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Culture
2022.06.29

日本の海軍の始まりはいつ?神武天皇の時代から続く海軍の歴史をひもとく

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はじめに

昨2021(令和3)年は、日本における海軍誕生から150年と言われていました。1872(明治5)年2月に軍事をとりまとめていた兵部省が分かれて陸軍省と海軍省が創設されたので、これを起点にすると確かに誕生から150年となります。

しかし、それ以前1869(明治2)年の箱館戦争で明治政府の軍艦は箱館に籠る榎本武揚を総裁とする箱館政権と戦火を交えました。これは海軍ではなかったのでしょうか。さらに遡って、海軍の始まりはいつだったのか。その謎に迫ってみたいと思います。

太古から近世

『近世帝国海軍史要』という戦前に書かれた海軍の歴史を記した書籍の最初のページには、日本が島国である以上、国民生活の必要により、常に船に慣れ親しみ、航海技量に熟し、海事が旺盛であることは自然なことで、太古の昔からすでに船舶を有して海洋に出て朝鮮半島や中国へと航海する交通手段として使用されていた。と書かれています。そして、海軍の始まりを神武天皇の時代(紀元前660年ころ)としています。

神武天皇は日向国高千穂宮(現在の宮崎県高千穂町とする説が一般的)に降臨し、そこから東遷(東征)のため船により吉備(岡山県附近)に向い、ここで水師(いわゆる海軍)を整え、自らこれを率いて摂津へ航海しさらに紀伊半島に至り、熊野に上陸した。そして大和に入り畝傍山東南の地に都を構えた。(前掲書より。要約)

神武天皇畝傍山東北陵(『聖光録』9コマ目 国会図書館デジタルコレクション)

このときに神武天皇が自ら編成して、率いた水師が日本海軍の祖となるわけです。そして、崇神天皇の時代(紀元前97~30年)に、諸国に詔(みことのり)を出して造船を奨励し、海事を発展させました。また身近な話題としては、1185年安徳天皇の時代、源平による壇ノ浦の海戦にあっては、源氏は800余隻、平氏は500余隻の兵船を用いました。これも日本国内での海軍の戦いともいえるわけです。そして、元寇や豊臣秀吉による朝鮮出兵なども、海軍の歴史と言えます。これら全部を辿っていくと、大変なことになるので、近代海軍の始まりに時間を一気に進めます。

徳川時代の末期に西洋海軍の制度を採用して日本に海軍を建設することを決定した幕府は、オランダに対して軍艦建造に関する交渉を始めました。オランダは鎖国中も長崎出島に限り通商貿易を許されていた国であり、さらに1844年にオランダ国王ウィレム2世から懇切な親書(ヨーロッパ情勢、そして中国の阿片戦争の二の舞をしないよう日本の開国を勧める内容)を受けたことも幕府が軍艦建造をオランダに持ち掛ける一つの要因になったと言われています。ちなみにオランダからの国書は『和蘭告密』と呼ばれ、検討の結果、幕府は、この勧告を丁重に謝絶しています。
(参考:大山格「オランダ国書を見た黄門さま——幕末維新クロニクル1846年3月」

そのオランダ国王からの親書にまつわる話を和楽webで紹介したのを覚えているでしょうか。


オランダ国王からの親書を携えて、オランダ軍艦「パレンバン(Palembang)」が1844(弘化元)年8月20日長崎に入港、翌21日大波止にコープス艦長らが上陸して長崎奉行と会見し、オランダ国王からの親書を託しました。書簡は未開封のまま江戸へ送られ、江戸から将軍からの返事が戻ってきます。その返事を受け取るために10月10日、出島から長崎奉行所の立山役所に向かう一行の様子が描かれているのが、この『蘭人コープス一行立山役所訪問図』で、ここに軍楽隊の演奏の様子が描かれていました。

そしてペリー来航から2年後の1855(安政2)年、長崎でオランダ人教師による海軍伝習が始まりました。その目的は、オランダから幕府に贈られる予定の「観光丸」、幕府がオランダに発注したコルベット艦「咸臨丸」・「朝陽丸」の乗組員を養成することでした。これをきっかけに幕末の海軍は近代海軍として整備されていきました。

明治海軍へ

その後明治維新を経て、明治海軍へと移り変わっていきます。冒頭で述べたように1872(明治5)年2月の海軍省を起点にするのが一般的のようですが、明確な定義はないのです。なぜならば、海軍は幕末からの連続した流れの中にあるからです。幕府も諸藩も近代海軍たる軍艦を保有し運用していたので、新たに設立されたわけでもなく、その所属が幕府や諸藩から政府に代わったということなのです。敢えて始まりを定義するならば、海軍省ができた明治5年というのが一番わかりやすいのですが、もう少し詳しく歴史を振り返ってみましょう。

