自身が気まぐれな猫のような性格だと。
十分すぎるくらい理解しているので。
猫を飼おうものなら、互いがすれ違うのが目に見えている。
やはりひたむきに。そして忠実に。
いつ何時、帰宅しても、寝ぼけまなこで出迎えてくれる男……もとい、犬がいい。
犬、そう犬だよ。やっぱり犬だよな(念押しです)。
そんな風に思っていたのに。
姉の家で飼われている茶色の犬は。
どうにもこうにも「あざと可愛い」権化のような存在で。
忠実とはほど遠い、気まぐれな猫タイプ。
骨抜きになっている父親と姉の家族を見て。
ホントに、人間でなくて良かったよな。あんたはと。
深く深くため息をつくのである。
あれ?
この記事って「猫」の記事じゃなかったっけ……。
そうやって再びタイトルまでスクロールした方。
いやあ、お手間かけてすんませんね。大丈夫。猫の記事で合ってますよー。
導入部分をお読みいただいて恐縮だが。
正直、あんまり意味はない(じゃ、書くなよ)。
ただ猫の記事を書く前提として、私は「犬派」だと宣言したいだけのコト。
うん?
「犬派」の私に物申したいって?
ああ、戦国武将の……ふむふむ。……のふたりが?
確かに確かに。彼らって無類の猫好きだもんねえ。
ということで。
今回は、戦国武将の中でも猫好きの方に集まっていただくという企画、「戦国武将爆笑エピソード集(猫愛編)」である。
さあ、思う存分、朝まで語っていただきましょうと言いたいところだが。なんせ、死人はしゃべれないからねえ。どうしたものかと考えていると、幸運にも彼らの手紙が残っているというではないか。
そんなわけで。
今回は、究極の「猫愛」が綴られた彼らの手紙の一部を大公開。
ツッコミどころ満載なのは言うまでもなく。意外な武将の大いなる猫愛に驚くことなかれ。
それでは、早速、ご紹介しよう。
※本記事は「細川忠興」「伊達政宗」「豊臣秀吉」の表記で統一しています
猫を欲しがり過ぎる細川忠興
まずは、とある手紙を御覧いただこう。
唐猫御用について、御書をいただき、拝見した。今日中に探し出して進上するように。このことをしかるべく処理して知らせてほしい。
(追伸)おそらく猫はいると思うので、毛の美しいのを今日中に選んでほしい。
(『猫の日本史 猫と日本人がつむいだ千年のものがたり』より一部抜粋)
この手紙が出されたのは、元和9(1623)年11月24日。家来に宛てたものだ。
「今日中に探し出して……」なんて、何やら緊急なご様子。緊迫している状況なのかと思いきや、よくよく見ると、探し出すのは「唐猫」。中国から渡来した珍しい猫だ。それも毛の美しい唐猫を探せという命令なのである。
この手紙の差出人は「細川忠利(ただとし)」。
熊本藩藩主細川家初代である。
ちなみに、彼の祖父は細川幽斎(ゆうさい)、父は細川忠興(ただおき、三斎とも)。母は細川ガラシャ。忠利は忠興の三男だが、家督を継いだ。長男、次男の存在もあり、家督を継ぐまではゴタゴタしたものの、結果的に徳川家の勧めで忠利に決着したという経緯がある。
さて、手紙が出された当時、細川忠利は小倉藩藩主細川家2代。
小倉城(福岡県北九州市)を居城としていた。
そんな忠利が、ひとりめの登場人物かと思いきや。手紙をよくよく読むと。
「唐猫御用について、御書をいただき」
「進上するように」
つまり、忠利は誰かから手紙をもらって動いたようだ。家来に「今日中に」と2度も念押ししている。相手はよほどの重要な立場の人物なのか。
それでは、細川忠利がもらった手紙を見てみよう。
日付は元和9(1623)年11月23日。先ほどの手紙の1日前である。それがコチラ。
そちらの町(豊前小倉城下)から唐猫を所望したい。探してもらって頂戴できれば有難い。
(同上より一部抜粋)
差出人は、細川忠興。
忠利からみれば父親であり、なんと、コチラが今回の記事のひとりめの登場人物なのである。

なんだよ。隠居したオヤジかよ。
もう、ここでツッコみまくりのダイソンなのだが。
ちょっとだけ、細川忠興について整理をしておこう。
じつは、忠興の義父(妻のガラシャの父)は、本能寺の変を起こした「明智光秀」だ。
織田信長亡きあと、マズい立場に立たされた細川家。だが、光秀の誘いを断り、豊臣秀吉について戦国の世を生き抜いたのである。結果的に、忠興は秀吉の下で小田原征伐、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも参戦。秀吉亡き後は「関ヶ原の戦い」で徳川家康率いる東軍に属し活躍。家康より武功を認められ、忠興は豊前、豊後と39万石余に加増され、中津城(大分県中津市)、次に小倉城へと移っている。
そんな細川家が大きく揺らいだのが、元和6(1620年)のこと。
忠興が病気のため、家督は三男の忠利に。忠興はというと中津城に隠居し、出家して「三斎宗立」と号している。
つまり、この頃の細川家は、隠居した忠興が「中津城」、忠利は「小倉城」。両者は距離にして50㎞ほどの場所にいたことになる。
そして、元和9(1623)年11月23日。
先ほどご紹介した手紙の日付である。細川忠興から息子の忠利へ、唐猫ほしいねん、という内容の手紙が出されて。翌日、息子は家来へ、今日中に探してほしいねん、と命令を出す。
なんやねん、この親子。
いっそがしい時に、猫探せって。それも珍しい唐猫。そんな近場をふらふら歩いてるワケでもないだろうに。振り回される家来と町の人たちがあまりにも理不尽である。

