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2020.10.18

「ワシがう〇こを漏らしただと!?」徳川家康にインタビューしたら、脱糞説に激怒された

この記事を書いた人

江戸幕府の初代将軍・徳川家康。その知名度から家康にまつわる逸話は数多く存在しますが、なかには彼の名誉を傷つけるようなものもあります。

その代表例が、「徳川家康脱糞説」。家康は三方ヶ原(みかたがはら)の戦いで武田信玄に完敗を喫し、戦場での恐怖から脱糞。家臣にその跡を見られると「これは味噌だ」と言い訳したとされます。一方、戦いにおける惨めな姿を記録に残し、後世での戒めとするべく「しかみ像」と言われる苦虫を嚙み潰したような表情の肖像画を書かせたとも。

この説は一般に広く流布していますが、「事実と異なる部分があるのではないか」という可能性も指摘されてきました。

こうした背景がある中、編集部に一通の書状が届きました。署名欄を見てみると、家康の花押(サイン)があるではありませんか! 内容は「豊臣家を滅ぼして後顧の憂いもなくなったので、脱糞説に反論したい」とのこと。

筆者は早速、早馬を飛ばして家康の住処・駿府城へ。家康と対面し、その真意を聞きました!

(言うまでもありませんが、このインタビューは「妄想」です! また、文中には適宜筆者注が入っており、参考資料とともに文末で詳しく解説しています)

晩年も学び続ける家康

元和元(1615)年、駿府城。

―― 家康公(注1)、お招きいただきありがとうございます。

(無言で本を読む家康)

―― 家康公~? 本日取材のお約束をしていた、和樂webの者ですが!

家康:……。おお、和樂webの物書きか! すまんすまん、読書に熱中していた。

―― いえいえ。しかし随分と熱心に本を読まれていますね。

家康:読書はライフワークでね、今日は『論語』を読んでいたよ(注2)。最近は目が遠くなってきたが、南蛮モノの『目器(今でいう老眼鏡)』があるから読書がしやすくていい(注3)。

―― やはり、読書は天下人として学識を深めるために?

家康:それもあるが、単純に何かを学ぶことが好きなんだ。「オタク気質」とでも言うべきかな。もう一度人生をやり直せるなら、学者になるのも面白いと思っているよ。

(注1)戦国時代に相手の実名を呼ぶのは失礼にあたるので、本来は官職名で呼ぶのが一般的でした。が、今回は分かりやすさ重視にしてみました。
(注2)家康はかなりの読書家であったと伝わります。
(注3)家康は新しいもの好きなところがあり、メガネなど南蛮モノを愛用していたようです。

脱糞説に話が及ぶと、物腰が一変……

―― それでは本題に入ります。昨今ちまたでウワサの脱糞説ですが……。

家康:(露骨にイライラした様子で)言いたいことは「山ほど」あるんだがね! とりあえず説明してみろ。

―― は、はい……。言い伝えをまとめると、家康公が三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗した際、戦場で恐怖を感じて脱糞。それを家臣が見つけ、家康公は「これは味噌だ」とごまかしたとなっていますね。

武田信玄

家康:……。あえて肯定的な意見を言うとすれば、三方ヶ原で信玄公に負けたのは事実だがね。して、オマエはこの話の出どころを知っているか?

―― 編集部で独自に調査したところ、『三河後風土記』という書籍の13巻に記述されているようです(注4)。

家康:読書は好きだが、こんな本はサッパリ知らんな。ちょっと見せてみろ……。

おい、そもそもこの史料だとワシが脱糞したのは三方ヶ原じゃなくて、一言坂になってるじゃないか! 三方ヶ原の話とすり替わっているのは、話を盛るための都合だろう!

もう許さん、キサマなんぞワシがこの場で叩き斬ってくれるわァ! 覚悟しろ!!!

(家康公が刀を抜いて眼前に迫ってくる)

―― ええっ……。ちょっと落ち着いて、落ち着いてください! そもそも『三河後風土記』は弊社の刊行物じゃないですし、私を斬ったら「家康脱糞説」の否定ができなくなっちゃいますよ!

家康:(しばらく考えたのち)ああ、それはその通りだ。よく考えたらオマエはワシの汚名を晴らす協力者だったわい。すまんすまん、熱くなりすぎた。

オホン、ではまず結論から言おう。当然、ワシは脱糞してない! そもそもだな、一言坂に出陣したのはワシじゃなくて部下だ。その時点で話が成り立たないじゃないか。そうなれば、味噌のくだりもウソってことになると思うがね!

(注4)この部分には、大久保忠隣は、馬の口取りに大声で「その(家康さまの)御馬の鞍壺をよく見ろ。糞がついているぞ。糞を垂れ遊ばされるほどだったか」と悪口を言った(出典:乃至政彦「【古典を愉しむ】第5回:本当は脱糞していない!?三方ヶ原合戦の徳川家康」https://rekijin.com/?p=24936)と書かれています。

「しかみ像」の由来もウソ?

―― 脱糞説が成り立たないことはよ~くわかりました。すると、軽々しく出陣して敗れた家康公が、「しかみ像」を書かせて猛省したという言い伝えもウソなのでしょうか?

家康:(また露骨にイライラしながら)少なくとも、そんな絵を書かせた覚えはないな……。ちなみに、どういう感じで描かれてるんだ?

―― この写真のように、足を組んで顔をしかめていますね。

家康:こんな絵を描かれた記憶はない! キサマ、だいたいどこまでワシを愚弄すれば気が済むんだ! かくなる上は、市中引き回しのうえに一族郎党全員六条河原で打ち首に処してくれるわァ!!!

