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2024.02.06

刀伊の入寇で激闘!藤原隆家は九州を守った武闘派貴族だった!

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「平安貴族」と聞いてどんな人物を思い浮かべますか? 歌を詠み恋愛している雅な貴族、あるいは朝廷の地位を争う政治的な野心家……。そんなイメージを持つ人も多いでしょう。しかし、貴族の中にもアクティブな武闘派もいます。

その一人が藤原隆家(ふじわらの たかいえ)。2025年NHK大河ドラマ『光る君へ』では流星涼(りゅうせい りょう)さんが演じます。今を時めく若手イケメン俳優さんではありますが、その役柄は意外とオトナで渋い感じの役も多く、そんな彼が武闘派貴族を演じるのは期待が高まりますね。

では実際の藤原隆家はどんな人物だったのでしょうか。

藤原隆家の半生

藤原隆家は天元2(979)年、藤原摂関家の嫡男、道隆(みちたか)の次男として生まれました。かの藤原道長(ふじわらの みちなが)の甥にあたり、清少納言が仕えた中宮定子(ちゅうぐう ていし)の同母弟になります。

藤原隆家の簡易家系図

▼藤原道長・中宮定子について、詳しくはこちら。
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王朝サロンのヒロイン!中宮・藤原定子を照らした光と影

隆家は満10歳の時に元服し、関白となった父の元、武官として順調に昇進していきます。幼いころから武に秀でていたことがうかがえますね。

しかし、満16歳になった長徳元年(995)年4月、父の道隆(みちたか)が亡くなり、関白を継いだ叔父・道兼(みちかね)もすぐに亡くなってしまいました。5月になり、藤原家の実権を握ったのが道長です。

本来は嫡男筋だった道隆の息子たちと実権を握った道長の仲が良かったハズもなく……。道長が家督を継いだわずか2ヵ月後、隆家の従者と道長の従者が乱闘事件を起こし、その翌月には隆家の従者が道長の随身(ずいしん=ボディーガード)を殺害する事件を起こしてしまいました。

さらに隆家自身も長徳2(996)年、花山法皇を襲って袖を弓で射抜くという「長徳(ちょうとく)の変」を起こします。原因は兄・伊周(これちか)の勘違いからでした。

法皇に弓を引いた藤原隆家

伊周はある女性の元に夜な夜な通っていましたが、花山法皇も同じ屋敷に通っていることを知りました。伊周のお目当ては姉で、花山法皇のお目当ては妹だったのですが、伊周は姉の元に通っているのだと思い込み、隆家に相談しました。そして隆家は家来を引き連れて花山法皇の一行を襲い、花山法皇の従者2人を殺害してしまったのです。

花山法皇は隆家への恐怖と、僧となっていたのに女性の元に通うという体裁の悪さが重なって黙っていましたが、噂はすぐに広まってしまいました。そこをついてきたのが道長です。

隆家は出雲国(いずものくに=島根県北東部)へと左遷され、伊周も大宰府(だざいふ=福岡県にある、九州全域を治め、国防と外交の役割を担った役所)へと左遷されました。左遷といっても実質的な仕事を与えられるわけでもなく、ほぼ配流(はいる)と一緒です。その他兄弟の関係者も次々と左遷され、中宮定子が出家する原因にもなりました。

ちなみに隆家は出雲国に赴任する途中、病気を理由に但馬国(たじまのくに=兵庫県北部)に留まっていました。

京に戻った藤原隆家

事件から2年後、長徳4(998)年、隆家たちは恩赦によって京へ戻ることができました。恩赦というと、天皇一族にめでたいことが起こると刑が軽くなったり、無くなったりすることですが、当時の恩赦は必ずしも慶事の時に行われるとは限りません。この時は一条天皇の母である藤原詮子(せんし/あきこ)が病気となり、回復を祈るために徳を高めようとして行われた恩赦でした。

京に帰ってからはさすがに反省して真面目に働くことにしたのか、隆家はこつこつと昇進していきました。しかし長保2(1000)年に難産の末に姉の定子が、寛弘7(1010)年に兄の伊周が亡くなってしまいます。

家の盛衰が肩に掛った隆家は、政治の場にも出てくるようになりましたが、相手は百戦錬磨の道長です。加えて少年のころのヤンチャっぷりが祟ってか、隆家には人望もありませんでした。

眼病治癒のために大宰府へ!

