Culture
2022.06.25

武田信玄とは何をした人?出身地や有名な戦い・死因、家康との関係も解説

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2023年スタートのNHK大河ドラマ『どうする家康』で、阿部寛さんが武田信玄を演じることになりました。そういえば、武田信玄ってどんな人だっけ? 家康との関係は? 知識ゼロでもすっと読めるわかりやすい予習記事をお届けします。

武田信玄と聞くとほうとう食べたくなるな……。

父を追放し、武田氏を継ぐ

武田信玄は、戦国時代の武将。甲斐国(山梨県)守護の武田信虎の子として誕生。幼名は勝千代(かつちよ)で、元服後は晴信(はるのぶ)、出家してから信玄と名乗りました。

『江戸錦今様国尽 武田信玄・三嶋おせん 甲斐・伊豆』部分 国立国会図書館デジタルコレクション

父・信虎は国内が疲弊しているにもかかわらず戦いを続けたため、民衆や家臣から恨まれていました。1541(天文10)年、家臣たちはそんな信虎を駿河(静岡県東部)の今川義元のもとへ追放し、信玄に跡を継がせました。

父・信虎の評価は、近年変わってきているようですね。

信虎は息子信玄に追放されますので、後世「悪逆非道な主君」としてのイメージが定着してしまいましたが、実際の史料には悪逆非道を裏づける具体的な内容は見出せないようです。ただ災害や飢饉で困窮する中、信虎が合戦を続けるので、甲斐の領民は苦しみ、信虎を怨んだのは事実でした。その一方で、信虎が戦ったことで甲斐国は統一され、甲府を首府とする戦国大名武田家が生まれたわけですから、息子信玄の活躍は、父信虎が怨みを買いながらも整えた体制があったからこそ、ともいえます。信虎は信玄よりも長生きし、足利将軍の命を受けて反信長の動きをするなど、個人的には面白い人物だと思います。
辻 明人氏より

上杉謙信と並ぶ戦国最強武将

家督相続後、信玄は信濃(長野県)に侵攻し、村上義清を降したのち、今川義元、北条氏康と同盟を結びます。これがきっかけとなり、上杉謙信との5回に及ぶ川中島合戦へ。その後、上野(こうずけのくに、群馬県)にも勢力を広げ、今川義元が没すると駿河(静岡県東部)、遠江(とおとうみ、静岡県西部)にも侵攻するなどして、領土を広げました。

領土拡大を目指す中で、上杉氏・北条氏・徳川氏・織田氏と対立しましたが、特に、越後(新潟県)の上杉謙信は好敵手。両者は、天文22(1553)年8月に前述の川中島で対峙してから足掛け12年にわたり、5回対戦しています。

2007年の大河ドラマ『風林火山』で、GACKTさんが上杉謙信を演じたのが印象的でした!

孫子の兵法を学び、治水などにも尽力

戦国最強武将とも言われた信玄は、政治手腕も優れていました。法律規範として「甲州法度」を制定したり、治水のため川の氾濫を防ぐ堤防「信玄堤」を造ったり、漆や製紙などの産業を奨励したりしました。

武田信玄が築いたとされる信玄堤
ほうとうも、陣中食として信玄が考案したという説があるようですね(ほうとうが食べたい)。

戦術や政治については、兵法の古典『孫子』を学び実践したといわれています。信玄の軍旗に記されたとされる「風林火山」も孫子の兵法からの言葉で、こちらの記事でその秘密が読めます。

戦でなく出陣前からの病気で無念の病死

上洛(京都に行くこと)を目指したともいう信玄は、三方ヶ原の戦いで、徳川家康・織田信長の連合軍に見事勝利を収めます。家康は信玄に完敗を喫してしまうわけですが、戦場での恐怖のあまり脱糞してしまったとか。クスっと笑えるおもしろ記事がありますので、ぜひお読みください。

戦ではすさまじい強さを誇った信玄ですが、出陣前から患っていた病気が悪化したため撤退を余儀なくされました。しかし、甲斐まで戻ることなく、途中の信州伊那の駒場(こまんば、長野県)で没しました。

死する際に残した「三年の間我死たるをかくして」「明日は瀬田に旗を立てよ」ほか、信玄の人柄を偲ばせる言葉がこちらの記事で読めます。

もう少し長生きしていたら、どんな世になっていたのかな~。

アイキャッチ画像:
『信玄 芝翫・鬼小僧 左団次/九十郎 菊五郎・新兵衛 訥升』 部分 国立国会図書館デジタルコレクション

主な参考文献:
デジタル版『日本大百科全書』
デジタル版『世界大百科事典』
『デジタル大辞泉』
デジタル版『国史大辞典』
デジタル版『日本大百科全書(ニッポニカ)』

▼2007年大河ドラマ『風林火山』の原作はこちら
風林火山 (新潮文庫)