今回紹介するのは蘇りの物語。でも、ただの蘇りではありません。行くあてのない魂が見つけた、空っぽの屍の末路である。たとえば生胆を拾い、持ち主と入れ替わった猿。死んだ首吊り死体にすべり込んだ猫又。せっかく蘇ったというのに中身は別人。まさに、おれがあいつであいつがおれで状態である。こうなると蘇ったところで素直に喜べない。どちらかというと不幸な蘇生譚、お届けします。
乙姫になった猿が蛇になって……
作者の恋川春町(こいかわ はるまち)は、武士でありながら絵師、戯作者、狂歌師でもあった。現代でいうところのマルチタレントである。
恋川は夢やおとぎ話をもとに皮肉と風刺たっぷりに物語を展開するのがお得意で『猿蟹遠昔噺(さるかにとおいむかしばなし)』はヒット作のひとつ。本作は浦島太郎の後日譚ともいえるお話になっている。日本人にお馴染みの『猿蟹合戦』と『浦島太郎』を取りあわせた、なんともユニークな物語だ。
ちなみに恋川春町は鳥山石燕(とりやま せきえん)のもとで絵を学んだというだけあって、本作でも自ら挿絵を手がけている。その内容を簡単にご紹介しよう。
『猿蟹遠昔噺』あらすじ
その昔、竜宮から帰郷する浦島太郎のあとを乙姫が追っておりました。

出典:国会図書館デジタルコレクション
(https://dl.ndl.go.jp/pid/9892590/1/5)
ところが乙姫は、海辺で出逢った平家蟹に驚いて生胆(いきぎも)を失ってしまいます。

出典:国会図書館デジタルコレクション
(https://dl.ndl.go.jp/pid/9892590/1/6)
そこへ現れたのが猿。
乙姫の生胆を拾った猿は、乙姫になります。娘気取りで桃太郎を慕う猿。浦島太郎の迷惑そうな表情がなんともいえません。

出典:国会図書館デジタルコレクション
(https://dl.ndl.go.jp/pid/9892590/1/11)
茹蛸寺の鐘の中に逃げこむ浦島太郎。しかし乙姫になった猿は、浦島太郎を追いかけて蛇になり、鐘に巻きつきます。