長和元(1012)年の末頃、隆家は尖ったもので目に傷を負い、それが原因で眼病にかかってしまいました。そんな中、大宰府には腕の良い眼の医者がいるという噂を聞きます。そこで隆家は大宰権帥(だざいの ごんのそち)に志願します。

ちなみにこれは大宰府の仮長官といった役職です。本来、長官は定員が決まっているものですが、平安以降は定員以上の人数を任命したいときに「権」をつけて任命しました。実際に正規の長官と同等の権限をもつこともあれば、名ばかりの場合もあります。大宰権帥は実質流刑である左遷をさせるときに使われることもありました。

ところが道長は九州の勢力と隆家が結びつくのを警戒し、これを妨害します。しかし当時の天皇である三条(さんじょう)天皇は隆家と同じ眼病を患っていたこともあり、隆家の大宰府行きを後押しし、長和3(1014)年11月にようやく大宰権帥に任命されました。

激闘!刀伊の入寇

大宰府に赴任した隆家は、地元民たちに慕われたようで、ずいぶんと評判がよかったようです。隆家が九州に来て5年後の寛仁3(1019)年に九州北部が外国の海賊に襲われるという事件が起こりました。これが「刀伊の入寇(といの にゅうこう)」です。

刀伊というのは、当時の朝鮮半島を支配していた高麗(こうらい)の言葉で東の蛮族を指す「東夷(とうい)」のことだと言われています。

刀伊は、中国の北東部にいた女真(じょしん)と呼ばれる民族が主体だったと考えられています。アマゾネスっぽい名前ですが、女真族の言葉で自分たちを示す「シュシェン」の当て字というだけなので、残念ながらたぶんオジサンの集団です。

なるほど、女真族はたぶんオジサンの集団、と。

>国土地理院地図より加工

刀伊はまず高麗を襲い、50艘を超える船で対馬(つしま)・壱岐(いき)・筑前(ちくぜん=福岡県北西部)を襲撃・奪略しました。

国土地理院地図より加工 日付は旧暦

対馬の国司は船で脱出し大宰府へ報告することができましたが、壱岐の国司は討死してしまいます。一方報告を受けた大宰府は、博多にあった警固所(けいごしょ)という防御施設で待ち受けることにしました。

その警備の指揮を取った1人が、他でもない藤原隆家です。隆家らは刀伊を見事撃退し、博多から追い払いました。

ちなみに刀伊はその後、肥前国(ひぜんのくに=長崎県)の松浦を襲いましたが、当時そこを領していた武士団に反撃にあい、朝鮮半島へ撤退していきました。しかしその後さらに高麗国の水軍によって撃退され、捕らわれた日本人300人が保護され、無事に日本に帰って来られたようです。

隆家はこの出来事がきっかけで九州内での人気が上がり、後世の九州武士団には隆家の子孫を名乗る家も多いようです。

一躍ヒーローになった隆家さん!

貴族だけど武士っぽい藤原隆家の魅力

隆家はその後、大宰府から京に帰ってきましたが、長暦元(1037)年から長久3(1042)年まで再び大宰権帥を務め、長久5(1044)年に満65歳で亡くなりました。

若いころから荒くれものとして有名でしたが、清少納言(せいしょうなごん)の随筆集『枕草子(まくらのそうし)』では姉・定子と他愛無い会話をして笑う様子が書かれていたり、朝廷のご意見番・藤原実資(ふじわらの さねすけ)の日記『小右記』にも実資にたびたび悩みを相談したことが書かれていて、どこか愛嬌がある人物でもあったようです。

『光る君へ』は貴族社会が中心のお話になりそうですが、武士ファンの歴史クラスタは彼に注目してみるのも良いかもしれませんね。

参考文献
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
土田直鎮『王朝の貴族』(中央公論社『日本の歴史』五)
倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房)

書いた人

神奈川県横浜市出身。地元の歴史をなんとなく調べていたら、知らぬ間にドップリと沼に漬かっていた。一見ニッチに見えても魅力的な鎌倉の歴史と文化を広めたい。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。