Culture
2020.11.17

日本で唯一の承久の乱イベント! 岐阜県各務原市「承久の乱合戦供養祭」で供養塔の謎を探る

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現在、日本中世史界隈ではちょっとした「承久の乱ブーム」が起きています。

令和3(2021)年は承久の乱からちょうど800年にあたるので、ここ1,2年は承久の乱関連の書籍が各出版社から刊行されました。

さらに令和4(2022)年には三谷幸喜脚本・小栗旬主演の、北条義時を主役にした大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送される予定です。義時の人生において承久の乱はまさに最高のクライマックス! 歴史ファンとして承久の乱は今後注目する戦となるでしょう。

なにせ、皆が大好きな戦国時代や幕末動乱も、承久の乱がなかったら起きなかったと言って過言ではないですからね!(註・個人の主張です)

そして、つい先日、京都文化博物館では80年間行方不明となっていた承久の乱絵巻が発見されました!

そんな歴史的に超重要かつ、近年盛り上がりを見せている承久の乱ですが、実はその関連史跡はあまり残っていません。戦地は住宅街となっていたり、他の時代の戦の説明しかなかったりがほとんどです。たまに小さな案内板でもあればラッキーです。

けれど日本で唯一、承久の乱を大々的にアピールし、毎年イベントまで行っている場所があります。それが岐阜県各務原(かかみがはら)市にある仏眼院(ぶつげんいん)です。地元では「前渡不動山(まえど ふどうさん)」と呼ばれています。

山の中腹にある50基以上の五輪塔が「承久の乱供養塔」で、毎年そこで「承久の乱合戦供養祭」が行われています。

承久の乱は私の「推し戦」でもあるので、ここ数年、毎年のように参加していたのですが、八百回忌にあたる今年は例年より大々的に行われました! レポートの前に、なぜ鎌倉でも京都でもないこの地に供養塔があるのかというと……。

なぜ各務原に承久の乱の供養塔が?

承久の乱は鎌倉の武士と京都の朝廷が激突した戦ですが、この二つの軍が最初に激突したのが、木曽川沿いの地域です。

木曽川は中山道と東海道の合流地点となっている所で、京都の対東国の防衛ラインでもありました。その為、古代でも戦国時代でも、重要な拠点となった地域です。

そして各務原市にあった大豆戸(まめど)の渡しに朝廷軍の総大将藤原秀康(ふじわら ひでやす)、対岸には鎌倉軍の総大将北条泰時(ほうじょう やすとき)が陣を張っていて、木曽川沿いの戦いの中心地でした。

朝廷軍は、この木曽川沿いに8~12か所に兵を分散して守らせました。そして上流にあった大井戸渡し(現・美濃加茂市)から防衛ラインを崩されてしまい、敗走することになります。

木曽川沿いの主な陣営 (国土地理院ウェブサイトをもとに作成)

承久の乱後の大豆戸

木曽川での戦いはとても激しく、朝廷軍にも鎌倉軍にも多数の死者が出ました。それを弔ったのが大豆戸(現・各務原市前渡地域)の村人だという伝承が、地元に残っています。

そして大豆戸の西宮寺(さいぐうじ)という寺の東側。渡しへ続く道沿いに村人たちが供養塔を建てたといいます。しかし洪水によって寺は流され、供養塔も埋まってしまいました。

時が経たった昭和7(1932)年。県道工事の際に、大量の五輪塔が出土しました。これは承久の乱の供養塔だとして、最初に桃春院(とうしゅんいん)に集められて供養しました。昭和30年代(1955~1965)に、より丁寧な供養をするために前渡不動山へ移動します。

そして昭和45(1970)年に地元の青年団による「承久の乱供養塔奉賛会」が発足し、承久の乱があった6月初旬に供養祭を始めました。昭和53(1978)年に供養塔の中心に、地蔵菩薩が安置され、現在のかたちになります。

前渡不動山の中腹にある五輪塔群

平成13(2001)年に地元一帯の住民が関わって「前渡不動山発展会」が立ち上がり、供養祭を引き継いで現在に至ります。そして今年の令和2(2020)年で八百回忌を迎えました。

地域の人が関わった歴史を、今に伝える熱意を感じますね!