出典:国会図書館デジタルコレクション
(https://dl.ndl.go.jp/pid/9892590/1/14)
乙姫になった猿が蛇になって……誰が誰でなにがなにやらこんがらがった状況のなか、登場したのが平家蟹。
平家蟹は鋏でちょんと蛇を斬り、体の中から生胆を取り出しました。おかげで生胆は無事に乙姫の体に戻ったとさ。
めでたしめでたし。
魂はあるのに体がない! 閻魔王のとんでも解決法
『伊勢物語』の背景に隠された世界を密かに伝える『伊勢物語知顕抄(いせものがたりちけんしょう)』には、同じタイミングで息を引きとった二人の男の蘇生譚が語られる。
佐伯経基は四十一歳で死んだ。経基と同日同時刻に、偶然にも同い年で死んだ文屋吉員という男がいた。二人は閻魔王宮で一緒に審問を受けることになり、どういうわけか吉員だけが現世へ帰ることを許された。しかし、肝心の吉員の体はすでに火葬された後だった。吉員には、帰りたくても帰れる体がなかったのだ。
そこで閻魔王、ひらめいた。
「経基の体に吉員の魂を返したらいんじゃね?」
こんな軽いノリだったかは分からないが、とにかく死後四日目。こんもりと盛られた土が崩れて、なかから経基が顔をだした。吉員は経基の体を借りて(頂戴して?)蘇ったのだ。
(経基の姿をした)吉員はさっそく妻子を呼び寄せた。もちろん妻子は半信半疑。(経基の姿をした)吉員が子どもの名前と年齢、自分の最期の様子をこと細かに語って聞かせると、どうにか納得したようだった。(経基の姿をした)吉員はその後、自分の妻子だけでなく経基の妻子とも一緒に暮らしたとか。
首吊り死体に入りこんだのは
死者の肉体は土に還り、魂は冥途に帰る。では、戻る肉体のない魂はどこへ行けばいいのか。いや、ちょうどよい屍があれば問題ないのだ。こちとら肉体のない身。宿ることができるなら、どんな相手だろうが贅沢はいえない。
落語『夢見の八兵衛』の八兵衛には悪い癖があった。いつでもどこでも居眠ってしまい、夢を見るのだ。そんなだから、なかなか仕事にありつけずにいた。
八兵衛はある日、知人の家で寝ずの番をすることになった。居眠りしないようにと割木(焚き木)を渡されて、一晩中床を叩きつづけていた。が、八兵衛は部屋の住人が首を吊って死んでいるのを見つけてしまう。八兵衛は死体があることを知らずに番についていたのである。
恐ろしくなった八兵衛は家から逃げようとしたが、錠がかかって外に出られない。すると窓から大きな体の、尾が二つに分かれた猫がやって来て、するりと死体に忍びこんだ。
すると首吊りの死体はボソボソとなにかを喋りはじめ、八兵衛に歌うようにと命じた。八兵衛がおずおずと歌うと、歌に合わせて死体も踊りだした。やがて死体の紐が切れて、遺体は八兵衛めがけて落ちてきた。
猫は、朝になると死体から出て行ったという。
成仏できなかった者たち
死後に魂が肉体から離れるなら、生きながら魂が肉体から離れてもおかしくない。生きている人間の魂が体の外に出て、人のかたちで現れたものを生霊と呼ぶ。名の知れた生霊といえば『源氏物語』の六条御息所だろう。
生者の体から魂が離れることはそう起こらない(ように思える)が、死者の体から魂が出ることは(そこそこ)ありそうな気がする。
今よりずっと昔、死霊説話がたくさん書き残された古代中世には成仏できずにいた霊もさぞ多かっただろう。旅の途中で険しい山道から谷底へ落ちた人、船が難破して海の藻屑となった人、死体が発見されず骨になった人、愛する人と結ばれずに別れた人。
そうして成仏できなかった人たちは、現世へ留まるほかない。宿主を求めて浮遊する魂が、山野に放置されたままの死体でも見つけようものなら「ちょいとお借りします」となることもあろう。あるいは件の猫又のように、邪な魔物に侵入されるようなことも、なかったとは言い切れない。魂と肉体の入れ替わりの昔話は、死や怪しいものとの距離が近かった時代ならではの物語ともいえる。
おれがあいつであいつがおれで

出典:国会図書館デジタルコレクション
(https://dl.ndl.go.jp/pid/2553975/1/1)
死者の肉体に憑依して蘇生するという、今を生きる私たちからしてみれば突拍子もない考えかたは、仏教思想のなかでいくつもの仏教説話を生みだした。
仏教説話では、過去と未来と現世という三つの世界の因果が説かれることがおおい。現世での行いが来世の生まれ変わりの状態の原因になったり、現世の人生の在りかたが前世の因縁に拠るものであったりする。一度死んだ人物が、その後で蘇るという『伊勢物語知顕抄』も蘇生譚と呼ばれる物語のひとつだ。
仏教説話には死霊を語る物語の類が山ほどある。時代が下ると、蘇生譚はより世俗的な物語として作り変えられ、多くの読者を楽しませることになる。
遊離している魂は別の人の肉体に憑依することができる。二つの魂がお互いの肉体に憑依することもできる。妖怪が人の肉体に憑依する可能性もある。だから一度死んで蘇ったとしても、当人だという確証はない。入れ替わりの昔話は、日本人の死生観と深いかかわりのある昔話なのだ。
おわりに
『猿蟹遠昔噺』や『伊勢物語知顕抄』を読んでいて気づいたことがある。どうやら肉体と魂の繋がりというのは、私が思っているよりずっと緩いらしい、ということ。「おれがあいつであいつがおれで」の入れ替わりの物語の根底にあるのは、肉体と魂は分離することができるという思想だ。入れ替わりの物語は、魂の存在を信じていなくては成立しない。
魂は容易に体を離れてよそへ行ってしまう。それほど危うく、儚い存在ということなのだろう。『夢見の八兵衛』の首吊死体なんて妖怪(猫又)にまで侵入を許している。死んでいるとはいえ、ちょっと緩すぎやしないか。
【参考文献】
伊藤慎吾、中村正明『〈生ける屍〉の表象文化史 ―死霊・骸骨・ゾンビ―』青土社、2019年

