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2021.11.19

外国船に対しては「措置平穏」で。幕府、江戸湾警備の方針を見直し。——幕末維新クロニクル1847年4月

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日本が大きく変わった幕末。その時一体何が起きたのかを時系列で探る「幕末維新クロニクル」シリーズ。「とにかく、事を荒立てないように」。幕府のこのスタンスは吉と出るか凶と出るか——。

前回までのクロニクルはこちらからどうぞ。


1.オランダ国書を見た黄門さま
2.琉球にイギリス船、フランス艦、あいついで来る
3.戦列艦、突如として浦賀にあらわる!そして琉球に居座り続けるフランス艦隊
4.度重なる外国船来航、孝明天皇の耳に達す。その時下した「勅」とは
5.謹慎中の徳川斉昭登場!「戦艦製造は急務」…いや、そんなこといわれてもなぁ
6.水戸藩士・藤田東湖ほか御老公の巻き添えで処罰された者たちが宥免
7.薩摩藩、大英帝国と対決か? 飛び交う流言

サムネイル画像は明治30年ごろの善光寺(国立国会図書館デジタルコレクション「日本之名勝」より)

弘化4年丁未(1847)

これまで外国船を沿岸から砲撃して追い返したことが何度かありました。天保13年(1842)から薪水給与令に切り替えて、燃料と水・食糧の補給だけは認めるようにしていましたが、さらに「措置平穏」を指示するところまできました。外国嫌いの水戸の御老公は、さぞやお怒りであろうと思われます。

3月(大の月)

2日(1847年4月16日)

彦根藩主井伊直亮「掃部頭」 藩士ヲシテ相模海岸ヲ巡視セシメントシ、指揮ヲ幕府ニ請フ。

 彦根の殿様の名は直亮(なおあき)と読むそうです。末弟を養子にして、世子(世継ぎ)に据えています。相模の沿岸というと東京湾と相模湾に面していて、その分かれ目である三浦半島は山がちで、なかなか複雑な地形です。

6日

川越藩主松平斉典「大和守」・忍藩主松平忠国「下総守」 外国船警備ノ法ヲ協議シ、是日、之ヲ浦賀奉行ニ答申ス。

 さる2月15日に「あらためて」江戸湾警備に任ぜられた川越藩と忍藩とが、外国船警備の方策を協議していましたが、この日、浦賀奉行に答申しました。

7日

幕府、奏者番本多康禎「民部大輔・膳所藩主」ヲ罷ム。

 本多康禎(やすつぐ)は、近江国膳所藩(譜代7万石)の殿様です。「罷ム」と表記されていますが、罷免されたのではなく、自己都合で辞任したようです。天明7年(1787)生まれとのことで60歳くらいなので、体力的な問題でしょうか。

9日

学習所「後学習院」 開講式ヲ行フ。

 弘化3年閏5月28日に建物が出来て以来、講師陣を定め、書庫も充実させて、いよいよ朝廷の高等教育機関が開講です。

幕府、福岡藩主黒田斉溥「美濃守」・佐賀藩主鍋島斉正「肥前守」ノ長崎警備ノ功ヲ賞ス。

 かつてフェートン号事件に際しては、佐賀藩の家老が詰め腹切らされたことがありました。せめてお褒めのコトバくらいは無いとねぇ。

10日

佐賀藩主鍋島斉正ノ夫人国子「盛姫・大将軍徳川家斉女」 逝去ス。

 佐賀の殿様は、11代将軍家斉の娘を正室に迎えていましたが、その夫人が逝去しました。

大田原藩主大田原愛清「飛騨守」 致仕シ、嫡子広清「出雲守」 封ヲ襲グ。

 下野国大田原藩(外様1万1000石)の殿様は致仕(引退)し、世子の広清が順当に家督を継いだとのことです。大田原家は那須七党の一つで、古くから土地に根付いた土豪です。

11日

立太后召仰ノ儀ヲ内大臣近衛忠煕ノ第ニ行フ。

 召仰とは、上位の者が下位の者を呼び寄せ、役職を任命することです。ここでは朝廷の行事である、立太后の式に関わる者を任命する儀式が行われたということです。

年頭使宮原義周「弾正大弼・高家」 参内、正ヲ賀ス。

 江戸の将軍から派遣された年頭挨拶の使者が京都御所に参内しました。さる正月2日に派遣が命ぜられていますから、到着まで2ヶ月以上かかってますね。参内するとなると、いろいろ準備が要るのでしょう。

