きびけんじゃ)」を島に派遣。その2年後には「黍横目(きびよこめ)」という在地役人、配下に「黍見廻(きびみめ)」を設置。本格的に奄美大島で黒糖製造に力を入れていく。
やがて、薩摩藩による黒糖の囲い込みがエスカレート。まずは、延享2(1745)年、年貢を「米」ではなく「黒糖」で納める「換糖上納制」を開始する。これにより、年貢に必要なサトウキビを優先的に作り、保存食である米やいもは後回しに。そのため、飢饉の際には草の根や海藻しか食するものがなかったとか。
さらには、安永6(1777)年、薩摩藩は黒糖の売買を禁止し、藩が黒糖を独占できる「第一次砂糖総買い入れ制度」を断行。この時点でも、既に奄美大島の黒糖生産量は350万斤(※一斤が約600g)だったが、その後、天保元(1830)年には765万斤にまで増量している。薩摩藩下でいかに苛烈な黒糖製造が行われていたかがわかる。
それにしても、である。
薩摩藩は、既に奄美大島の黒糖で甘い汁を十分吸っていたはずだ。なのに、搾取の手を緩めないのはどうしてか。じつは、当時の薩摩藩にはこれでも足りない事情があった。江戸幕府から木曽川の治水工事を命ぜられ、5代将軍徳川綱吉の養女の島津家への輿入れなどで、積み上がった借財の金額は約500万両。
ちなみに、薩摩の年間物産高は14万両で、年間利息の60万両とはほど遠い雀の涙程度である。誰からもそっぽを向かれ、これ以上の借財は難しい状況だったのだ。
奄美大島の黒糖は、いわば「打ち出の小槌(こづち)」のようなもの。莫大な借財を抱えた薩摩藩は黒糖を財政改革の柱とし、天保3(1832)年、一時中断されていた「砂糖総買い入れ制度」を再開。薩摩藩が黒糖を独占できるよう、貨幣の流通も停止。年貢として納める以外の黒糖(余計糖、よけいとう)の量に応じて、米などの日用品を支給した。
生きるためのすべてのモノが不平等な比率で黒糖と交換される。密売者には死罪が適用され、島民にとっては地獄のような日々が続いたのである。
これが奄美大島の「黒糖地獄」の現実だ。
割り当てられた租税糖の重さに逃散(村から逃亡)する人、富農に借財する人、自らヤンチュとなる人などが続出。実際に、村から人がいなくなって廃村(潰れ村)となる場合もあったとか。島民の貧富の差は拡大するばかり。幕末には島の人口の2~3割がヤンチュだったともいわれている(割合は諸説あり)。
一方で、弘化元(1844)年には薩摩藩の借財はゼロとなり、逆に50万両の備蓄が実現していた。
これほど悲惨な歴史も、じつはあまり世に知られていない。明治維新は誰もが知っているが、その裏側で奄美大島の人たちが搾取され続け、その黒糖が財政的基盤を作ったことは知られていない。そういう意味で彼ら先人の苦難なくして、今の黒糖生産は語れないだろう。奄美大島の黒糖にまつわる歴史を知れば知るほど、黒糖の甘さが身にしみるのである。
純黒糖の沼にハマる
黒糖製造は今や貴重な伝統技術となった。
ここからは、水間黒糖製造工場の歴史について話を聞いた。
「自分はもう20年くらい。工場自体は38年。親父がやって、次に自分がやって、でその次ってね」と水間氏。
家業だからか、誰しもが阿吽の呼吸で自然と作業が流れていく。それにしても、どうして黒糖作りを始められたのか。
「これは親父から聞いたんじゃなくて、親父の知り合いから聞いたんだけど。今、加工糖がほとんど主なもんで、いろんなものを混ぜて、それを黒糖って言ってたんですよね。それが親父は嫌だったみたいで、本当の黒糖を作ろうということでやったみたいですね」
「黒糖」といっても、じつは1つではない。製品名を見れば「純黒糖」と「加工糖」の2つに分かれる。その違いは原材料だ。
「加工糖はね、水あめとかざらめとか(が入っている)。そしたら同じ味もできるし、同じ硬さもできるからね。それにサトウキビもそんなにたくさん必要もないし」
「純黒糖」の場合は原材料の面でも、技術の面でもハードルが上がる。水間氏の黒糖作りも、最初は試行錯誤の連続。お父様から習ったのは昔ながらの製造法のみで、実際にやってみて自分の味を掴むしかなかったという。
