三木合戦終結から1か月も経たない頃に成立した軍記物
現在放送中のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』で描かれている秀吉・秀長の中国地方攻め(天正5/1577年〜)は、播磨国・三木城、因幡国・鳥取城(鳥取県鳥取市)を残酷なまでの兵糧攻めで落としたことで知られています。
三木城は「三木の干殺し」、鳥取城は「鳥取の渇(かつ)え殺し」といわれました。敵が籠城すると、周囲に付け城(砦)を築いて味方からの食糧や水の補給を遮断し、飢餓状態に陥らせて降伏を待つという残忍な戦い方でした。秀吉が得意とした戦術でもあります。

このうち、三木の干殺しは天正6(1978)年3月29日から同8(1580)年1月17日まで行なわれ、その模様は『播磨別所記』という軍記物に書き残されています。
秀吉に御伽衆(話し相手となる側近)として仕えた大村由己(おおむら・ゆうこ)が著した『天正記』の一編で、成立は写本の巻末に「天正八年正月晦日」(1580年1月末)と記されていることから、三木合戦が終結した直後だったと推測できます。
軍記物は一般的に脚色を施した「物語」とされています。実際に『天正記』には、天正13(1585)年7月に秀吉が関白となった経緯を記した『関白任官記』という章があり、ここには「秀吉は正親町(おおぎまち)天皇のご落胤である」といった極端な捏造が見られ、信ぴょう性に欠けるとの評価も少なくありません。
ただし、『播磨別所記』は成立が三木城落城とほぼ同じ時期であると考えられること、また著者の大村由己がもともと播磨国三木の出身で、秀吉が勢力を伸ばしてくると羽柴に服従して右筆(ゆうひつ/文書を作成する役職)となった人物であることから、干殺しを生き残った者から生々しい話を直接聞いた、という見方もできるのです。
すべてを架空の“創作”として扱うのも、ぞんざいではないでしょうか。
長治の叔父・別所賀相が反秀吉の急先鋒
『播磨別所記』は織田信長の配下に加わっていた別所長治が、突然謀叛を起こす場面から始まります。
長治には別所賀相(よしちか)という叔父がいました。この男が「織田に従属していては災いが及ぶ」と長治を説得し、共に三木城に立て籠るのです。賀相の弟の重棟(しげむね)が説得しても、耳を貸しませんでした。やむを得ず、重棟はひとりで秀吉の陣営に残ります。別所一族は一枚岩ではなかったのです。

長治が離反した理由は、名門意識が強い別所氏が、このままでは出自の低い秀吉の麾下(きか/配下となる)に入らざるを得なくなることに嫌悪感を示した、また、西国の雄・毛利氏が積極的に働きかけたなどが指摘されています。
一方、長治の動向は東播磨(兵庫県東部)の諸将たちにも波及し、有岡城(兵庫県伊丹市)の荒木村重も信長に逆らって牙を向くなど、織田陣営にとっては誤算が続出するのです。
籠城1年4か月の時点で餓死者数千人
ところが、誤算は別所長治にも起きました。城内には周囲一帯から数千人に及ぶ家臣・領民が集結してしまい、食糧不足に陥るのは時間の問題でした。これを知った秀吉は三木城を囲むようにいくつもの付け城を築き、補給路を遮断します。
『播磨別所記』は、付け城を建てた範囲をこう記します。
南は八幡山、西は平田、北は大塚、
築地(ついじ/壁のこと)の高さは一丈余(約3メートル)
八幡山は現在の兵庫県加古川市八幡町、平田は三木市の県立三木高校の辺り、大塚は神戸電鉄恵比須駅周辺と考えられ、地図で確認すると、確かに三木城址を取り囲んでいます。
この包囲網を『播磨別所記』は、籠城開始から1年4か月が経過した「天正七年十月」には完成していたと記します。
すでに餓死者は数千人