14日

立太后ノ儀ヲ行ヒ、准三后鷹司祺子「仁孝天皇女御」ヲ皇太后ト為ス。

 先年、崩御あそばされた仁孝天皇さまの女御を、皇太后とする儀式が執り行われました。

幕府、浦賀奉行及警備四藩「川越・忍・彦根・会津」ニ令シテ、外国船ヲ江戸湾外ニ乗留ムルコトヲ止メ、措置平穏ヲ主トセシム。

 それまで「江戸湾に外国船を入れるな」という御達しだったのを止めて「措置平穏」を主とするように浦賀警備の方針がかわりました。ようやく幕閣の皆様も、現実を直視し始めたようです。

幕府、彦根藩主井伊直亮・会津藩主松平容敬「肥後守」ニ各金壱万両ヲ、川越藩主松平斉典・忍藩主松平忠国ニ各金壱万五千両ヲ与ヘ、且直亮・容敬・忠国ノ参覲ノ期ヲ緩メテ、相模・安房・上総警備ニ力ヲ尽サシム。

 幕府のブラック体質は、急激に改善されつつあります。江戸湾警備の4藩それぞれに1万5000両ずつを配り、参勤も緩くしたうえ、「警備に専念せよ」という有り難い御言葉も。

17日

鹿児島藩家老調所笑左衛門「広郷」 鹿児島在番ノ琉球親方ニ、外国人ノ措置平穏ヲ主トシ、事情已ムヲ得ズンバ、貿易ヲ開始スベキノ内意ヲ伝フ。

 琉球王国に「やむを得なければ貿易を開始しても良い」と言ったのが、鹿児島藩=薩摩藩の家老だというのが心許ないですね。せめて殿様から伝えて欲しい内容です。しかも「内意」ですから、正式決定として伝えていません。そのコトバをそのまま受け止めるのは、怖すぎます。

19日

幕府、彦根・川越・会津・忍四藩ノ相模・安房・上総警備地域ヲ定メ、新ニ千駄崎「相模国三浦郡」・猿島「同上」・大房崎「安房国平郡」ニ砲台築造ヲ決ス。

 さきごろ江戸湾警備の方針を「措置平穏」を主とすると改めたばかりですが、交渉するにしても「いざとなれば撃つぞ」というスタンスは必要だということでしょう。新たな砲台築造が決まりました。

21日

外国船一艘、弘前藩領平館沖「陸奥国東津軽郡」ニ来泊シ、食料ヲ求メテ去ル。

 薪水給与令では、外国船に食糧を給与することも認めていますから問題ありません。

23日

幕府、浦賀奉行及警備四藩ヲ戒メテ、外国船トノ応接凡テ穏便ヲ主トセシム。

 砲台は築造するけれども、対処は穏便にということですね。現実的だと思います。

幕府、彦根藩主井伊直亮ニ令シテ、相模警備ノ兵員砲数ヲ録上セシム。

 いざというとき、彦根から相模まで弾薬を運んでいたら間に合いません。幕府から弾薬を届けたりもするだろうし、食事の手当をすることもあるでしょうから、員数の確認は大事です。

24日

幕府、鉄砲方井上左太夫「正路」・同田付主計等ノ大砲鋳造ノ労ヲ慰ス。

 幕府の鉄砲方は、井上組が和式砲術、田付組が蘭式砲術を担当しました。蘭式といっても、古式ゆかしい前装滑腔の大砲です。高島流砲術こそ革新的なのですが、流祖の高島秋帆は獄に繋がれていました。

鹿児島藩主島津斉興「大隅守」琉球中山王尚育ニ米及昆布ヲ給シテ、比年渡来ノ外国船警備ノ費ヲ補ハシム。

 鹿児島藩=薩摩藩の殿様が、琉球王に対し、外国船警備の出費を補うため無償で米と昆布を無償提供したとのことです。沖縄料理には大量の昆布を用いますが、もちろん亜熱帯の海では昆布なんかとれません。消費される全量を薩摩藩から買っていました。薩摩藩は北前船が下関に寄港したとき昆布を仕入れ、それを琉球に転売していますから要するに中継貿易です。琉球から仕入れた黒糖を大坂や江戸に送り出すのもまた中継貿易で、薩摩藩の重要な財源でした。

