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2021.03.12

不吉な「気」から大敗を予想!大友宗麟の軍配者「角隈石宗」の壮絶なラストとは?

この記事を書いた人

「飛ぶ鳥を落とす勢い」とは、空を飛んでいる鳥も圧倒されて落ちるほどの勢い、権勢の盛んな様子のことをいう。

矢で射るならともかく。歩いただけで、上空から鳥がバッタバッタと落ちてくる。実写化すれば、そんな感じだろうか。

それにしても、勢いある人物なら覇気も凄まじいものに違いない。いや、現実的な話。もし本当に、人の「気」が見えたならば、その様は全身から発せられる湯気そのもの。

さて、今回、ご紹介するこの方も、「気」を見てそう思っただろうか。
その名も「角隈石宗(つのくませきそう)」。
九州を代表する戦国大名「大友宗麟(おおともそうりん)」の軍配者である。

軍配者とは、軍配団扇(うちわ)を持つ者の呼称である。
軍配団扇を使って軍隊の指図を行う者だけでなく、祈祷や占いを行う呪術的軍師も含めて、当時は「軍配者」と呼んだという。

そして、角隈石宗はというと。
間違いなくその道に長けた有名な軍配師であった。

今回は、そんな角隈石宗が、「気」を見て戦いの行く末を予言した「耳川の戦い」を取り上げたい。残念ながら、彼の見立て通りに、大友軍は島津軍に大敗。
進言を聞き入れられなかった角隈石宗が選択したラストとは?

神がかり的な能力を持つ男の壮絶人生。
早速、ご紹介しよう。

※冒頭の画像は、「武田軍配六曜之傳」「銭相場早見」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)となります

※この記事は、「大友宗麟」の名で統一して書かれています

じつは2度も「耳川の戦い」に否定的だった?

天正6(1578)年11月に起こった「耳川の戦い」。
耳川とは、宮崎県北西部より東流し,日向灘に注ぐ川の名前である。「美々川」もしくは「美々津川」ともいうのだとか。この地で、多くの大友軍が戦死した。討たれるのはもちろんのこと、溺死した者も少なくなかったという。

かつて、九州は、名門大友氏が2/3ほど制圧していた時期がある。率いていたのは「大友義鎮(よししげ)」。「宗麟(そうりん)」の方が有名なのかもしれないが、コチラの名は出家後の号である。

大友氏が6ヵ国を支配下に置いていたのは、ちょうど永禄2(1559)年頃のこと。ただ、残念ながら、その領地をさらに拡大するというワケにはいかなかった。九州南部で、徐々に勢力を拡大してきた島津家が、「日向(ひゅうが、宮崎県)」に侵攻したからだ。この島津家を率いていたのは、四兄弟の長男である「義久(よしひさ)」。

なお、日向の戦国大名だったのが、「伊藤義祐(よしすけ)」。
伊東氏の最盛期を築くも、「木崎原の戦い」で島津氏に敗れ、その後は豊後(大分県)に逃亡、大友氏を頼ることに。これを受けて、伊藤氏救済の名目で大友宗麟は南下。そして、ついに大友氏、島津氏の両者が激突。これが、大友氏衰退の始まりと称される「耳川の戦い」の全貌だ。

さて、ここで意外な事実がある。
宗麟の軍配者であった角隈石宗は、じつのところ、この「耳川の戦い」への出陣に当初から否定的であったというのである。それは、戦の現場で「気」を読み取る前の話。出陣するかどうかの時点で、石宗は出陣の取りやめを進言していたという。

その理由は3つある。
まずは、宗麟がその年に厄年だったというコト。確かに、現代でも、「厄年は積極的に動かない方がよい」と判断をする人も少なくない。

加えて、出陣の方角が良くなかった。どうやらこの年は、「未申(ひつじさる)の方角」、つまり南西の方角が「凶」だったようだ。そして、残念ながら「豊後」からみて、「日向」はドンピシャの「南西」に位置していた。

さらには、天文学的にみても、同様に「凶」の結果が表われていたという。天文学といっても占星術なのだが、当時は彗星の現れ方、光の色や流れの向きで、物事を判断していた。その結果、去年から彗星が出現し、光の尾が西へと流れているのは「凶の兆し」だと見立てたのである。

そんな角隈石宗の進言に対し、宗麟はというと。
『大友興廃記』には、なんともつれない内容が記されている。

「石宗言上(ごんじょう)の様には、御同心更になし」
(川口素生著『<角隈石宗と戦国時代>角隈石宗と軍配者の盛衰』より一部抜粋)

3つの「凶」が重なっている事実。
これを示して「出陣は待たれよ」と進言するも、全く相手にされず。宗麟からすれば、キリシタン王国樹立の実現の方が、抗えないほど魅力的だったのかもしれない。軍配者石宗の進言よりも自分の考えに賭け、宗麟は出陣を決めたのであった。

