近年美容業界で大きな盛り上がりを見せているメンズコスメ。
「身だしなみとして肌をキレイに見せたい」「肌トラブルを隠したい」「カッコよくみられたい」などさまざまな理由でメイクをする男性が増えており、大手ブランドもこぞってメンズ用のアイテムを発表しています。
けれども、男性が美容に気を遣うようになったのはここ数年で始まったことではないんです。実は平安時代の貴族や戦国時代の武将もメイクを行っていたのだとか!
そこで今回は、意外と知られていない日本における男性とメイクの歴史について探っていきます!
人がメイクをする5つの理由
歴史をさかのぼる前に、まずはメイクをする理由を整理しておきましょう。大きく分けるとだいたい以下の5つに分けられます。
①宗教・呪術的理由
神様への信仰の証や魔よけの目的で行われるメイク。特に未開の文化で多く見られます。
②装飾的理由
身だしなみを整えたい、オシャレをしたい、自分をよりキレイに見せたいなど、美的欲求を満たすためのメイク。
③区別的理由
一目でその人の社会的状態がわかるように、身分や役割を区別するために行うメイク。お歯黒で既婚・未婚の区別をする、罪人に罪の印として入れ墨をいれるなどといった行為は、このメイクの一種といえます。
④保護的理由
肌や目などを保護するためのメイク。古代エジプトにおけるアイラインやアイシャドウは、強い太陽の光を和らげたり、虫よけの目的があったとされています。野球選手などが目の下に貼っている黒いステッカー(アイブラック)もこれにあたります。
⑤権威的理由
権威の象徴として行うメイク。メイクをすること自体が上流階級の特権だった時代では、特にこの理由が大きかったと思われます。
このように、メイクと一口に言ってもその目的はさまざま。では日本の男性は、歴史的にどのような理由でメイクをしていたのでしょうか?早速見ていきましょう!
古代:メイクは服従の証
古代日本においては、男女問わず赤化粧(丹塗り)の風習がありました。顔面はもちろん、全身に赤い色を塗る化粧の風習は、日本のみならず世界各地に存在。赤は太陽の恵みや魔よけなどの意味を持っていたと考えられています。当時の日本では支配者に対する“服従”や“恭順”の意味でメイクをしていたようで、『日本書紀』の海彦・山彦の物語においても、
兄、著犢鼻(たふさぎ)して、 赭(そほ) を以て 掌 に塗り、 面 に塗りて、其の弟に告して曰さく、「吾、身を汚すこと此の如し。 永 に汝の俳優者たらむ」
という記載があり、兄は赤土を手のひらや顔に塗って、弟に「永久にあなたに服従する」と伝える一節が描かれています。
平安時代:男女ともに白塗りの眉化粧が流行
男女ともにメイクが最も大きな変革期を迎えたといっても過言ではないのが、平安時代。菅原道真の進言によって遣唐使が廃止され、日本はいわゆる鎖国のような状態に。海外からの文化の流入が途絶えたことで、独自の国風文化が花開きます。
その象徴的なもののひとつといえるのが、メイクです。
当時貴族女性の間で行われていたのは、眉化粧。自眉を毛抜きで抜いて白粉を厚く塗り、太い眉を描くというものです。歯には鉄漿(おはぐろ)を塗り、唇に少量の紅を指していました。
この日本独特のメイク方法は、平安時代後期には男性の間にも広がっていきました。有職故実書『貞丈雑記(ていじょうざっき)』によると、後鳥羽院の御世の頃、花園左大臣と呼ばれた風流人・源有仁(みなもとのありひと)が女性をマネてメイクをし始めたのが最初とされています。
清少納言著の『枕草子』にも「白化粧がムラになって見苦しい」と男性のメイクについて言及する記述があり、眉化粧が男性においても身だしなみの一つとして定着していたことがうかがえます。
赤化粧から白化粧に変化した理由には諸説ありますが、最も有力なのは日本の住居が寝殿造りに変わったこと。寝殿造りの特長である長い庇(ひさし)によって日光が遮られ、室内が薄暗かったため、白化粧は顔の判別するのに適しており、また肌をキレイに見せることができたなどの理由が挙げられています。また、男性の場合は眉を上に描くことで顔を大きく見せる効果をもたらし、威厳を保つ役割があったと考えられています。
平安後期~鎌倉時代:対照的な平氏と源氏のメイク事情
戦に身を投じ、男らしく戦う姿を連想させる武士も、実はメイクをしていたということは意外と知らない方も多いのでは?武士で最初にメイクを取り入れたのは、源氏とともに勢力を二分していた平氏。保元・平治の戦いを制した平氏は政治の実権を握りますが、その際貴族の生活スタイルを積極的に取り入れていきました。その一つがメイクです。彼らのメイクは、平安時代からの流れを受け継いだ貴族風の眉化粧。威厳を保つ意味もあったと思われます。
一方の源氏は、質実剛健をモットーにすっぴんをキープ。実はこのメイクへの対照的なスタンスが、のちに明暗を分けることになるのです。
その後、次第に源氏が勢力を伸ばし平氏が劣勢に転じると、このメイクが仇となることがありました。その具体例としてよく取り上げられるのが『平家物語』に綴られている一節。
薩摩守平忠度(さつまのかみ たいらのただのり)は、一ノ谷の合戦で破れた後、源氏方に紛れて逃げようと試みますが、源氏の武将・岡部忠澄に見咎められて声を掛けられます。忠度は咄嗟に「私は味方だ」と言いますが、兜からお歯黒が見えてしまったことで平家だとバレてしまい、あえなく討ち取られてしまいました。
さらに、同じく『平家物語』出典の平敦盛(たいらの あつもり)の最期のシーンも有名。源氏方の武将・熊谷直実(くまがい なおざね)が、兜の下から現れた、薄くメイクをしてお歯黒をした美しい平家の若武者(平敦盛)を見て、首を斬ることを躊躇する様子が感傷的に描かれています。『男はなぜ化粧をしたがるのか』(集英社新書)を著した前田和男氏はこのシーンについて、男性のメイクが権威の象徴ではなく敗者の象徴として、涙を誘う敦盛の悲劇を効果的に演出していると説いています。
このように、メイクが平氏の威厳としての意味を持たなくなると、次第に首を取られても美しくあるために行うという考え方に変化していきました。
室町~戦国時代:豊臣秀吉もメイクをしていた!