信濃・越後両国、大ニ震ス。

 世にいう善光寺地震です。震源は現在の長野市付近で、M7.4の内陸直下型地震だったと推定されています。家屋が倒壊し、火災も発生、地滑りで川が堰き止められ、それが一気に流れ出して二次災害も起きました。善光寺の参詣客多数が巻き込まれ、犠牲者は1万人に及んだとされます。

25日

日光東照宮奉幣使発遣日時定。

 朝廷から日光東照宮に派遣される奉幣使の日程が定められました。

国学者小山田将曹「初高田与清・松屋・武蔵人・贈正五位」 歿ス。

 小山田将曹の生家は郷士で、豪商の養子となって以後、5万巻もの蔵書を蒐集、自分の研究活動に活用したばかりでなく、求めに応じて書籍の貸し出しもしました。水戸の御隠居さまが殿様だった時期に召し寄せられ、小石川の水戸藩邸に出仕、後期水戸学に少なからぬ影響を与えた人でした。

27日

幕府ノ使者宮原義直「摂津守・高家」 参内、皇太后冊立ヲ賀ス。

 もう立太后の式は3月14日に終わっていますが、後ればせながら幕府からお祝いの使者が来ました。さる3月11日に年頭挨拶で参内した宮原義周の子です。

浜田藩主松平武成「右近将監」 江戸藩邸ニ於テ練兵ヲ行フノ許可ヲ請フ。幕府、之ヲ聴ス。

 石見国浜田藩(親藩 6万1千石)の殿様が、江戸藩邸で練兵を行いたいと幕府に願い出て許可されました。市中での発砲は厳禁されていたので、整列したり行進したりでしょうけど、そんなことにも一々お伺いを立てていたのですね。

28日

幕府、寄合成島桓之助「良譲」ノ書籍献納ヲ賞ス。

 成島桓之助は、もと奥儒者を務めていましたが、天保の改革が失敗したことによる政争に巻き込まれて失脚しています。賞されたということは、いずれ復権するでしょう。

幕府、儒者見習古賀増「謹一郎・後筑後守」ヲ以テ儒者ト為ス。

 さる弘化3年12月10日に書院番から転じて儒者見習に取り立てられ、わずか三ヶ月で「見習」がとれました。トントン拍子ですね。

外国船一艘、盛岡藩領佐井沖「陸奥国北郡」ニ於テ、我漂民九名「名古屋藩領幸喜丸乗組」ヲ帆船福寿丸「佐井浦松次郎船」ニ託シテ去ル。

 有名なジョン万次郎は天保12年(1841)に漂流してアメリカの捕鯨船に救助されていますが、同様のことは珍しくなかったでしょう。外国船が日本人漂流者を引き渡そうとして来航した事例は多々ありますが、たいがい追い返しています。ジョセフ彦はアメリカ国籍を得て、アメリカ人として日本の土を踏んでいますし、この時期ジョン万次郎は帰国前でした。この事例のように、沖合でコッソリ外国船から日本の船に漂流者を引き渡したことが、もっとあったとしても不思議ではありません。日本人の海外渡航は厳禁でしたから、帰国したら密航を疑われて死罪なんてこともあり得ましたから、漂流者側が正面切っての帰国を拒絶しただろうと思われますし。

晦日

京都町奉行水野重明「下総守」 著京、参内ス。

 水野重明を京都町奉行に任命する辞令が出たのが、昨弘化3年12月15日で、赴任するまで3ヶ月半ですね。ずいぶん時間をかけて準備するものなのですね。

幕府、大目付稲生正典「出羽守」ヲ転ジテ清水家老ト為ス。

 御三家のような強固な家臣団を持たない御三卿の清水家です。新任の家老は幕府からの出向で、前職は大目付とのことです。

刈谷藩主土井利祐「淡路守」 卒ス「二月三日」 是日、養子利善「民次郎・後大隅守」 封ヲ襲グ。

 三河国刈谷藩(譜代2万3000石)の殿様、土井利祐(としすけ)は満26歳で亡くなりました。世継ぎを決めていなかったので、本来なら無嗣絶家です。本来、末期養子は殿様が虫の息になった枕元で、辛うじて生きている間に決める養子のことで、死後に養子を決めるのはアウトなんですが、そこをナントカせねばなりません。実際に死亡したのは前年12月13日でしたが、この年2月3日になってから発表され、どうにかこうにか御家断絶にならずに済んだ感じです。