徳川慶喜による大政奉還を経て、1877(慶応3)年12月9日に王政復古の大号令により、従来の摂政、関白、征夷大将軍等の職は廃止となり、新政府による総裁、議定、参与からなる新機構が京都に誕生しました。発足当初の機構は早い間隔で変更されていくので、何度かその職制は改定され、軍艦を掌る省庁的な組織は、1868(慶応4=明治元)年1月17日に定められた海陸軍務総督(当初は岩倉具視、島津忠義でのちに、仁和寺宮嘉彰親王)と海陸軍務掛(薩摩藩西郷隆盛、長州藩広沢真臣)で、これが明治維新後における海軍建制(行政)の始まりとされています。ここで政府は軍艦を保有してはいないものの、海軍行政を担当する組織は政府内にできたわけです。

仁和寺宮嘉彰親王(のちの小松宮彰仁親王)

一方で、明治元年1月3日に発生した鳥羽・伏見の戦いの後、翌2月に幕府討伐、東征の大号令が発せられ、3月26日明治天皇が、京都から大阪湾口の天保山に行幸し、海軍の操練を視閲しました。これは、天皇親任の海軍として意味付けるためのもので、この観艦式が帝国海軍初の観艦式とされています。しかし、このときすでに東征は始まっており、薩摩藩の軍艦「春日」と「乾行」は戦地にあり、観艦式に参加した軍艦はすべて各藩から差し出され、乗組員も各藩の所属でした。
同年4月11日に江戸城が開城して、新政府側に明け渡され、続いて28日には幕府軍艦の「朝陽」、「富士山」、「翔鶴」、「観光」も引き渡されます。ここで初めて新政府が軍艦を保有したのです。ただし乗組員は、政府所属ではなく各藩所属でした。新政府は、これら軍艦を概ね藩ごとに乗組員を乗せて運用させました。翌明治2年3月箱館追討のため8隻の艦船部隊が品川を出航、箱館戦争に勝利し、6月に凱旋して品川へ帰還しました。そして、同年7月8日に軍事を取りまとめる兵部省が創設され、2年半後の明治5年2月に兵部省が陸軍省と海軍省に分かれたのです。

この流れから、政府保有の軍艦が存在するのは、幕府の軍艦を摂取した明治元年4月28日となります。海軍省の前身とも言える海軍行政を担当する組織(海陸軍務総督)は、すでに政府内にはあったわけで、ここが明治海軍の起源と言えるのではないでしょうか。そうすると今年は155周年であり、1945(昭和20)年に解体されるまで、約78年存在したことになります(大井説ですね)。

海軍省の設置

さて、それでは次に海軍省の歴史を見てみます。
まず明治元年1月17日に海陸軍務総督が置かれたのは京都でした。総督は軍務官となり、のちに改正されて兵部省が明治2年7月8日に創設されました。このとき、新政府の行政の中心は京都でした。そして、翌明治2年箱館戦争終結からしばらくして東京へと行政の中心は移転し、兵部省は同年12月29日に、「鳥取藩池田家上屋敷」跡地(現・千代田区丸の内三丁目1番)に置かれました。
明治5年2月26日、和田倉門内旧会津藩邸(現皇居外苑)から出火した火災は、折からの強風に煽られ、丸の内、銀座、築地一帯など東京の中心地を焼失(銀座大火)させました。このとき出火したのは、実は兵部省の官舎からで、その2日後に「太政官布告第62号」が発せられ兵部省は廃止、代わって陸軍省と海軍省が設置されます。いかにも火災が大きな要因のようにも見えますが、それはまったく関係ありません。大火災はあったけれども、計画通りに進められたと解釈しましょう。

兵部省廃止後は、陸軍省が引き続き旧兵部省の庁舎を使用しました。当然のことながら海軍省は出ていくことになるわけで、その初代庁舎は明治5年2月29日、築地海軍所内(旧尾張徳川家蔵屋敷跡)に置かれました。そして、約10年間、1882(明治15)年まで海軍行政が掌られました。その築地について、歴史を遡ってみましょう。

築地と海軍

築地一帯は、もともとは埋め立て地ですが、武家屋敷が並んでいて、松平定信(1758~1829、寛政の改革で有名)の下屋敷に作られた庭園「浴恩園(よくおんえん)」がありました。それは春風池、秋風池、築山など風光明媚で林泉に富む汐入廻遊式庭園といわれています。