味方の「気」を読み取って大敗を予想

せっかくの進言も無下にされる角隈石宗。
一体、石宗という男は、それほどまでに信用に値しない人物だったのか。

ここで、遅くなったが、角隈石宗を簡単にご紹介しよう。
といっても、じつに困ったことに、彼に関する確実な記録は少ない。出生年も不明、どの一族かも不明。「角隈(つのくま)」も、名か姓か、確固たる資料はない。

ただ、「石宗(せきそう)」という名は、何度か書物に現れる。「越前守(えちぜんのかみ)」とも記されており、こちらも信用できそうだ。さらには、甲州流、小笠原流の軍法にも通じており、兵法上の秘伝を記した「大事の所伝」を有していたという。

一方で、目を疑うような記述も。
石宗は、軍配者の中でも「奇特(幻術のような秘術)」を体得したと思われていたようだ。風を巻き起こす、カラスを呼び寄せるなど、現実世界ではなかなかお目にかかれない芸当の数々が『大友興廃記』には記されている。

そして、今回ご紹介するのも、そのうちの1つ。
角隈石宗が、なんと、「気」を読み取ったというのである。

『陰徳太平記』には、にわか信じられないような記述がある。

「味方の陣より立上る気を見るに、敗走有、謀反あり、彼と云此と云、一つとして吉事の相なし」
(小和田哲男著『戦国軍師の合戦術』より一部抜粋)

先ほどからご紹介している天正6(1578)年の「耳川の戦い」。
石宗は最初から出陣を止めるようにと進言するも、宗麟は断行。大友軍は「凶」と予想される戦へ、出陣することになる。こうして、大友氏と島津氏は耳川を挟んで対峙。

ちなみに、石宗はというと。
出陣を拒否するわけにもいかず。軍配者ではなく、一兵士としてこの戦に出陣していた。両軍の緊張がピークに達するなか、ふと空を見上げた石宗は、あるコトに気付く。それが先の場面である。

不吉な「気」が漂っている。
それも、まさか…。

角隈石宗は、我が目を疑う。
それもそのはず。
不吉な「気」は、なんと、「味方の陣」から立ち上がっていたのである。

それは、「敗走」「謀反」などの「気」。
全くもって、戦では有り難くない不吉ワードばかり。
残念なことに。
石宗は、まさしく戦いの現場でも、再度「敗れる」と確信したのである。

やはり、この事実を放置はできない。
そう思った石宗は、この期に及んでも諦めきれず。再度、味方の将兵に進言する。
結果論にはなるが、ここで退却する判断を出すことができれば、歴史は大いに変わっていたかもしれない。しかし、指揮する者に、そこまでの度胸はなかったのだろう。石宗の進言は、またしても握りつぶされてしまったのである。

こうして、蓋を開けてみれば。
兵力差では優位に立っていた大友軍が、島津軍に大敗。耳川で多くの戦死者を出すことになるのであった。

さて、ここで気になるのが、角隈石宗の最期。
「敗れる」と確信した石宗はどうしたのか。

確かに、自分だけ、おいそれと逃げるわけにはいかなかったのだろう。『陰徳太平記』には、石宗の最期が記されている。

「討死せんと思極め、大事の所伝の所をば悉(ことごと)く焼捨、思残す事も無して戦けるが…(中略)…尚も敵を討んと進けれど、此時重手負たれば、身体疲労して敵の為に討れにけり」
(同上より一部抜粋)

「大事の所伝」を焼き捨て、あえて敵方に突っ込んでいった壮絶なラスト。討死覚悟はもちろんのこと。死地を求めて、石宗は思い残すことなく戦った。

こうして、角隈石宗は「耳川の戦い」で、潔く散ったのであった。

最後に。
本当に、角隈石宗は「気」を読み取ることができたのか。

一説には、天文学や気象学の知識を有し、観察力が鋭ければ、ある程度のコトは言い当てることができるという。つまり、当時は、それが「奇特」と思われることも、しばしばあったのだろう。そういう意味では、実際に、石宗が「気」を読み取れたのか、確証はない。

ただ、1つ。確実なのは。
石宗が「敗戦」を予想していたというコト。

負けると最初から分かっている戦へと赴く。
そんな角隈石宗の胸中を思えば、なんとも、歯がゆいラストである。

進言を受け入れられなくとも。
それでも、主君である大友宗麟を裏切ることはできなかった。

神がかり的な能力がたとえあったとしても、忠義を貫く。
角隈石宗とは、そんな軍配師なのである。

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参考文献
『戦国軍師の合戦術』 小和田哲男著 新潮社 2007年10月
『<角隈石宗と戦国時代>角隈石宗と軍配者の盛衰』 川口素生著 株式会社学研パブリッシング 2015年3月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。

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