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今も昔も、桜の便りが人の心をさわがせ、名歌が詠まれた
またや見ん交野(かたの)のみ野の桜狩り花の雪散る春のあけぼの 藤原俊成
桜狩り雨は降り来ぬ同じくは濡ぬるとも花の影に隠れむ よみ人しらず
3月、雛の節句が終わると人はたちまち桜の気配に敏感になりはじめる。桜前線がどこまで北上してきたかはニュースとして報道されたりする。桜はどうしてこうも人の心をさわがせるのであろう。
ここに掲げた俊成(しゅんぜい)の歌は建久(けんきゅう)6年(1195)2月に行なわれた摂政(せっしょう)太政大臣(だじょうだいじん)良経(よしつね)邸の歌会で詠まれたことが詞書(ことばがき)などで知られている。俊成82歳の作である。
「交野の春のあけぼのを、また見ることができようか。もうそれはなかろう。しかし忘れない。桜の花片(はなびら)が雪のように散る、夢かと思うあのあけぼのを」とうたっている。
「花の雪散る春のあけぼの」という極美なイメージと幻想的な情景が、初句と三句で詠嘆深く切った言葉のひびきのあと、一気に迫ってくる。そしてまた、交野の桜狩りの場はあの伊勢物語の中で、不遇な生涯をもった惟喬親王(これたかしんのう)の桜狩りの場であったことを思い出してもいい。
親王は文徳(もんとく)天皇の第一皇子であったが、藤原氏の権勢に押されて失意の日々を送っていた。在原業平(ありわらのなりひら)が親王の側近にあったのは、業平の妻の叔母が親王の母であり、文徳天皇の更衣(女御の次位)であったからである。
交野は桜の名所でもあったが鷹狩りの御料地でもある。桜狩りはこの鷹狩に伴う酒宴の場の風雅に似合わしかったのだ。交野では渚院(なぎさのいん)と称するあたりの桜が最もよく、人々はその木のもと腰をおろし、桜の小枝を冠などに挿して酒宴を開き歌を詠んだ。
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(世の中に人の心をさわがせる桜というものが全くなかったら、咲くにも散るにも心をつかうことなく、どんなにかのどかなことであろうよ)。業平はこんな歌を即興に詠んで披露した。
ところで掲出したもうひとつのよみ人しらずの歌は、風流な面白さがあるので広く知られていた歌である。一条天皇の時代、殿上人(てんじょうびと)たちが東山の花盛りを眺めようと出掛けたところ、折悪しく俄雨(にわかあめ)となり、一同は大騒ぎして屋根の下へと逃げ込んだが、当時歌人としてその名が高かった藤原実方(さねかた)は雨を避けず、桜の花の木下(このもと)に佇(たたず)み、涼しい声でこの歌を朗誦(ろうしょう)したのである。
「桜狩り雨は降り来ぬ同じくは濡るとも花の影に宿らむ」、結句が少し違うが、場面と歌とはぴったりの現場感があり、人々は感動し賞讃(しょうさん)した。
評判は広まり、一条天皇のお耳にも入れようと、時の大納言斉信(だいなごんただのぶ)が奏上(そうじょう)したのだが、折ふしその場にあった蔵人頭(くろうどのとう)の才人行成(ゆきなり)は批判し、「歌は面白し、実方はをこ(愚おろかもの)なり」と言い放った。「歌はいい歌だが、実行するとは愚かものだ」と言ったのである。
じつに面白い対決の言葉であった。実方は以降行成に遺恨(いこん)をもち、或時(あるとき)は口論となり行成の冠を取って庭上(ていしょう)に投げ捨てたりしたが、やがて左遷をうけ陸奥守(むつのかみ)として下向(げこう)し、彼(か)の地に果てた。
馬場あき子
歌人。1928年東京生まれ。学生時代に歌誌『まひる野』同人となり、1978年、歌誌『かりん』を立ち上げる。歌集のほかに、造詣の深い中世文学や能の研究や評論に多くの著作がある。読売文学賞、毎日芸術賞、斎藤茂吉短歌文学賞、朝日賞、日本芸術院賞、紫綬褒章など受賞歴多数。『和樂』にて「和歌で読み解く日本のこころ」連載中。映画『幾春かけて老いゆかん 歌人 馬場あき子の日々』(公式サイト:ikuharu-movie.com)。
構成/氷川まりこ
※本記事は雑誌『和樂(2022年4・5月号)』の転載です。