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2021.08.09

本能寺の変の4日後?織田信長の側室「お鍋の方」による愛と悲しみの墓つくり物語

この記事を書いた人

8月といえば「お盆」、そして「お墓参り」の季節。
この時期は、さぞやお寺も大忙しと思いきや、地方によってはそうでもないという。

つい、先日。
石川県金沢市のとあるお寺に取材を申し込んだ。8月は繁忙期と思い込み、それまでならきっとご迷惑をおかけしないだろうと、あえて7月上旬の日程に。しかし、それがかえって裏目に出る。関係者曰く、金沢市のお盆は、一般的な時期の約1ヵ月前。つまり、7月中旬なのだとか。提案した7月上旬は、まさにお墓参りのピークど真ん中。それこそ、目が回る忙しさなのだという。

「8月に入れば、取材お受けできますよぉ」
所変われば品変わるとは、まさにこのコト。自分の常識がいかに主観的であるかを痛感した。

それにしても。
お墓が1つではなく全国にまたがる歴史的人物なら、まさにうってつけ。ちょうどお盆の時期がズレていいのかも、なんて。

例えば、戦国武将の中でも人気の高い「織田信長」。天正10(1582)年6月。天下統一目前で、家臣の明智光秀(あけちみつひで)に謀反を起こされる。今なお日本史最大のミステリーといわれる「本能寺の変」により、信長はあえなく自刃。

そんな彼の墓は、なんと、全国津々浦々17ヵ所もあるというではないか。
1人に対して複数存在するお墓たち。
一体、誰が、どうして。色々と謎は深まるばかり。

今回は、そのうちの1つ。
岐阜県にある「神護山崇福寺(そうふくじ)」を訪れた。

神護山崇福寺(そうふくじ)

織田家の菩提寺としても有名なこちらのお寺。なんでも、織田信長、そして嫡男である信忠(のぶただ)のお墓があるという。それだけではない。あの日光東照宮を彷彿とさせるような立派な位牌堂まで。

「本能寺の変」から織田信長父子のお墓が作られるまで。どのような経緯でこれが実現したのか。探っていくと、その陰には、墓つくりに奔走した1人の女性の存在が。

最愛の人、織田信長を弔うため。
そんな織田信長の墓つくり物語。それでは、早速、ご紹介しよう。

※冒頭の画像は、神護山崇福寺の「織田信長父子の墓」です。なお、この記事に掲載されている写真は、全て同寺より撮影許可を頂いています
※この記事は「豊臣秀吉」の表記で統一して書かれています

お墓なのに位牌の形?

岐阜県を流れる長良川のほとりにある「神護山崇福寺(そうふくじ)」。

神護山崇福寺の門

臨済宗妙心寺派のお寺である。
JR岐阜駅からバスで20分と、意外に交通の便もいい。

じつに、コチラのお寺。和樂webで取り上げるのは3度目になる。1度目は本堂にある「血天井」のご紹介、2度目は崇福寺三世の「快川紹喜(かいせんじょうき)国師」の生き様について。そして、3度目の今回はというと。

崇福寺の入口に立つ石柱にご注目。

「織田信長公霊廟所」の石柱

取り上げるのはコチラ。
堂々たる字で刻まれた「織田信長公霊廟所」。

冒頭でもご紹介したが、当寺は織田家の菩提寺。もちろん、織田信長父子のお墓や位牌堂のみならず。信長の手紙など織田家ゆかりの品も幾つか所蔵されている。戦国時代ファンでなくとも、とにかく見どころが多いお寺なのだ。正直、3度の登場でも足りないほど。

さて、前置きはこれくらいにして。
百聞は一見に如かずということで。まずは、織田信長父子のお墓からご紹介していこう。

本堂をぐるりと回りこんだその先。
ちょうど裏手に見えてきたのが、織田信長父子のお墓である。周囲を飛び交う蚊と格闘しながら、少しずつ歩を進める。微妙に……何か違うような気がするのだが。違和感の正体が分からないまま凝視する。