是月

会津藩主松平容敬・彦根藩主井伊直亮、相模・安房・上総警備ノ為、幕府ニ大砲ヲ借ランコトヲ請フ。

 江戸湾警備のための大砲を、幕府に貸して欲しいとのことです。その方が良いです。いくつかの藩の寄り合い所帯ですから、使う兵器は統一した方が良いです。でないと、隣の持ち場から弾を借りることさえ出来ませんから。

幕府、小姓組番頭跡部良弼「能登守・元町奉行」・町奉行遠山景元「左衛門尉」及勘定奉行石河政平「土佐守」等ノ治水ノ労ヲ賞ス。

 遠山の金さんを含めたお三方が「治水ノ労」によって褒賞を受けました。この時期、金さんは南町奉行でした。

長崎奉行井戸覚弘「対馬守」・同平賀勝足「信濃守」 再ビ役金ノ増額ヲ幕府ニ請フ。

 奉行ともなりますと、部下の頭数が足りないのを、私費で雇った私設秘書みたいな人員で補うこともありました。密偵を雇い入れるなど表向き予算要求し難い出費もあるでしょう。その分を役職手当として払ってくださいということのようですね。

幕府、宇和島藩主伊達宗城「遠江守」・備中松山藩主板倉勝職「周防守」・小泉藩主片桐貞照「助作・後石見守」・芝村藩主織田長恭「丹後守」・柳本藩主織田秀陽「安芸守」・新見藩主関長道「但馬守」・足守藩主木下利愛「肥後守」・赤穂藩主森忠徳「越中守」・岡藩主中川久昭「修理大夫」ニ、藩札使用ノ延期ヲ聴ス。

 藩札は、各藩が独自に発行した通貨ですけれども、基本的には兌換券です。いつでも要求され次第、券面記載の金貨や銀貨と交換できるよう保証された……という建前なんですが、実際には藩の支払い準備高を超えて発行されるのが通例で、藩が取りつぶしになれば紙屑になってしまうことが多かったのです。幕府としては、みだりに藩札を流通させない方針(できる限り償還させる)でしたが、外国船出没で人心が不安定で、なかなかそうも言っていられない経済状況だったようですね。

忍・佐野・館山・小諸の諸藩、各大砲ヲ鋳造ス。

 江戸湾警備に駆り出された忍藩、海岸線に面している館山藩なんかは、さぞや大砲が欲しいでしょうけれど、内陸の下野国佐野藩や信濃国小諸藩も鋳造しているのですね。

4月(小の月)

朔日(1847年5月15日)

高須藩主松平義建「摂津守」・高知藩主山内豊煕「土佐守」・弘前藩主津軽順承「越中守」 就封ニ依リ、福島藩主板倉勝顕「内膳正」 参府ニ依リ、各登営ス。

3日

会津藩主松平容敬「肥後守」 藩士ヲシテ安房・上総海岸ヲ巡視セシメントシ、指揮ヲ幕府ニ請フ。

 役儀のためとはいえ、よその藩の領土を歩き回ろうということですから、そりゃあ幕府にハナシを通しておかなきゃなりませんよね。

外国船、箱根及擇捉島沖ニ見ハル。松前藩主松前昌広「志摩守」・盛岡藩主南部利済「信濃守」・弘前藩主津軽順承、之ヲ幕府ニ報ズ。

 沿岸から見えたのは、どの国の船だったのかわかりません。それこそ世界中から捕鯨船が日本近海に集まっていましたからね。

8日

征夷大将軍徳川家慶及世子家祥、即位奉賀ノ為、松江藩主松平斉貴「出羽守」・高家武田信典「大膳大夫」・同織田信恭「大蔵大輔」ニ上京ヲ命ズ。

 孝明天皇さまの即位を祝うため、高家旗本が2名派遣されました。名前からして武田信玄の家系と、織田信長の家系だと見当が付きます。

幕府、大目付深谷盛房「遠江守」ニ朝鮮信使聘礼用掛ヲ命ズ。

 いわゆる朝鮮通信使の応接が、大目付の深谷盛房に命ぜられました。昨弘化3年11月5日には寺社奉行の内藤信親に、同年12月14日には学識のある旗本の筒井政憲が、同じ役に任じられています。

