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2021.10.07

妖怪タヌキを斬り捨て御免!毛利元就と武田信玄、幼少期の大物伝説

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「大器晩成」だと信じたい。
そんな密かな願望を持つのは、きっと、私だけではないだろう。

どんどん活躍する若手たち。そんな彼らを見て眩しさに目を細めると同時に、苦い気持ちにもなる。もちろん、この「苦い気持ち」は相手にではない。自分に対してである。

もっとうまくやれる。こんなもんじゃ終われない。そう焦る一方で、「晩成」って、一体、いつなんだ。まさか、通り越したりしてないだろうななんて。弱気になることも。

社会的に成功するパターンは大別して2つ。
幼少期より既に「大物」の片鱗を見せるタイプと、凡庸ながらも次第に実力を身に付けて、のちに花開くタイプ。

さて、戦国時代に活躍した多くの武将たち。
彼らの多くは前者、いわゆる「幼少期よりどこか人とは違うタイプ」に分類される。これに関しては、正直、出来レースみたいなもので。「勝てば官軍」の世界なのだから、後世に創作されることだってあるあるの話。

ただ、そうであっても。
あれだけの軍勢を率いていたのだから、やはり、カリスマ性はあったのだろう。今回は、そんな神懸った能力を見せつけた「子ども時代の戦国武将」がテーマ。

取り上げるのは、コチラの2人。
「甲斐の虎」こと武田信玄。そして、「調略の鬼」こと毛利元就(もうりもとなり)。

両者共に、後世にまで名を馳せた、すんごいオーラを放つ戦国大名。幼少期から大人顔負けの「スゴ腕」を持つ彼らは、一体、何が違うのか。信じられないエピソードを元に、彼らの子ども時代を探っていきたい。

「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」型の2人。ちなみに栴檀って何ぞや? と思ったら、白檀(びゃくだん)のことなのだそう。

幼少期からの大物伝説。
それでは、早速、ご紹介していこう。

※冒頭の画像は、月岡芳年 「新形三十六怪撰」 「武田勝千代月夜に老狸を撃乃図」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)となります
※この記事は、「毛利元就」「武田信玄」の表記で統一して書かれています

毛利少輔次郎VSズル賢い山のキツネ

才知の極めてすぐれた子どもを「神童」というが。彼らが持つ非凡な「才能」は、なにも1種類とは限らない。様々な分野で考えれば、数知れず。例えば、論理的な思考も、そのうちの1つに挙げられるだろう。

最初にご紹介するのは、弱冠7歳でありながら、完璧な論理展開で、母親を黙らせた実績のあるコチラのお方。中国地方の覇者「毛利元就(もうりもとなり)」である。

明応6(1497)年3月。
安芸国(広島県)にて、毛利弘元の二男として生まれた元就。幼名は、「松寿丸(しょうじゅまる)」「少輔次郎(しょうじろう)」という。幼き頃から、その言動には目をみはるものがあったとか。

毛利元就 井上探景 「教導立志基」 「廿七」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

その中でもとっておきのエピソードが、「キツネ」との対決。

これは、元就が7歳の頃の話である。
彼は白鶏を飼い、それも大層可愛がっていたという。しかし、ある夜、そんな白鶏が忽然と姿を消す。まあ、なんとなくだが。白鶏が勝手に飛び出して、逃げていったとは考えにくい。一般的に考えるならば、襲われたり、食べられたりした可能性が高いだろう。

翌日。夜が明けても、依然として白鶏の姿はない。元就は、居ても立っても居られず、付近を探し回ることに。すると、白い鶏の羽根を発見。そこら中に散らばっているではないか。もう、この時点で、なんとなくどころか。確実に、むしられたと推測できる。

ちなみに、羽根が落ちていた場所は、築山(つきやま)の辺り。じつは、この築山。キツネの穴がたくさんあって、ヤツらの住処となっていたのである。

「キツネ」と「白鶏の羽根」で。
ピーンと来た、元就。

──可愛い白鶏の仇
7歳の元就の中には、そんな強い気持ちがあったのだろう。絶対にキツネを許すまいと、いぶし殺すことを計画。松の葉を集めて、今から火をつけようしたその時。なんと、母親が使いを出して止めに来たのである。

いや、マジで。
元就のお母さん、大変だっただろうなと。ちょっと、同情してしまう。だって、それってある意味、自然の摂理なワケで。キツネが鶏を食べる。そんなの弱肉強食の世界では、当然のコト。息子よ、責めても意味がないのよと、教えたかったに違いない。

岸駒「竹鶏図」京都国立博物館所蔵 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/

けれど、元就は、全く納得しなかった。
逆に、母親の使いに対して、このように理路整然と説明したのである。

「家臣がけんかをして、一方を殺したような場合、殺した方の者をお助けになりますか。この鶏は、まさか狐に対して不埒なこともいたしますまい。それなのに殺して食うということは、その罪はけっして軽くはありません」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

確かに、言いたいことは分かる。
可愛いがっていた白鶏を殺されて、悲しかったし、悔しかったし、腹立たしかった。そんな元就の気持ちを理解できなくもない。

けれど、この論理では無理だ。というのも、前提が「家臣」となっているからだ。白鶏は飼っていたから「家臣」といえなくもないが、さすがに、築山のキツネはどうだろうか。コントロールが及ばないし、白鶏と同列には扱えない。

元就よ。
ちょっと、甘くはないか……。
おっと、なんだ。続きがあるじゃない。

「鶏も私の家来。狐もまたこの邸地にいるのです。いわば家来も同然。したがって狐を殺すのは道にはずれておりますまい」
(同上より一部抜粋)