織田信長父子のお墓

「向かって右側が、信長公の法名です」
そう説明されるのは、神護山崇福寺のご住職「東海宏徳(とうかいひろのり/こうとく)」氏である。

墓の高さは139㎝、幅39㎝、厚さ30㎝。
1つの墓標に2つの法名が刻まれているという。
向かって右側、織田信長の法名は「総見院殿贈一品大相圀泰岩大居士 覚霊」。一方の左側、嫡男の信忠の法名は「大雲院殿三品羽林高岩大禅定門 神儀」。

コチラの信長の法名は、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)の努力の結果の賜物。なんでも、突然の信長の死に、有力家臣らの次期ポスト争いが激化。そのうちの1人である秀吉は知恵を絞る。かつての信長の権力を引き継ぐためには、明智光秀を討つだけではなく、絢爛豪華な信長の葬儀を営み、周囲に認知されることが必要だと。こうして、大徳寺で行う法要に少しでも箔をつけるため、信長が官位を得られるよう自ら動いたというのである。

にしても、である。
そもそも、正親町(おおぎまち)天皇は、信長に対して「太政大臣」「関白」もしくは「征夷大将軍」の官位を与えようとオファーしていたという。ただ、信長からは明確な返答を得られず。当の本人は「本能寺の変」で自刃。タイムオーバーとなったのである。

この経緯を知っていた秀吉は先回りして。
かつての主君である信長が「従一位・太政大臣」の官位を得られるために、積極的に働きかけたようだ。なんだか、信長の意思に反するような気がしないでもないのだが。その甲斐あって、こちらの法名である諡号(しごう)を賜ったという(諸説あり)。

織田信長父子のお墓

「お位牌の形になっていますね。珍しいと思います」

ご住職の言葉に、ようやく気付く。
そうか、違和感の正体は、コレだ。通常の長方形の墓石ではないのだ。確かに、いわれてみれば、墓石の上部が三角形になっている。その形が、お位牌なのかと納得する。

それにしても、なんだか不思議な気分。
だって、目の前に、あの織田信長のお墓があるのだから。遺骨はないにしろ、戦国時代が身近に感じられる一時を、暫し満喫する。

最愛の人を弔うために必死で奔走

続いて、ご住職と境内を回りながら。
織田家の菩提寺となった由来を教えて頂いた。

「元はといえば、信長の側室の『きつ乃』という方がいて。信忠の母親ですね。その方は(信長が)岐阜に来る前に亡くなっていたんですが。その方の菩提をここで弔ってほしいというのが、織田家と(当寺)の最初の御縁ですね」

ということは、信長の墓つくりのために奔走した側室とは、一体、誰なのか。

「信長と信忠が『本能寺の変』で亡くなって、今度は別の側室である『お鍋の方』がここに手紙を寄こして、この寺で供養するようにとのことでした」

なるほど。
最愛の人を弔うために動いた女性とは、信長の側室「お鍋の方」というワケだ。

「織田信長公画像」(崇福寺所蔵)

それにしても、実際にどのような経緯があったのか。
ここで、「本能寺の変」以降を、時系列で簡単に振り返ってみよう。

織田信長の家臣である太田牛一が記した『信長公記』。信長の最期である「本能寺の変」については、このように書かれている。

「信長は、初めは弓をとり、二つ三つと取り替えて弓矢で防戦したが、どの弓も時がたつと弦が切れた。その後は槍で戦ったが、肘に槍傷を受けて退いた。それまで傍らに女房衆が付き添っていたが、『女たちはもうよい、急いで脱出せよ』と言って退去させた」
(太田牛一著『信長公記』より一部抜粋)

