他人の家の出産現場に遭遇することなんてそうないし、ましてや子どもが生まれてからのめくるめく日常を聞き知る機会はあまりない。どんな家庭にもドラマがあるものだが、たいていの場合は屋根に隠され、扉に閉ざされているものである。いったい女性たちはどんなふうに出産し、どんな思いを胸に秘めていたのか。今回紹介するのは、幕臣小野家のお話。実話である。
『官府御沙汰略記』とは
大奥の出入りの監視などを担当した幕臣・小野直方(おのなおかた)には、延享二(一七四五)年から安永二(一七七三)年のあいだ、日々の生活を記録した書がある。その名も『官府御沙汰略記(かんぷごさたりゃっき)』。
立派な名前がついているが、ようは日記帳のようなもの。とはいえこの日記、全二十八冊にもなる大作で、まずその量に驚き、三十年ちかく書きつづけたマメさに驚き、ページを埋めつくす文字の小ささに驚く。
気になる内容はというと、幕府の令達や人事異動、江戸で起きた事件などさまざま。直方自身のことはもちろん、周りの人たちの出来事についても書かれている。たとえば出入りの大工のこと。買い物の品目。家族や親戚のこと。なにより私の目をひいたのは、家族の出産と死についての記録である。
小野家の出産
小野家の住まいは、小石川三百坂(現在の東京都文京区小石川三丁目あたり)にあった。日記によれば、小石川の屋敷では四回ほど出産があり、うち三回は直方の跡を継いで当主となった小野庄兵衛直泰の妻「れん」の出産だった。日記をめくりながら、れんの出産までの日々を追いかけてみよう。
れん、はじめての出産
宝暦四年二月二八日。
れんは、二十二歳で三十八歳の庄兵衛のもとへ嫁いだ。庄兵衛にとっては四度目の結婚である。
小野家に嫁いだ翌々年。
宝暦六年九月七日、れんの「帯祝」が行われた。
帯祝いは、安定期に入る妊娠五か月くらいに岩田帯と呼ばれる腹帯(はらおび)を巻く儀式のこと。現代でも安産を願って行われるので、聞いたことのある読者もいるかも。私は何かにつけて繊細な性格なので、こうした慣習が脈々と受け継がれていることに、ページをめくりながらじんとしてしまう。
ちなみに腹帯には、少しずつ大きく重くなってくるお腹の赤ちゃんの位置を安定させる役割もある。
この日の午後二時頃、岩田帯を巻くため、れんの出産の世話を頼まれた産婆が来たと日記にある。
産婆とは、赤ちゃんを取り上げ、出産前後の母親を世話してくれる女性である。お産のプロとあれば、きっと手際よく帯を巻いてくれたにちがいない。
宝暦六年十二月二十三日。
義理の妹(夫の妹、のよ)から「胞衣(えな)下り薬」が届く。
想像するに、これは分娩後の胎盤の排出を促してくれる薬だろう。れんの体調を気遣って義理の妹が送ってくれたのだ。いつの時代も妊娠出産は一大事。子どもの誕生を心配しながら待つ、親戚の姿が日記から伝わってくる。
宝暦七年二月三日。
れんが産気づいた。医者と産婆が駆けつけたが出産にはいたらず、医者はひと晩泊って帰っていった。産婆は明後日の朝まで小野家で待機。急な出産に備えているのだ。
宝暦七年二月十九日、暮れ時。
ふたたび産婆が呼ばれたが、出産には至らなかった。産婆は昼過ぎには小野家へ来ていたが、産まれそうにないと分かると酒を飲んで家に帰ったらしい。
宝暦七年二月二十一日、午後四時頃。
れんの様子を診に、医者が訪ねてきた。れんは夕方に産気づいた。急いで産婆を呼びに遣わせたが、あいにく留守だった。午後八時前になって、産婆がようやく到着。あとは出産のときを待つばかりである。
宝暦七年二月二十二日、午前四時頃。
れんに、元気な男の子が生まれた。甚蔵と命名。
「母子共に達者、産後、いささか血心も無之」と日記にあるから、れんの様子も安定しているらしい。母乳もよく出ているという。
天気も祝ってくれたのか、日記の出だしには「終日晴天」とある。直方もほっとしたことだろう。
れん、ふたたびの出産
日記帳によれば、れんの二度目の出産は宝暦十年八月二十三日。
前日の夜に産気づき、午前八時に男の子を出産。子どもは、千蔵と命名された。このときも安産だったらしく、乳もよく出た。二十七日からは千蔵に授乳もはじめている。
日記には、分娩がはじまりそうなタイミングで産婆を呼びに出たが不在だった、とある。
れんが産気づくたびに駆けつけては帰っていく産婆の姿を読んでいると、その働きぶりに時代を超えて感謝せずにはいられない。出産が頻繁な時代だったのか、それとも人手が足りていなかったのか、産婆はかなり忙しかったらしい。
ちなみに出産の際、産婆が「腰抱女」を連れていたとの記述がある。
腰抱女とは、分娩のときに産婦の腰を抱く役のこと。ようは産婆の助手である。出産は、経験豊富な産婆と腰抱女の二人体制だったらしい。
れんの三度目の出産は、明和六年三月八日。
れんは三十七歳になっていた。出産したのは午前四時頃。生まれたのは男の子。
しかし、これまでの出産とは少し様子がちがう。
日記帳には「臨産よホド滞リ出生ス、先ツハ難産ノ方也」とある。今回はかなりの難産だったらしい。
それでも産後の経過は順調だった。