13日

膳所藩主本多康禎「兵部大輔」 致仕シ、嫡子康融「隼人正・後隠岐守」 後ヲ承ク。

 さる3月7日に奏者番を辞めた近江国膳所藩の殿様が、長男の康融に家督を譲ったとのことです。

14日

幕府、江戸学問所及天文方出仕中ノ長崎通詞ニ、夏秋ノ二季浦賀在勤ヲ命ズ。

 江戸学問所は幕府直轄の高等教育機関で、「昌平黌」(しょうへいこう)とも称されました。直参旗本はいうに及ばず、外様を含めた諸藩からも、また、郷士や浪人でも聴講が許可されていたので、日本全国から秀才が集って人脈を形成する場でもありました。幕府の出先機関である長崎奉行所に勤務する通詞たちも昌平黌で学んでいましたが、夏秋は浦賀奉行所で勤務するよう、命ぜられました。

15日

津山藩主松平斉民「三河守」・福井藩主松平慶永「越前守」・熊本藩主細川斉護「越中守」・仙台藩主伊達慶邦「陸奥守」・萩藩主毛利慶親「大膳大夫」・明石藩主松平慶憲「兵部大輔」・丸亀藩主京極高朗「長門守」・徳山藩主毛利広篤「後元蕃・淡路守」・赤穂藩主森忠徳「越中守」・苗木藩主遠山友詳「美濃守」・小城藩主鍋島直尭「紀伊守」・鳥取藩支藩「後鹿奴」主池田仲律「壱岐守」・伊予吉田藩主伊達宗孝「若狭守」・園部藩主小出英教「信濃守」・新見藩主関長道「但馬守」・豊岡藩主京極高行「甲斐守」・山家藩主谷衛弼「播磨守」・麻田藩主青木重竜「駿河守」・小野藩主一柳末延「土佐守」・狭山藩主北条氏久「相模守」・清末藩主毛利元承「出雲守」 参府ニ依リ、各登営ス。

 この筆頭に掲げられた美作国津山藩(親藩 10万石)の殿様は11代将軍家斉の子で、養子として藩を継いでいます。昨弘化3年4月18日に就封(帰国)して、キッカリ一年目の参府です。自領に滞在するのは9ヶ月くらいでしょう。

前水戸藩主徳川斉昭「前権中納言」老中阿部正弘「伊勢守・福山藩主」ニ松前・琉球等ノ近況ヲ問フ。

 海防に関心を持つのは悪いことじゃないけれど、おそれながら水戸の御老公さまには関わりないことではないかと存じますが?

16日

幕府、浦賀奉行ノ権限ヲ更メテ、専ラ外国船応接ノ事ニ任ジ、警備ニ関シテハ彦根・会津・川越・忍ノ四藩ト協議セシム。

 浦賀奉行所は、もともと江戸湾に出入りする船舶を監視するとともに、海難救助にあたる役所でしたが、このたび外国船の応接に専念させることとし、沿岸警備に関しては彦根ほか4藩と協議させるとのことです。