騒然とした雰囲気である。
まさに、寝首を搔くとはこのコトで。明智光秀の謀反と聞いて、信長自身は「やむなし」との言葉を吐いたようだが。それなりの理由が頭をよぎったとしても。それでも、信長は無念だったに違いない。

「すでに御殿は火をかけられ、近くまで燃えてきた。信長は、敵に最期の姿を見せてはならぬと思ったのか、御殿の奥深くへ入り、内側から納戸の戸を閉めて、無念にも切腹した」
(同上より一部抜粋)

そして、嫡男である織田信忠はというと。
「本能寺の変」の一報で、信長に合流しようと妙覚寺(京都市)を出たのだが。御殿が焼け落ちたことを知り、急遽、二条の新御所へと入る。しかし、こちらも多勢に無勢。観念して、切腹後は遺体を隠すようにと指示。こうして、織田信長父子は共に自刃したのである。

歌川延一「本能寺焼討之図」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

一方、信長の居城である「安土城(滋賀県近江八幡市)」では。
「本能寺の変」が起こったのは、天正10(1582)年6月2日の早朝。『信長公記』によれば、翌3日の午後2時前後より信長の妻子らを退去させている。ちなみに、身の危険を顧みずに行動したのは蒲生賢秀(がもうかたひで)・氏郷(うじさと)父子。

特に、蒲生氏郷は、信長がその才に惚れて娘婿にした戦国武将である。当時、氏郷は日野城(滋賀県日野町)にいたようだが、父の賢秀が安土城の留守役だったため、急遽、安土城へ。迫りくる明智軍と対峙することも覚悟しつつ、父と共に、信長の妻子らを日野城へと避難させるのである。

じつは、その中にいたのが信長の側室「お鍋の方」。
最愛の人の死を知らされた彼女は、悲しみに暮れるのを後回しにして。即刻、信長の位牌所の確保に乗り出す。避難先の日野城から岐阜城へと向かい、こちらの神護山崇福寺宛てに「黒印状」を出したのである。
内容は以下の通り。

「かくべつに折り紙に書いて申します。この崇福寺は信長様の位牌所でありますので、何人といえども寺地を違乱しようとする者があれば、おことわりするのがよろしい。そのために一筆申し上げます。
天正十年六月六日 なべ(黒印)」
(楠戸義昭著『戦国武将 お墓でわかる意外な真実』より一部抜粋)

書状の日付けは、「本能寺の変」が起きた4日後。あまりにも素早い動きとしか言いようがない。ただ、逆に、それほど事態は切迫していたとも。すぐにでも保護しなければ、大事な織田家の菩提寺が争いに巻き込まれる。そんな危機感が彼女を突き動かしたのかもしれない。

織田家の木瓜紋が入った豪華な位牌堂

ご住職の案内により、本堂の奥へと進む。
「右側が織田信長公。左側が信忠公です」

本堂の奥にある「織田信長父子の位牌」

暗くて、字を読み取ることは難しかったのだが。
どうやら織田信長父子のお位牌だという。

右側より織田信長、信忠の位牌

なお、先ほどご紹介した秀吉が営んだ大徳寺の信長の葬儀。こちらで実際に用いられたお位牌は、本堂の裏手。お墓の右側にある「位牌堂」の中に祀られている。葬儀後に、側室の「お鍋の方」が秀吉よりもらい受けたのだとか。

それにしても、葬儀は絢爛豪華だったようだが。お位牌自体は、織田信長、信忠父子の戒名を書いた紙を、板に張り付けただけ。「野辺位牌(のべいはい)」と呼ばれる粗末なモノだったという。

一方、そのお位牌が祀られている「位牌堂」はというと。
「没後300年のときに建てられたものだと聞いています。(信長の)300年の法事を行うときに建てられたと」とご住職。