(キレ散らかしながら将軍の命令を伝達する書類を書き始める)

―― だから待って、待ってください! 私の一族郎党を殺しても家康公の名誉は回復できませんよ!

家康:(筆を止めてじっくり考えたのち)ああ、確かにそうだ……。これまたやってしまった。どうにもキレやすいのは悪い癖だな……(注5)。

―― わかっていただければいいんです。本題に戻りますが、家康公は絵をどう見ますか?

少なくとも三方ヶ原で敗れたワシの姿を書いたものでないだろう。あと、描かれた人物はともかく、そもそもこの絵は本当に「顔をしかめて口惜しさを表現する絵」として描かれたのかね。

―― と、いいますと?

家康:いや、ワシにはそういう絵に見えないんだ。そもそも、着ているのは三方ヶ原の時期の武装ではなく、もっと古い時代のもの。さらに、この写真を見る限り、片足を組んで厳しい表情をしている。描かれた人物の特徴からして、いわゆる片足を組んだ仏像「半跏思惟像(はんかしゆいぞう)」に似ていないか?

すると、この顔をしかめた表情は憔悴しているのではなく、不動明王のように憤怒の感情を表しているともいえないかね?

―― つまり、これが家康公を描いたものだとしたら「半跏思惟のポーズをとり、憤怒の表情を浮かべてた礼拝用の絵」といえる?

家康:そんな気がするな。我ながら自己神格化は政権を維持するためには欠かせないと思っているし、ワシの知らんところで誰かが描いたんじゃないかね。

―― では、脱糞説だけでなく「しかみ像」の由来もウソだと。

家康:まあ、ワシも歳だから記憶があいまいにはなってきている。もしかしたら三方ヶ原で脱糞してたかもしれないし、しかみ像を描かせて忘れているのかもしれないな(笑)。

ただ、少なくとも今見た情報の限りでは、どれも事実とは言い難いと思うがね。このことを知った以上、どう行動するべきかは分かっているな?

―― ハイ、すぐ名誉の回復につながる記事を書きます! 三度の飯よりも、お風呂よりも、下駄を脱ぐよりも早く!!!

家康:(不敵な笑みを浮かべながら)それがよろしい。

(注5)史実における家康はかなりの短気で、かつそのことに自覚的であったとされます。

脱糞説やしかみ像の説を裏付ける有力な証拠はない

家康公が時折怒りをあらわにしながら語ってくれた通り、脱糞説やしかみ像の説を裏付ける有力な証拠は存在しないのが実情です。

インタビュー中にも触れた『三河後風土記』の成立は家康の死後とされ、同時代の一次史料とはいえません。また、家康が一言坂に出陣した記録はないとされ、江戸・明治時代を通じてこの話は他の著名な家康を描く伝記や軍記物にも登場しないのです。

では、なぜこの説が広く知られることになったか。その答えは、昭和に入って歴史作家・山岡荘八(やまおかそうはち)が記した小説『徳川家康』に登場し、同原作の大河ドラマが放送された影響だと考えられています。

また、上記のしかみ像についても、描かれた人物が家康で三方ヶ原合戦直後の作品という言い伝えができたのは最近のこと。そもそも、徳川家に伝わる史料を見ると、この絵は紀伊徳川家から尾張徳川家に譲られたもので、「家康の像とは認識しているが、三方ヶ原直後を描いたものだと示す記録はない」とされます。

一方、明治時代に入るとこの絵はなぜか「長篠の戦い陣中で描かれた」ということになり、やがて一般に公開されるようになると「長篠の戦いに敗れた際の絵」とこれまた脚色されました。そもそも、長篠の合戦で家康は負けていないので、「どうしてこうなった……」と言わざるを得ません。そして、昭和初期に問題の「三方ヶ原の戦いで敗れた際の絵」という認識が浮上してくるのです。

つまり、「徳川家康脱糞説」と「しかみ像に関する説」を整理すると、結論はこうなります。

・家康が脱糞したことを裏付ける有力な史料はない
・しかみ像が三方ヶ原の戦い直後に書かれたという説は、昭和になるまで存在しなかった可能性が高い
・両説ともに、有名になったのは昭和以降

結局、この説がどうしてこれだけ有名になったかといえば、「我慢の人」イメージのある家康らしく、苦難を乗り越えて成功を掴んだ姿が「それっぽく納得できたから」ではないでしょうか。真偽を検討せず「それっぽいな」で済ませてしまうと、考えなければならない点をスルーしてしまうこともある、というのが本件から学べる教訓でしょうか。

【参考資料】
本多隆成『徳川家康と関ヶ原の戦い』吉川弘文館、2013年
笠谷和比古『徳川家康』ミネルヴァ書房、2016年
原史彦「徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎」徳川美術館、2016年
https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/bcd297314498ffc33ee5c1ce05ca0657a85cb7b9.pdf
柴裕之『徳川家康:境界の領主から天下人へ』平凡社、2017年
乃至政彦「【古典を愉しむ】第5回:本当は脱糞していない!?三方ヶ原合戦の徳川家康」歴人マガジン
https://rekijin.com/?p=24936

アイキャッチ画像:永嶌孟斎『徳川家十六善神肖像図』、国立国会図書館デジタルコレクションより

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書いた人

学生時代から活動しているフリーライター。大学で歴史学を専攻していたため、歴史には強い。おカタい雰囲気の卒論が多い中、テーマに「野球の歴史」を取り上げ、やや悪目立ちしながらもなんとか試験に合格した。その経験から、野球記事にも挑戦している。もちろん野球観戦も好きで、DeNAファンとしてハマスタにも出没!?