「2025年は、戦後80年、そして昭和100年でもあるのです。私は能という形式で、戦争の記憶をとどめたかった」
そう語るのは、現代美術家・杉本博司さんです。

写真、建築、古美術収集、舞台演出──ジャンルを越えて「時間」を思索し続けてきた杉本さんは、2013年、修羅能作品を雑誌『新潮』で発表しました。そのテキスト朗読や朗読能の上演を経て、この夏、ついに本格的な能の舞台にかかります。能のタイトルは《巣鴨塚 ハルの便り》。公演日は終戦記念日である8月15日、1日限り。リニューアルで生まれ変わった東京・目黒の喜多能楽堂で行われます。
舞台となるのは戦後日本の象徴的な場所、巣鴨プリズン。そして、そこに現れるのは、A級戦犯として処刑された軍人、板垣征四郎の霊です。
きっかけは、A級戦犯が詠んだ漢詩
歴史の記憶を能に託す
杉本さんはアメリカにいたころ「なぜあんな戦争したんだ」と周りから聞かれることが多く、自分なりに戦争について研究し続けてきた、といいます。そして15年ほど前、戦争と芸術をテーマにした展覧会企画に関わることに。その準備過程で、A級戦犯全員が辞世を詠んだものを編んだ揮毫帳に出会いました。『新潮』に寄稿したエッセイの中で次のように語っています。
「処刑前夜に詠まれたという1首の漢詩に出会い、その静かな覚悟に心を奪われた」
それは、軍人として満州建国に関わり、戦後はA級戦犯として巣鴨プリズンに収容された板垣征四郎が自らの最期を前にして書き残した詩でした。極めて簡素ながら、悔いでも自己弁護でもなく、凜とした静けさの中に死を受け入れる姿が滲み出ているような内容に、純粋に人間として感銘を覚えたそうです。杉本さんはその詩に「この時代の歴史観や道徳観を超えた、普遍的な人間の姿を感じた」といいます。

能という様式を選んだ理由
杉本さんは、なぜ今回、それを能の形式で描こうとしたのでしょうか。理由は大きく2つあります。
ひとつは「死者の霊が現れて語る『夢幻能』こそ、歴史の語り直しにふさわしい」と考えたこと。そして「能は舞台に最小限の物と動きしかない分、想像力を喚起する」から、と。
杉本さんはこうも語りました。
「能は、この世とあの世の境界を扱う芸能です。なので、戦争の彼岸から〝人間の声〟を届けるのにふさわしいと思ったんです。霊としての登場人物が、自らの行動と記憶を語ることで、観客も〝何が本当の記憶なのか〟を考えるようになります」
つまり本公演の「巣鴨塚」は、単に戦争をテーマにした作品ではなく、〝私たちは過去をどう記憶し直すか〟という芸術的かつ倫理的問いも含んだ能でもあるのです。
「戦後80年」に込められた意味
杉本博司さんは、上演のタイミングを「敗戦から80年という節目」である今年に重ねました。それは、過去が〝語られないまま風化していく〟ことへの危機感でもありました。
「とても大きな節目だと考えていましたが、拍子抜けするほど、世間は静かな受け止め方のように感じています。まるで何もなかったのでは、と思うぐらい。平家が壇ノ浦で滅亡し、のちに盲目の琵琶法師によって『平家物語』が語られるようになったのと同じように、記憶というものは繰り返し語られることで初めて社会に残ります。語られない記憶は、死者とともに消えていく」
作品に出てくる板垣の霊は、何も言い訳もせず、裁きも求めず、ただ静かに語ります。杉本さんはそこに、現代の人間が「記憶を受け取る側」として、どう振る舞うべきかということも問題提起したかったのかもしれません。
「あの戦争は、なんだったのか──」
本作は静かに、しかし深く戦後日本の魂の在処に触れていきます。静寂の舞台に現れるのは、心にズンと響く死者の声。杉本博司という稀代の美術家が挑む「能の書き手」としての顔を、ぜひこの機会に見届けてください。
文/『和樂』編集部
公演情報
敗戦80周年記念公演 杉本修羅能『巣鴨塚 ハルの便り』
日時:2025年8月15日(金)18:00開演
会場:十四世喜多六平太記念能楽堂(喜多能楽堂)
東京都品川区上大崎4丁目6−9
主催:十四世六平太記念財団、小田原文化財団
原作:杉本博司
能本:川口晃平
演出:大島輝久
作調:亀井広忠
チケット:S席10,000円、A席8,000円、B席7,000円、C席5,000円
詳細:小田原文化財団
https://www.odawara-af.com/ja/programs/sugamozuka/
インターネット予約
喜多能楽堂チケット予約サイト(24時間対応、要登録・無料)
https://kita-noh.com/