徳川家康が祀られている「日光東照宮」を彷彿とさせるような色遣い。お墓とは対照的な佇まいで、織田家の木瓜紋も刻まれている。

真正面から見た「位牌堂」

横から見た「位牌堂」

織田家の家紋である「木瓜紋」が刻まれている

苛烈な気性と思われる織田信長。しかし、実際は家臣に裏切られて。意外にも「本能寺の変」で、その生涯を閉じることに。無念にも、天下統一を実現する半ばでのコト。こうして戦国時代を制することはできなかったのだが。その圧倒的な存在感は日本の歴史上、間違いなくトップ3に入るだろう。

そういう意味では。
没後300年の法事の際に、こんな立派な位牌堂を建てられたのなら。少しは信長も報われたのではないだろうか。

織田信長の華麗な功績に浸りながら。
神護山崇福寺の「織田信長公霊廟所」をあとにした。

最後に。
神護山崇福寺の本堂には、ある1つの絵が飾られている。
その名も「織田信長公教訓の絵」

織田信長公教訓の絵

「へらすてて すぐにきをもち かせぎなば
 おのずからみを もちあぐるなり」
(「織田信長公教訓の絵」(崇福寺所蔵)より抜粋)

「草を取る竹べらのようなものを捨てて。まっすぐな気を持って努力すれば、出世するだろうという意味です。織田信長が教訓にしていたと伝わっています。私は直接見ていないんですが、先代は、滋賀の摠見寺にも同じ絵があったと言っていました」とご住職。

上昇志向の強かった織田信長。だからこそ、下剋上の世を制して、天下統一へと一気に駆け抜けたのだろう。

ただ、上だけを見ていたワケではない。自分を頼ってすがる者には、きちんと手を差し伸べた。

今回、奔走した側室「お鍋の方」。彼女も、織田信長に救いを求めたうちの1人である。もともと彼女は、山上城主の小倉賢治(こくらかたはる)に嫁いでいたのだが。小倉賢治は六角氏に敗れて自刃(諸説あり)、大事な息子2人も人質に取られることに。

この悲劇に、彼女は果敢に立ち向かった。
なんとしても、息子を取り返すため、織田信長を頼ったのである。これが縁で「お鍋の方」は信長の側室となり、人質となった息子2人も無事救出されたのであった。なお、信長との間には二男一女をもうけており、信長の家臣らも「お鍋の方」に敬意を払っていたようである。

「殿のご恩を決して忘れてはいけません」
救出された2人の息子は、常々、母から言い聞かせられていたという。この「甚五郎(じんごろう)」と「松千代(まつちよ)」は、信長の家臣となり、うち1人は「本能寺の変」にて、信長のもとへと駆け付けて討死している。

最愛の人の死。
その悲しみさえも、後回しにして奔走した「お鍋の方」。信長に献身的だった彼女は、その後も、ひっそりと弔い続けたに違いない。

京都で没した「お鍋の方」。
今は、大徳寺総見院の織田一族の墓に眠っているという。

さて、今回で3度も取り上げさせて頂いた神護山崇福寺。境内には、織田信長父子のお墓から位牌堂まで。まさに見応え十分のお寺である。このコロナ禍でなければ、戦国時代ファンならずとも、是非とも一度は足を運ばれることをおススメしたい。

ちなみに、付け加えると。
じつは、稲葉一鉄(いなばいってつ)関連から、付喪神(つくもがみ)関連まで。まだまだ神護山崇福寺の見どころは尽きないところ。

まさか、4度目のご登場となるかどうか。
その答えは、神のみぞ知る。

写真撮影:大村健太

参考文献
『戦国武将 お墓でわかる意外な真実』 楠戸義昭 株式会社PHP研究所 2017年12月
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月
『戦国の城と59人の姫たち』 濱口和久著 並木書房 2016年12月
『山内一豊の妻と戦国女性の謎』 加来耕三著 講談社 2005年10月

基本情報

名称:臨済宗妙心寺派 神護山 崇福寺
住所:岐阜市長良福光2403-1
公式webサイト:http://www.sofukuji.net/index.html

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。