食糧が尽きると最初は牛や馬の肥料である糠秣(ぬかまぐさ/米糠と乾燥した草を混ぜたもの)で凌いでいたようですが、それも尽きると牛馬・鶏など家畜を食し、最後には亡くなった人の人肉を食べたと書かれています。
三木城は極限状態にありました。
天正8年正月、ついに降伏の書状を出す
天正8(1580)年1月6日、秀吉軍は三木城の堀から「三町」の地点にまで兵を進めて陣を置きました。一町約110メートルですから、300メートル超。もはや三木城に抵抗する戦意すら残っていないことを、見越していたのでしょう。
間近にはためく秀吉の旗印を見て心が折れたのか、長治は使者を立て、降伏の書状を送ります。少し長くなりますが、書状を現代文に訳して掲載します。
一昨年から敵対状態になっていることにつき、つらつらとその理由をお伝えしようとしていたが、
内部の者たちが予期せず覚悟を変えたためどうしようもなく(自分ひとりの判断では降伏を決意できなかったという意味か)、
私たち三名がきたる十七日の申の刻(午後4時頃)に切腹すると決めました。
現在籠城する兵たちすべてを討ち果たすのは不憫ですので、憐れみの心をもって助けていただきたい。別所彦進友之(ともゆき/長治の弟)
別所山城守賀相
別所小三郎長治浅野弥兵衛尉(あさのやひょうえのじょう/浅野長政)殿
別所孫右衛門(べっしょまごえもん/重棟)殿

叔父の賀相は土壇場で自刃を拒否
書状の宛名となっている浅野長政は付け城建設の最前線にいた秀吉の配下、別所重棟はすでに秀吉に降(くだ)っていた長治の叔父です。
書状を受け取った秀吉は兵たちの命は取らないと約束し、樽に入った酒を届けさせました。自刃する前の「末期の酒」でしょう。長治たちは、その酒でささやかな宴を開いたと、『播磨別所記』は記します。
1月17日朝、別所賀相だけが自害を拒否し、城に火を放って全員討ち死にすべきといい出し、蔵に引きこもってしまいます。兵たちは連れ出して首を取りました。
長治はこれを見届けると「一族の最期はこのとき」と、3歳の我が子を膝に置き、胸元を刺しました。妻たちも引き寄せ同じように手をかけ、弟の友之の妻も自害しました。
長治と友之兄弟は畳一畳の右と左に座り、最後の会話を交わしました。
このたびの籠城を最後までやり抜いた志は海よりも深く、山よりも高かった。
そして腹を切りました。最後に土壇場で裏切った賀相の妻が息子と娘と共に命を絶ち、ここに一族が全員絶命したのです。
辞世は何を伝えるか?
秀吉が城内に入ると、小姓のひとりが短冊を差し出しました、そこには一族の辞世が書かれていました。

今はただ 恨みもあらず諸人の いのちにかわるわが身と思えば 長治
[訳]自分の命と引き換えに領民や家臣たちが助かると思えば、もはや何の恨みもないもろともに 消えはつるこそ嬉しけれ をくれ先だつるならひなる世を 長治女房
[訳]夫婦はどちらか先に逝き、あとに残された者が悲しむのが世の習わしなのに、夫と一緒にこの世から消え去ることができるのは心から嬉しいことですいのちをも 惜しまざりけり梓弓(あずさゆみ) 末の世までの名を思ふとて 友之
[訳]来世まで武門(梓弓は武具を指すので「武門」と訳した)としての名を残せるなら、命など惜しいとは思わない
『播磨別所記』にはリアルと脚色が混在している
以上が『播磨別所記』に記された三木城落城の一部始終です。真に迫った飢餓状態が伝わってくる半面、辞世の短冊を小姓が秀吉に渡す場面などは、あえて感動を呼ぶような描写でにわかには真実と受け取れず、どこまで信じるかは読む人によって異なるでしょう。
しかし、城内が極めて悲惨な状況にあったのは確かだったと考えられ、しかも同時代の史料であることから「リアル」な逸話も書かれているだろうと思えるのです。
いずれにせよ、一貫して伝わってくるのは残虐性です。実際、長治らが自害しても一定数の城兵は虐殺されたとの研究結果もあり、秀吉はこの事実を隠蔽するため『播磨別所記』の作成を指示したという説も出ています。
播磨征伐が並外れて悲惨な戦いだったのは、まちがいないでしょう。
参考資料:
『現代語で読む豊臣秀吉軍記「天正記」』草刈貴裕著・訳/戎光祥出版
『天野忠幸「三好一族と織田信長「天下」をめぐる覇権戦争』天野忠幸/戎光祥出版
アイキャッチ画像:『絵本太閤記』「秀吉 三木の城を囲む」の場面。国文学研究資料館/国書データベース