八百回忌に向けて改めて供養塔を調査!

八百回忌に向け、古くなった案内板を新しくするため、前渡不動山発展会は市の教育委員会と観光協会に協力を求めました。それを受けて歴史学民俗資料館の学芸員である長谷健生(はせ けんき)さんが改めて地元の伝承を検証を行いました。

そこで解ったことがいくつかあります。それは承久の乱の供養塔を護って来た地元の人々にとって衝撃的な事でした。

承久の乱供養塔と伝わった五輪塔、実は……

まず周辺には「西宮寺」という地名は残っていますが、実際にそこに寺があったという文献が見つかりませんでした。

しかし、現存している中で市内の最も古い様子がわかる文献は戦国時代から江戸時代のものです。それ以前に西宮寺は洪水に遭って流されてしまって、地名だけが残ったと考える事もできます。

そして五輪塔などの石造物に詳しい専門家の調査で、この五輪塔自体は戦国時代から江戸時代にかけて作られたという事が分かりました。承久の乱が起こったのは鎌倉時代ですので、かなり後の時代のものだったのです。

けれど大事なのは「今」「地元の人に」「承久の乱の供養塔だと伝わっている」ということだと、歴史民俗資料館・学芸員の長谷さんは強調しておっしゃいます。

昭和の初めにこの五輪塔が見つかった時に、地元の人々が「これは承久の乱供養塔だ」と疑いも無く思ったのは何故でしょうか。素直に考えるのならば、「文献として残ってはいないが、過去にそういう物があったという伝承が地元にあったから」とも言えるのではないかと、私も思います(もちろん歴史学的に見れば実証不可能なので、個人的な想像ですが)。

承久の乱当時に作られたものではなくても、地元の人が承久の乱の戦没者を偲び、毎年供養をしている事には違いはありません。過去にここが戦場となっていたのは紛れもない事実で、前渡不動の五輪塔はそれを地域の若者や子どもたちに伝える役割を担っています。

調査結果を正直に記載しつつも、地域の人々の想いに寄り添った解説文

承久の乱供養祭八百回忌の様子

承久の乱供養祭は、毎年6月の第1日曜日に行われます。今年、令和2(2020)年の供養祭は、コロナによる緊急事態宣言もあり、延期となってしまいましたが、地域の人々の努力によって10月25日に行われました。

普段は供養塔の前でこじんまりと行われていたのですが、今年は八百回忌という事で、駐車場で大々的に行われていました。小さなお子さんの姿もあったのも印象的です。小中学生を連れたご家族からは「昔、ここで戦があってね」と地元の伝承を教える祖父母と孫の会話が漏れ聞こえてきます。

八百回忌にして、ここまでの規模に! これも発展会の方々を中心とした地元民の熱意に、観光協会や教育委員会が応えた結果ですね! 私も万感の思いを込めて、手を合わせました。

前渡不動山発展会の会長、日比野定實(ひびの さだみ)さんは「地域の方々の協力で、この供養祭を続けて来られた」と感謝を示し、「これからも日本唯一の承久の乱供養祭として未来に残すために努力をする」と決意を新たにされていました。

来年は承久の乱800周年、そして再来年は三谷幸喜脚本の大河ドラマが控えています。これから承久の乱を学ぶ人も、既に知っている人も、ぜひ一度足を運んでみてください!

仏眼院(前渡不動)

住所:岐阜県各務原市前渡東町1975−1
承久の乱供養祭は毎年6月第1日曜日

協力

各務原市歴史民俗資料館

住所: 各務原市那加門前町3-1-3 中央図書館3階
営業時間: 午前10時~午後5時
定休日: 月曜日(祝日の場合は翌平日)、祝日の翌日(土日祝の場合は翌平日)、年末年始等
公式webサイト: http://www.city.kakamigahara.lg.jp/126/index.html

各務原市観光協会

公式webサイト:https://kakamigahara-kankou.jp/

前渡不動山発展会

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