「親父の石灰の分量と自分の分量は全然違いますよ。出来上がりも、もうほとんど勘だから、自分でやってみないとわかんない。(味を掴めるのは)2、3年くらいかな。やればやるほど分かってきます。こんだけの石灰で少なくて済むんだとか、こんなに早く上がるんだとか。早ければ1時間もかからないうちに出来上がるのもありますよ。もう水みたいな状態で、カチカチになったりする時もあります」
同じ糖度のサトウキビでも、その日の温度によって食用石灰の量を増やす。煮詰める時間を変える。様々な「勘」がものをいう。黒糖製造が職人技といわれる所以はそこにある。黒糖は思いのほか、繊細な食べ物なのだ。
そんな水間黒糖製造工場の「純黒糖」。その味わいは、目から鱗が落ちるという表現がピッタリ。じつは、以前より奄美大島ではお茶請けに黒糖を食べると聞いていたが、とても不思議だった。甘過ぎてむせてしまうのではと思っていたからだ。だが、それは加工糖での話。
まず、一言でいうと素朴で優しい。自然由来の甘さだからか、後味がくどくないのである。硬さもちょうど。口の中で噛み砕いたあと、サラサラして溶ける。これならお茶請けもアリ。なんなら黒蜜にするのもアリだ。
ちなみに、私のおススメは「黒糖ミルク」である。ホットミルクに純黒糖(サイコロ)2かけを入れて混ぜるだけ。その味わいに、大げさではないが、精神まで癒される。今や、すっかり「純黒糖」の虜となってしまったのである。
なお、水間黒糖製造工場では、製造見学も可能。店内で購入もできる。入って左手に商品が並び、同じ種類の黒糖でもざるを分けて置かれているのが特徴だ。試食用もそれぞれ設置。奥様に分けられている理由を訊いた。
「これが1釜目。隣が2釜目。鍋ごとに分けてるんです。硬さとか風味とかも全然違うんですよ」
まさか。
その日に作る黒糖でも、味が違うというのか。使うサトウキビも同じ、気温も同じ、作る人も同じではないか。
「全く同じのはないんですよ。同じ親から同じ顔で同じ性格の子供が生まれないっていうのと一緒で」
これには唸るしかなかった。言われてみればその通りだ。手に取った黒糖との出会いは、まさに一期一会。二度と同じモノとは出会えないのである。実際に違う釜の純黒糖を試食してみると、微妙に硬さが違う。
黒糖は奥が深い。沼落ちするのも仕方ないと悟った取材であった。
取材後記
最後に。
これまで多くの取材をしてきたが、これほど取材中に申し訳ないと思ったことはない。何より勘とスピードが大事な黒糖製造の現場。タイミング1つで味は変わる。遅すぎれば固まってしまう。
そんな中で、始終、横から質問され、よほど仕事がやり辛かったはずだと我ながら反省しきりである。それでも、本当に1つ1つを丁寧に教えていただいた。製造工程から黒糖に向き合う姿勢まで、全てである。
「製造法は簡単ですよ。水分をどんどん飛ばしていくだけで、あと、そこに石灰をどんぐらい入れるとか。それで味も変わってきますので」と水間氏。
だが、シンプルなものこそ難しい。余計なものが削ぎ落され、本質だけが前面に出るからだ。そこには、小手先も誤魔化しも通用しない、ホンモノしか耐えられない現実がある。
そんな「黒糖製造」に、世間がようやく注目し始めた。なんでも、今年1月、国の諮問機関である文化審議会が「薩南諸島の黒糖製造技術」を国の登録無形民俗文化財に指定するよう答申したのだ。まさに、水間氏にとっても寝耳に水。後日、テレビ局の取材を受けた際に、初めてこのニュースを知ったという。
───昔ながらの手作業による熟練の技術伝承
まさしく、水間氏が先人から受け継ぎ、後継へ繋ごうとしているモノだ。
決定は今年3月頃だという。
春の訪れと共に、良い知らせが舞い込むことを願うばかりである。
参考文献
『日本の砂糖近世史』 荒尾美代著 八坂書房 2018年3月
『黒糖悲歌の奄美 (鹿児島の歴史シリーズ 5) 前田長英著 著作社 1984年11月
『奄美の債務奴隷ヤンチュ』 名越護著 南方新社 2006年9月
基本情報
名称:水間黒糖製造工場
住所:大島郡龍郷町中勝1400番地
公式webサイト:https://www.mizumakokutou.com/