なんと、弱冠7歳で、この論理武装。突っ込みどころも、自分でフォロー。こうして、元就は、母親の使いを返してしまったという。

その後、成長した毛利元就はというと。
「調略の鬼」の名の通り、心理戦を駆使して中国地方の覇者となる。敵方に通じて家臣などを寝返らせる、内部から崩壊させるなど、とにかく、頭脳戦での勝利が多い。

加えて、子どもや孫たちには長い手紙を書きまくる。説教くさい親父の印象も。

なんだかな。
確かに、幼少期の元就をみれば、大いに納得できる姿だといえるだろう。

武田勝千代VS妖怪古タヌキ

1人目の論理武装が凄まじかったので、ご紹介する2人目をどうしようかと考えていたが。やはり、突出した能力を示すには、「ヒトならざるモノ」を相手にするのが一番。

そこで、2人目はというと。
12歳という若さで、妖怪古タヌキと対決した実績のあるコチラのお方。最後まで上洛にこだわった「武田信玄」である。

大永1(1521)年11月。
甲斐国(山梨県)にて、武田信虎の嫡男として生まれた信玄。幼名は、「勝千代(かつちよ)」。幼少期の彼は、とにかく地頭が良かったというコトに尽きる。8歳から長禅寺に住み込んで学問に励んでいたようだが。禅僧に指定された書物を2、3日のうちに読み終えて一言。武将がそれほど読まねばならぬ書物ではないとバッサリ。周囲を驚愕させたとか。

さて、そんな多くの逸話を持つ信玄だが。
やはり、その中でもとっておきのエピソードといえば、「妖怪古タヌキ」との対決である。

歌川国芳「〔狸〕のうらない」「狸のかんばん」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

これは、信玄が12歳の頃の話である。
季節は秋の終わり。少し肌寒くなってきたところだろうか。夜に厠(かわや、便所)へ行こうと、縁側に出た信玄。その場所には、木馬があるのだが。その日に限って、その木馬が急に身震いしたのである。先に断っておくが、地震ではない。明らかに怪異である。

「勝千代~」
誰かが、名前を呼んでいる。一体、誰が……。

なんと、声の主は、この木馬。
ぶるぶると震え出した木馬が、信玄の名前を呼んだのである。

ここで、質問タイム。
一般人ならば、どうするか。この時点で、腰をぬかしたり、ひどい場合は漏らしたり。いや、それはしないか。とにかく、まずは、この尋常ではない木馬と距離を置こうとするだろう。

しかし、信玄は違った。
あまりにも不思議な現象であったために、その場に佇んでいたというのである。この時点で、もう既に、一般人を遥かに超えた反応である。

そんな信玄に、木馬はある質問をする。それがコチラ。

「勝千代、軍術と剣術とではどちらが是と思うか」
(同上より一部抜粋)

なんだよ。まあまあ、妖怪古タヌキも頑張ってるじゃん。一般人としては、「勝千代~怖いか。ハハハ~ハハハ~!」みたいな、単純に「驚かせ戦法」で来るかと思ったのに。意外にも、知恵比べの真っ向勝負と出たようだ。

ただ、信玄はというと。
──軍術も剣術もどちらも是である
このように回答したという。確かに、どちらかが必要で、どちらかが必要でないというモノでもない。

こうして、妖怪古タヌキとこのまま互角に戦うかと思いきや。
じつに、このあと。
まさかの予想外の展開が待っていたのである。

「『軍術も剣術もどちらも是である。これこそ剣術の妙である』というやいなや、ただ一打ちで切ってしまうと、手応えがあって、木馬は縁から下へどすんと落ちた。…(中略)…まもなく火をもっていってみると、そこには大きな狸が血に染まって死んでいた」
(同上より一部抜粋)

ええっ。
いきなり惨殺?

ちなみに、この話がベースとなっている絵がコチラ。

月岡芳年 「新形三十六怪撰」 「武田勝千代月夜に老狸を撃乃図」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

いいねえ。12歳の信玄が凛々しすぎる。少々、盛って描かれたような気もするが。一方で、口を開けてひっくり返っている古タヌキがなんとも哀れでならない。

月岡芳年は、無惨絵(残酷絵・血みどろ絵)と呼ばれる残酷な浮世絵を描いたことでも知られる浮世絵師です。木馬の赤い房が、ちょっとそれを連想させるような。

信玄がスゴいのは、一瞬、敵を油断させるところだろう。禅問答のような問いに答えたと思わせて、不意打ちで剣を抜く。今回のこの一件。正直、妖怪古タヌキからしてみれば、相手が悪かったというほかはない。

さて、その後の武田信玄はというと。
次第に近隣諸国へと勢力を拡大。だが、最終的には京都を目指すその途中で病に倒れて死去。

幼少期より、既にその片鱗を見せていた大物ぶり。何事にも動じない冷静な判断力があったからこそ、のちの天下人である徳川家康を「三方ヶ原の戦い」で撃破できたともいえる。あの家康に土を付けただなんて。天下統一を果たした豊臣秀吉でさえ、ある意味、できなかったコト。さすがとしか言いようがない。

最後に。
それにしても、子ども時代の戦国武将って。
キツネやらタヌキやら。想定外の出来事があまりにも多すぎる。

いや、逆に。
そんな環境だからこそ。
型にはまらず、より一層、大物へと進化できたのかもしれない。

参考文献
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月など
『戦国武将に学ぶ究極のマネジメント』 二木謙一著 中央公論新社 2019年2月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。