彦根藩主井伊直亮「掃部頭」 家老中野若狭・中老兼軍監岡本半介等ヲ遣シ、相模海岸ヲ検分セシム。

 さる4月3日に幕府へ話を通しておいた相模の海岸を検分する件が、実施されました。

鹿児島藩小姓岩切英助、那覇「琉球」ニ著シ、藩命ニ依リ、仏国人ニ就イテ語学ヲ修ム。

 鹿児島藩=薩摩藩はフランス語の修得に乗り出しました。近い将来、琉球王国で貿易開始もあり得るということかと思われます。

琉球中山府三司官、外国船久米・宮古・八重山諸島ニ寄泊ノ状ヲ鹿児島藩ニ報ズ。

 琉球王国としては外国船を歓迎したくないみたいですが、押し掛けてくる側に遠慮はなさそうですね。

19日

忍藩主松平忠国「下総守」・広島藩主浅野斉粛「安芸守」・津藩主藤堂高猷「和泉守」・二本松藩主丹羽長富「左京大夫」・米沢藩主上杉斉憲「弾正大弼」・岡山藩主池田慶政「内蔵頭」・久留米藩主有馬慶頼「中務大輔」・宇和島藩主伊達宗城「遠江守」・中村藩主相馬充胤「大膳亮」・秋月藩主黒田長元「甲斐守」・長門府中藩主毛利元運「左京亮」・出石藩主仙石久利「讃岐守」・人吉藩主相良長福「志摩守」・本庄藩主六郷政恒「兵庫頭」・佐伯藩主毛利高泰「安房守」・八戸藩主南部信順「遠江守」・蓮池藩主鍋島直紀「甲斐守」・一ノ関藩主田村邦行「右京大夫」・大溝藩主分部光貞「若狭守」・亀田藩主岩城隆喜「伊予守」・庭瀬藩主板倉勝貞「摂津守」・仁正寺藩主市橋長和「下総守」・岡山藩支藩「後生坂」主池田政和「中務少輔」・菰野藩主土方雄嘉「備中守」・柳本藩主織田秀陽「安芸守」新谷藩主加藤泰理「大蔵少輔」・多度津藩主京極高琢「壱岐守」・下手渡藩主立花種温「主膳正」就封ニ依リ、大聖寺藩主前田利平「備後守」参府ニ依リ、各登営ス。

20日

彦根藩、砲術伝習ノ為、藩士ヲ浦賀ニ派遣ス。

 砲術を教わるなら、高島秋帆こそ師範と仰ぐべきですが、幕府は獄に繋いでしまいました。

21日

幕府、浦賀来航外国船ノ乗留及問情ヲ、長崎ノ例ニ倣ヒテ奉行ヲシテ専行セシメ、警備四藩ノ警邏船派出ヲ止ムルノ可否ヲ海防掛ニ諮問ス。海防掛、其不可ヲ答申ス。

 浦賀に来航する外国船への対処を、長崎の例にならって、いちいち幕府に伺いを立てず、浦賀奉行の判断でやらせることとして、江戸湾警備の4藩(自藩の領外で活動しているので、責任は幕府にも及びます)の警備船派出をやめてしまっても良いのではないか……要するに「責任は現場でかぶれ、江戸に責任を負わせるな」ということでしょうけれど、「さすがにそれはないでしょう」と、海防掛から答申されたとのことです。

松代藩主真田幸貫「信濃守」領内震災ノ状ヲ具シテ参覲延期ヲ幕府ニ請フ。

 さる3月24日、善光寺地震で甚大な被害を受けた信濃国松代藩(外様ただし譜代格 10万石)の殿様は、参勤の延期を幕府に願い出ました。この殿様は松平定信の子で、養子として松代藩を継いだ人です。将軍家の血筋を引いているためか外様ながら天保12年(1841)から弘化元年(1844)まで老中を務めていました。

宇和島藩主伊達宗城、琉球ノ事情及蘭書ノ借覧ニ関シ、前水戸藩主徳川斉昭ニ復書ス。

 さる4月19日に参勤を終えて帰国の途に就いた宇和島の殿様は、この日、水戸の御老公様からのお手紙に返事を出しました。あんまり御老公と親しくしない方が良いと思いますけどね。

22日

幕府、和歌山藩主徳川斉彊「権大納言」ニ、同族菊千代「後慶福・後将軍家茂・前藩主斉順庶子」ヲ養子ト為スヲ許ス。

 御三家の和歌山藩=紀州藩は、弘化3年閏5月8日に代替わりしています(本シリーズ第3回を参照)。その新しい殿様が、同族の菊千代を養子に迎えることについて、幕府の許可を得ました。菊千代の実父は11代将軍家斉の7男の徳川斉順(なりゆき)で紀州藩を養子として継いだ人でしたが、嫡男の菊千代が誕生する半月前に死亡しています。生まれていない子に跡を継がせることは出来ないので、いまの殿様を養子に迎えたわけであります。菊千代の養父となる徳川斉彊(なりかつ)は家斉の21男なので、実父と養父は兄弟です。養子縁組が複雑なので「同族」という括り方をしてますけども、血縁は非常に近いです。この菊千代ちゃんが、やがて紀州徳川家を継いで慶福(よしとみ)となり、さらには14代将軍の候補に名乗りをあげるわけです。