『江戸浴恩園全圖』(国立国会図書館デジタルコレクション)2コマ目、3コマ目を結合

しかし1829(文政12)年に、神田佐久間町から出火した大火は築地周辺へ及び浴恩園は全て焼失してしまいました。 

『水路部沿革史』(国会図書館デジタルコレクション)をもとに筆者が作図

その後、築地には幕府海軍の拠点でもある軍艦操練所が、浴恩園跡から東に少し離れたところに置かれました。軍艦操練所というのは、幕末に長崎においてオランダによる海軍伝習が始まった2年後の1857(安政4)年に江戸に開設されたもので、長崎で伝習を受けた幕臣と藩士らを教官として海軍の教育が始められたのです。多くの幕臣、諸藩からの伝習員が教育を受けますが、軍艦操練所の所掌範囲は教育・訓練に留まらず、艦船の運用から人事、予算といった海軍行政全般にわたっていました。つまり幕府の海軍省的な役割をもっていたのです。

明治2年、箱館戦争が終わると明治政府は海軍士官を育てるため、築地に海軍操練所を開設し、各藩からの生徒を募集しました。築地は幕府の軍艦操練所があった場所です。新政府は新しく行政府を作るに当たっては既存の諸藩の江戸屋敷や幕府の施設を活用したとされています。当時の兵部省が軍艦操練所のあった築地を選択したのは当然のことだったのでしょう。

その後、築地には水路局、軍医学校、経理学校、機関学校、海軍大学校、技術研究所などが次々と置かれていきます。海軍操練所は明治3年に海軍兵学寮と改称、さらに1876(明治9)年に海軍兵学校となり、1888(明治21)年に広島県の江田島に移転し、戦後海軍が廃止されるまで海軍士官の卵となる若い生徒らの教育を担っていました。

明治44年ころの築地の海軍施設 『水路部沿革史』(国会図書館デジタルコレクション)

海軍省の移転

さて海軍省は、明治15年5月15日に芝公園地の旧開拓使出張所跡に移転します。理由は手狭になったからで、海軍の拡張とともに行政府も拡張されていったのです。そしてわずか4年後の1886(明治19)年2月1日に赤坂葵町の旧工部省跡を大蔵省から譲受け、ここに移転し、最終的には、1894(明治27)年、霞ヶ関の外務省の建物の東側に、赤煉瓦の庁舎を新築しました。

兵部省から分かれて海軍省となって4回目の移転が最後となり、ここで終戦をむかえ、1945(昭和20)年11月30日に海軍省は廃止され、その跡地に1954(昭和29)年、霞ヶ関で初めての合同庁舎となる「中央合同庁舎第1号館」が完成、「農林省」(現「農林水産省」)が入居しました。

築地その後

話は築地に戻ります。明治維新後から海軍施設の多くが集中した築地ですが、1923(大正12)年の関東大震災で多くの施設が被害をうけました。一旦移転して他の組織に間借り、仮庁舎をこしらえて、業務を継続するなど、応急的な処置がとられていましたが、整備が進む中で、南東側一帯は海軍省用地跡を呼ばれるようになりました。おそらく壊滅した施設は移転等によりなくなってしまったのでしょう。そして、関東大震災からの帝都復興計画の中で、海軍省用地跡には、中央卸売市場が置かれることとなり、都民の台所、築地市場に発展したのです。

現在の地図と海軍施設の関係(国土地理院地図をもとに筆者が作成)

近年、卸売市場が豊洲に移転したことから、欲恩園の遺構発掘調査の話があるようです。浴恩園に限らず、海軍の施設、さらには幕末の軍艦操練所の跡地でもあるので、これらの遺構にも考慮して調査を進めて欲しいと思います。

参考文献:
金澤裕之『幕府海軍の興亡』
『水路部沿革史』(国会図書館デジタルコレクション)
廣瀬彦太『近世帝国海軍史要』(国会図書館デジタルコレクション)
東京都都市整備局ウェブサイト「まちづくり方針将来像等」 (https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/bosai/toshi_saisei/data/saisei0802_48.pdf)
三井住友トラスト不動産ウェブサイト「2:中央官庁の集積地 ~ 霞が関・永田町」(https://smtrc.jp/town-archives/city/kasumigaseki/p02.html)
国立公文書館ウェブサイトデジタル展示「災害に学ぶ -明治から現代へ-」(https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/saigai/index.html)
その他公文備考などアジア歴史研究センターのウェブサイトからダウンロード

書いた人

神奈川県横須賀市在住。海上自衛隊を定年退官し、会社員の傍ら、関心の薄い明治初期の海軍を中心に研究を進めている。お祭りが大好きで地域の子供たちにお囃子を教えている。