しかし栄蔵と名付けられた子どもは六月二日の夜中に亡くなってしまう。たった三か月の短すぎる命だった。
きのの乳
直方は日記のなかにれんの出産時の様子やその後の健康状態、さらには母乳の具合まで書き留めている。出産の様子はまだしも、母乳についてはちょっとプライベートすぎない? と思うかもしれないが、これにはきちんとした理由がある。
直方がれんの母乳の具合を気にかけていたのは、なにも彼がまめな性格だからとか、隠居生活で暇をもてあましていたから(もちろん、その可能性もあるが)ではない。
直方にとって、というよりも当時の男性たちにとって、産婦の乳の具合というのはとても重要なことだった。
れんが出産した際、れんの母乳がきちんと出るようになったのは出産してから数日後のことだった。では、そのあいだ赤ちゃんのお腹を満たしてくれたものはなにかというと、他人の乳である。
江戸時代の新生児への授乳をめぐる慣習と考えかたは、現代とはかなりちがう。
たとえば小野家に奉公に来ていた「へん」が出産したとき、へんの子どもに乳を与えていたのは直方の娘の「きの」だった。きのは、出産の翌日の夕方に屋敷へ来ると、へんの子どもに乳を与えた。翌日からは、へんが自分の乳を飲ませたとある。
そういうわけだから、れんが出産したときにも、知人が乳を与えに来てくれた。
乳をもらうこともあれば、こちらが乳を与えに行くこともある。れんもまた、頼まれて乳を与えに出かけたことがあるという。そのときの赤ちゃんは虚弱で、乳を飲む気力も乏しいほどだったというから、与える方も責任重大だ。
乳のご近所つきあい

出典:Art Institute of Chicago(https://www.artic.edu/artworks/21752/women-viewing-dragon-and-tiger-made-of-tobacco-pouches)
いまでこそ子どもには自分の母乳を与えるのが一般的だが、十八世紀江戸の幕臣社会では「乳付(ちつけ)」の慣習が浸透していた。「乳付」は日本の古い慣習で、新生児を出産経験の豊富な乳の出る女性に抱かせて、その乳をのませること。
乳付の役を務める女性は一族の人や、隣人のこともあった。もちろん、はじめから授乳がスムーズにいくなら乳付は行わなくてもよかった。
江戸時代の医師、香月牛山(かつきぎゅうざん)は、著作『小児必用養育草(しょうにひつようそだてぐさ)』で乳付の大切さを説いている。そのうえで、あくまでも生みの母親の乳をのませるのが最善とも述べている。
香月牛山は母乳を推奨していたが、これは母の乳を子どもに呑ませるのが「自然の道理」と考えてのことだった。
それに、自分の子であれ他人の子であれ、母乳を与えているあいだは次の妊娠まで適当な間隔があくことになるので、女性の体を充分に休ませることができた。乳付は、多産の時代ならではの療養方法だったのである。
また、乳付には母親を休ませる以外にも目的がある。
産まれたばかりの赤ちゃんは上手く乳を飲めないことがあるので、経験豊かな「母親」である乳付が飲みかたを教える役割を担っていた。乳付は、母親にも赤ちゃんにも優しい社会システムなのである。
乳の関係は血より濃い?

出典:Art Institute of Chicago(https://www.artic.edu/artworks/89374/the-poet-sojo-henjo-from-the-series-modern-children-as-the-six-immortal-poets-tosei-kodomo-rokkasen)
古い文学作品や幽霊話には、母親の幽霊が赤ちゃんを抱いて姿を現し通行人を怖がらせる、といった話が描かれる。
体調不良や貧困による栄養不足で我が子にたっぷりとお乳を与えられず悔やむ女性、お腹をすかせて泣き叫ぶ赤ちゃん。乳を与える、ということは母親だけでなく家族全員の苦痛でもあった。
現代のように、栄養価の高い粉ミルクのある時代ではない。そんなときに親戚や、あるいは隣人の手(そして乳)を借りることができる、というのはどれほど母親を勇気づけただろう。乳が出ようが出まいが母親に寄り添ってくれる人たちが周りにいるというのはなんとも心強い。
産後のための薬を贈ったり、乳を与えたり貰ったり。直方の日記を読んでいると、子どもが生まれることをきっかけに親戚関係やご近所づきあいが増えていくのが分かる。そこには助け助けられ、社会に張り巡らされた細い糸が編まれていくように人と人が結ばれていく社会がある。
おわりに
小野家のれんが長男を出産したとき、れんの乳房からはふんだんに乳がでた。
日記には、れんの乳を求めて体調不良で乳が出ない親類の女性が息子とともに訪ねてきたとある。子どもはれんの乳をたらふく飲むと満足して帰っていったらしい。また別の日には、ご近所の家から息子に乳を飲ませてほしいと頼まれている。
乳の出るものが出ないものを助ける。江戸の乳の付き合いは、血よりもずっと濃いのである。
【参考文献】
「官府御沙汰略記」小野直方文献出版、1994年