平氏を制して鎌倉に幕府を開いた源氏はその後もすっぴんを貫き、武士の間でメイクは一時途絶えましたが、室町時代になると復活。中流から上流の武士たちは、再び貴族をまねてお歯黒をするようになります。そのメイク熱は群雄割拠の戦国時代に入っても続き、今川義元や北条氏綱・氏康などが貴族風のメイクを取り入れていたのだそう。平氏と同様首を取られても武士としての誇りを保つため、教養や地位の高さを示すため、また公家文化への憧れなどが理由として挙げられています。さらに、豊臣秀吉の伝記『太閤記』では「作り鬚(ひげ)に眉を作り、鉄黒(おはぐろ)なり」という記述があり、秀吉も晩年は公家風のメイクをしていたようです。
ちなみに、戦国時代のメイクは大将など身分の高い武士を中心に行われていました。そのため、戦では身分の高い武将の首を取るほど手柄になることから、あえて捕った首にお歯黒をほどこしてから自分の大将に報告するといった細工も行われていたのだそうです!
江戸時代:清潔感は、粋な江戸っ子の条件だった!?
江戸時代は、今まで上流階級だけのものだったメイクが、歌舞伎役者や遊女といったインフルエンサーの影響で町人の間にも普及。化粧水や白粉などのコスメが人気を博し、美容本『都風俗化粧伝(みやこふうぞくけわいでん)』がベストセラーになるなど、空前の美容ブームが巻き起こりました。
一方、武士のメイクは衰退傾向に。はっきりとした理由は不明ですが、平和な世の中になって必要がなくなったこと、贅沢を禁止する倹約令が出されたことなどが考えられます。公家や歌舞伎役者を除いた男性の間ではほとんど行われなくなったものの、武士道を説いた名著『葉隠』では、武士に身だしなみの一環として口紅や頬紅を持ち歩くよう推奨しているので、一部の武士の間ではメイクの習慣が残っていたようです。
紅や白粉を使ったメイクをする機会は少なくなりましたが、男性も身だしなみには気を遣っていました。天明年間(1781年~1789年)には、町人の若者の間で眉のお手入れがトレンドに。眉を抜いて薄くした“かったい眉”と呼ばれるスタイルで粋を競っていたのだとか。また、銭湯に常置されている毛切り石でムダ毛ケアをしたり、江戸っ子の粋を表す白い歯を保つために念入りなオーラルケアをしたりしていたそうです。
さらに、寺門静軒著『江戸繁昌記』には、「女のように糠袋(ぬかぶくろ)で肌を磨いている男がいた」と記されており、女性がデイリー使いしていたスキンケアアイテム・糠袋を使って肌のお手入れをしている男性もいたようです。
男性がメイクをしなくなったのは明治時代以降!?
ここまで見てきたように、古代から江戸時代にいたるまで、男性もさまざまな形でメイクを嗜んできました。この長い歴史にピリオドを打ったのが、明治維新です。
政府は富国強兵をスローガンに掲げて、他の列強国と肩を並べるために急速に近代化を推進。男性は産業と軍隊を支える健康体であることがなによりも優先で、その妨げになるようなメイクやファッションは不要とみなしていました。実際、明治天皇自らが平安時代から続く公家の慣習であった眉化粧を辞め、軍服を身にまとい、髭を蓄えた西洋風の装いで国民にアピールしています。
前出の前田氏は「日本にはもともとユニセックスをめでる美意識がある。男は男らしく、女は女らしくといった性差が生まれたのは明治以降だ」と語っています。
一方で、明治政府は衛生政策に注力しました。ちょうど幕末から明治の初めにかけて日本でコレラが流行。手洗いやうがい、石鹸の使用などを励行し、これまで日本にはほとんどなかった公衆衛生の観念が普及していくことになります。
男の美学が詰まったメンズメイク
その後、昭和の大きな戦争を乗り越えて社会が安定してくると、再び中性的なスタイルが特長の“フェミ男”や、派手なメイクを楽しむ“ギャル男”などが若者の間で流行しました。そして、今のメンズメイクブームに繋がっていくのですが、今回のこの盛り上がりは、You Tubeで誰もが気軽にメイクのノウハウを学べるようになったこと、そしてジェンダーレスの意識が高まっていることなどの理由から、明治時代以降では最も大きなトレンドになるのではないかと感じています。
歴史を振り返ると、メンズメイクにはその時代ごとに男性が大事にしている美学が強く反映されており、女性のものとはまた違った魅力があることがわかりました。そんなメンズメイクがこの令和の時代にどのような美学で新たな歴史を刻むのか。その動向に今後も注目していきたいと思います!
【参考文献】
『化粧せずには生きられない人間の歴史』石田かおり(講談社現代新書)
『男はなぜ化粧をしたがるのか』前田和男(集英社新書)
『化粧の日本史 美意識の移り変わり』山村博美(吉川弘文館)
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▼参考文献はこちら
化粧の日本史: 美意識の移りかわり (歴史文化ライブラリー)