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2025.11.17

歌舞伎にもなった江戸の刃傷事件「伊勢油屋騒動」。一夜のすれ違いが生んだ惨劇とは?

寛永八(1769)年五月四日の夜。遊郭「油屋」にて九人が立てつづけに刀で斬られ、うち三人が死亡。犯人は自殺。事件からわずか十日後、事件は芝居になった。巷でたちまち評判となった、その名も「伊勢油屋騒動」。
その夜、油屋ではいったいなにが起こっていたのか? 犯人の動機は? 被害者はなぜ殺されたのか? 恋に嫉妬に狂った男が引き起こした残忍な事件を紐解いてみよう。

「伊勢油屋騒動」事件のあらまし

三代歌川豊国画『伊勢諤恋湊 油屋おこん』(東京都立中央図書館所蔵)
出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ
https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/

時は寛政八(1796)年五月四日。事件は、その夜に起こった。
若医者の孫福斎(まごふくいつき)は診察を終えたその足で行きつけの「油屋」へ登楼した。一日の仕事が無事に終わり、翌日は五節句の端午節句で休診。こういう日に飲むお酒が一番うまい。斎のお目当ては、遊女のお紺。二人は相思相愛の仲だった。
しかし現れたのは、まん野。お目当てのお紺は、あいにく阿波から商用でやってきた油屋の上客である商人と酒宴の席を供にしていた。
まん野を相手に大人しく酒を飲んでいた斎だったが、待てど暮らせどお紺は来ない。いら立った斎は、つい酒が進んでしまった。斎は元来、酒癖の悪い男である。
「今夜はもう帰る」
斎が立ち上がったので、まん野は預かっていた刀を返した。そこまではよかったのだ。
その際の、まん野の軽口がいけなかった。斎は突如として大激怒。刀を抜きはなった。
まん野の指が宙に飛ぶ。斎はさらに女主人と茶汲みの者を斬り殺し、阿波の商人を殺傷。お紺は殺されなかった。
斎は身を隠したが、翌朝、自害した。

大盛況の「油屋」

井村かねの記した『伊勢古市こぼれ話』に興味深い記述がある。
この本によると、油屋の刃傷事件があった当時、現場となった古市(三重県伊勢市)には遊郭が七十八戸、遊女は千人ほどいたという。

これが明治期になると、その数は半減する。それでもなお、あたりは相当な賑わいをみせていたというから、となれば江戸時代の賑わいぶりはかなりのものだったと想像できる。しかも古市遊郭は美女ぞろいだったとか。彼女たちに会いたくて遠方からやって来た客もいただろう。大金をばらまいて豪遊する裕福な客を、店側はていねいにもてなしたにちがいない。

商人とまん野

事件のあった日、油屋は飲めや歌えの大尽遊びだった。遊興の客たちが騒がしく酒宴を張っていたわけだが、なかでも上客としてもてなされていたのが、阿波から商用で来ていた三人組だ。
名を伊太郎、孫三郎、岩次郎といった。いずれも三十代、藍屋渡世(あいやとせい)の大きな商人だった。

その日、宴の席には遊女・お紺のほかに芸妓と使用人のまん野がいた。そこへ若い医師の斎が上がってきた、というわけである。しかし出てきたのは、会いたかったお紺ではなく、まん野だった。

これは私の想像だけれど、斎はまん野にふてぶてしい態度を見せたのではないだろうか。あからさまに嫌な顔をする斎に、客商売とはいえ、まん野も腹が立ったのでは。あるいは、女心になにか思うところがあったのかもしれない。
それで腹いせに「今夜はあいにくお紺さんのお気に入りの人が来ているのよ」とか「お紺さん、あんたに会いたくないってさ」とか口走ったのかもしれない。とにかく、斎の気分を損ねる発言をしたのは確かだ。なにせ、まん野は指を失うほど斎を怒らせたのだから。

遊女、お紺

三代歌川豊国画『伊勢音頭恋寝刃 油屋おこん』(東京都立中央図書館所蔵)
出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ
https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/

その女は、若い愛人を一人むなしく待たせた。寂しい思いをさせた。たった一夜だけである。それが恐ろしい事件を起こした。お紺だって、こんな大事件になるとは思いもしなかったはずだ。

時代がちがうというだけで、起こったことは現代とそう変わらない。つまるところバーで指名したお気に入りの女の子が売れっ子で、ほかの席に呼ばれて戻ってこない。自分は彼女を贔屓にしているのに、無視されている気分で腹が立つ。そうして一人苦い酒を飲んでいた男が引き起こした事件、といったところ。

しかしお紺にも弁明の余地はある。
江戸時代に生きた一人の娘の事情に心を寄せるような人はそういないだろうから、代わりに私が説明しておくと、お紺は山深い里で生まれ育った。遊女になったのは、没落した家を救うためだった。
斎との出会いは、病に伏していたときのことである。かつてお紺は重い天然痘を患ったことがある。その際に呼ばれたのが斎だった。もう助からないかもしれない、そう嘆くお紺を斎は医師の誇りかそれとも愛情からか、とにかく懸命に治療した。そのかいあって全治し、以来二人は相思相愛の仲になったというわけだ。

恋に狂った男、斎

三代歌川豊国画『伊勢諤恋湊 油屋おこん』(東京都立中央図書館所蔵)
出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ
https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/

お紺はたしかに斎を待たせた。待たせすぎたのかもしれない。でも、斎は気が短すぎる。男として、愛人としていかがなものか。お酒も飲みすぎるし、気性も荒すぎる。私の経験上、そういう男は女にモテない。危険な香りのする男は女を引きつけるが、本当に危険な男とは一緒になりたくないものだ。

そんな危険な男、斎は油屋でいったい何人斬りつけたのだろう。
一人目は、指を飛ばされたまん野。芸妓が一人殺されている。女主人も殺された。阿波の商人は斬られたが命は助かった。事件の元凶ともいえるお紺は、難を逃れたという。恋に狂い、酒に酔い、刀を振りまわした斎だったが愛する人だけは傷つけずに帰ったらしい。

事件のあと、斎は親類のもとに身をひそめた。しかし翌朝、自害しているのが見つかったという。あれだけ酒を飲んでいても、自分のしでかしたことはしっかり覚えていたというわけだ。さぞかし最悪の目覚めだったろう。

おわりに

お紺は四十九歳まで生きたと伝わっている。斎が死んだあと、お紺はどんな気持ちで生きたのだろう。人を殺すほど私を愛してくれた男、であれば悲恋の物語になるけれど、酔っぱらって人を殺した迷惑な客、だったら斎もうかばれない。

ところで、ごく個人的にはまん野のその後が気になる。指を切り落とされるのだって、大事件だ。今みたいな医療技術のない時代だから、落ちた指はくっつかないし。この事件で一番気の毒なのは、まん野のような気がする。件の指の行方は大騒動の影に隠れて、まったく伝わっていない。

【参考文献】
「民話と伝説」学習研究社、1977年

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馬場紀衣

文筆家。12歳で海外へ単身バレエ留学。University of Otagoで哲学を学び、帰国。筑波大学人文学類卒。在学中からライターをはじめ、アートや本についてのコラムを執筆する。舞踊や演劇などすべての視覚的表現を愛し、古今東西の枯れた「物語」を集める古書蒐集家でもある。古本を漁り、劇場へ行き、その間に原稿を書く。古いものばかり追いかけているせいでいつも世間から取り残されている。
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