浜松藩主井上正春「河内守」卒ス「二月十二日」是日、嫡子正直「英之助・後河内守」家ヲ継グ。

 遠江国浜松藩(譜代 6万石)の殿様が病死して、嫡男が順当に跡を継ぎました。上野国館林から浜松への転封では、前の領主だった水野忠邦が領民からの借金を清算せずに去ったため大規模な一揆が発生するなど、かなりの迷惑を被った人でした。

彦根藩主井伊直亮、相模警備ノ為、大砲ヲ鋳造センコトヲ幕府に稟ス。

 かねて江戸湾警備を命ぜられている彦根藩の殿様は、相模警備のために大砲を鋳造したいと幕府に申し出ました。

23日

幕府、飯山藩主本多助賢「豊後守」ニ、領邑震災ニ依リ、金三千両ヲ貸与ス。

 さる3月24日の善光寺地震で被災した信濃国飯山藩(譜代3万5000石)の殿様に、幕府は3000両を貸与しました。

24日

賀茂祭。

 春の賀茂祭です。

25日

石清水臨時祭。特ニ外警ヲ祈禳ス。

 臨時祭という名前なのに、毎年の三月の中の午(うま)の日、または下の午の日に行われる恒例行事のはずなのですが、なぜか、弘化4年は4月に入ってから、しかも戌(いぬ)の日に行われていますね。「特ニ外警ヲ祈禳」したというから、異例の日程は宗教的に格別な意味があったのでしょう。

26日

左大臣二条斉信「従一位」当官及随身兵仗等を辞ス。即日薨ズ。廃朝三日。

 左大臣の二条斉信が薨去しました。 天明8年3月5日(1788年4月10日)生まれとのことで、満59歳でした。廃朝とは、天皇が政務を休むことをいい、音奏・警蹕(シリーズ第1回で説明しています)が行われません。

28日

幕府、勘定組頭竹内保徳「清太郎・後下野守」等ヲ相模・安房二国ニ派遣シテ、猿島「相模国三浦郡」・千駄崎「同上」・大房崎「安房国平郡」三砲台築造ノ事ニ当ラシム。是日、保徳等、江戸ヲ発ス。

 幕府は勘定組頭を相模国および安房国に派遣して、猿島・千駄崎・大房崎の三砲台築造に従事させるとのことで、この日、江戸を出発しました。猿島は横須賀沖に浮かぶ江戸湾唯一の島で、千駄崎は久里浜の南、大房崎は現在の千葉県南房総市富浦町に位置します。

佐土原藩主島津忠寛「淡路守」参府ニ依リ、高鍋藩主秋月種殷「佐渡守」就封ニ依リ、各登営ス。

幕府、松代藩主真田幸貫ニ金壱万両、須坂藩主堀直武「長門守」ニ金千五百両ヲ貸与シ、領邑ノ震災ヲ救恤ス。

 善光寺地震で被災した松代藩と信濃国須坂藩(外様1万石)に、幕府は救恤のための資金を貸与しました。

福岡藩主黒田斉溥「美濃守」長崎警備年番タルヲ以テ長崎ニ抵リ、番所ヲ巡検ス。

 筑前国福岡藩(外様47万3千余石)は、佐賀藩と1年おきに交代で、長崎(幕府直轄領)の警備についていました。そろそろ任務につく時期なので、番所を巡検しました。

是月

蘭学者高野長英「譲・瑞皐・環海・時ニ脱獄中相模国足利上郡ニ潜メリ」知彼一助ヲ著ハシテ西洋ノ事情ヲ論ジ、辺防ノ緊要ヲ説ク。

 高野長英は、天保10年(1839)の「蛮社の獄」で捕らえられた蘭学者ですが、弘化元年(1844)に脱獄していました。この頃、『知彼一助』という、イギリス、フランスの国勢を概説した論考を著しています。公刊するのは憚られたようで、宇和島藩伊逹家にある一冊だけが現代に伝わっています。知彼一助は「彼を知る一助と為す」と読めます。ここでいう「彼」とは、西洋のことでしょう。

書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。