ただ、その後、どうなったかは分からない。
じつは、猫探しの情報はここまで。続きの手紙がないのだ。普通に考えると、忠興からの催促状もないワケだから、恐らく忠利は唐猫を探し出し、父親の下へと無事に届けさせたのだろう。
だが、じつはこの話、終わってなどいなかった。
なんと、続きがあるのだ。
ちょうど3年後。寛永3(1626)年11月10日付の手紙がある。
差出人は、またしても忠興。宛先も同じく忠利である。父から息子への手紙か。
ううう。なんだか、ヤな予感が……。
毛の美しい唐猫のこと、頼母(家老の有吉立道)に申し合めておいた。そちらで入手したのを(譲ってくれるよう)頼みたい。
(同上より一部抜粋)
え。
デジャブじゃなくて。またしても、唐猫の催促?
さすがに、オヤジ、やりすぎじゃね?
だが、息子の忠利はあまりにも忠実で、そして律儀。
父の手紙を受けて、またもや家来に命令を出している。それがコチラ。
唐猫のことを(忠興が)仰せ越された。昨日(十一日)の一日間で(唐猫を)品定めしたところ、毛のよいのが七匹献上された。このうちから何匹か(忠興の所に)贈ってほしい。
(同上より一部抜粋)
もう、なんだろな。
忠興よ、猫好きにもほどがある……。
いや、ホントに猫好きなのか。なんか違う目的が……あったりして。あの人、刀好きだしさ……。こら、ダイソンン。ダークな話を持ち出すんじゃない。今回は、あくまで「猫愛」についてのきじなのじゃぞ。と自らツッコみ、そっち系の話は封印するとして。
実際に、小倉藩内では「唐猫探し」の命令が下っているという。
美しい唐猫を所持していれば、差し出させよ。
そんな内容が、藩の公用日記に記録されているのだとか。
人さまの大事な唐猫を献上させるなんて。
あまりにもひどいじゃないか。
それでも、手に入れる、いや、手にいれなければならないという息子の執念。その生真面目さでは、気苦労も多かっただろうにと、逆に忠利の不憫さが際立つ結果となったのである。
最終的に。
続きの手紙を見る限りでは、今回の唐猫については確実に忠興は受け取ったようだ。
それも唐猫7匹。
それも翌日。
注文の翌日に到着。アマゾンかよ。
ちなみに、忠興の手紙によると。
7匹のうち2匹は自分の手元に残して、他の猫は友人への贈り物としたようだ。
あまりにも猫を欲しがる忠興に。
こちらは、つくづく呆れ気味となったのである。
猫を褒め過ぎる伊達政宗
次にご登場される方は……とご紹介する前に。
今回も、先に手紙から御覧いただこう。
先々おとこふり、扨々見事にて候
(『仙台市史 資料編 12 (伊達政宗文書 3) /別冊』より一部抜粋)
これは、島根県立古代出雲歴史博物館に所蔵されている文書の一部である。
具体的には「伊達家文書」のひとつ、それも、あの伊達政宗が書いた手紙なのだとか。

伊達政宗といえば。
戦国エピの常連中の常連。やっぱりねえ。どんだけ掘っても湧き出る泉のように、濃いエピソードをざくざくお持ちなワケで。息抜きしたい時に、どうやら無意識に彼を選んでしまうようだ。
そんな政宗の紹介も今更かもしれない。
彼を表す言葉には「奥州の覇者」「仙台藩祖」「独眼竜」など様々なものがある。
なかでも私がよく説明として使うのが「遅れてきた戦国武将」というワードだ。豊臣秀吉や徳川家康よりも遅い時代に生まれたことで、残念ながら天下取りには絡めず。彼が頭角を現す頃は、既に平和な世が訪れていたという結末に。それでもふたりの天下人に潰されず、領地は変われど、なんとか伊達家は生き残っていく。それはそれで、良しとしようではないか。
さて、政宗の手紙に話を戻そう。
先ほどご紹介したあの一文。それだけで様々な疑問が浮かび上がってくるから面白い。
いつ頃の手紙なのか。
一体、誰に宛てたものなのか。
何について書かれているのか。
それぞれ、結論からお答えすると。
まず、手紙の日付については記述がないため、具体的な日を特定するのは難しい。
特に、政宗の場合、非常に手紙のやりとりが多かった。
筆まめ武将としても有名で、全国に約2,000点もの書状が残るというから、もはやSNS並みのコミュニケーションだったといえるだろう。

ただ一般的に、武将らは「花押(かおう)」と呼ばれる署名を文書に使用する。実際に、文書の内容や相手との関係で、政宗は花押を「公的」「私的」に使い分けていたという。そのため、花押の種類で、ある程度の時代が分かるとのこと。
『仙台市史』によると、ご紹介した手紙は、元和8、9(1622、1623)年あたりと推測される。江戸時代で最後の戦となった「大坂の陣」も終わり、徳川家康も既にこの世におらず。いよいよ安定した時代に突入した頃の手紙のようだ。
次に、宛先については判明済み。
「野々村四郎右衛門」という伊達家との取次をつとめた幕臣に宛てたものだ。簡単にいうなら、江戸幕府の伊達家専用の窓口、伝達役という人物となる。
そして、最後の質問。
何について書かれた手紙か。
いやいや、「猫愛」綴る手紙がテーマなんだから、猫だろうよ。なんて、そう思ってやしないかい?
ヒントとして、先ほどの一文を訳すと、こうなる。
「前々から男ぶり(顔つき)は見事なもの」
なんだよ。顔つきが見事って。
「猫」に対して、そんな褒め方するのか?大体、猫って「かわいい」とかそういう褒め方になるだろう。ヒントのせいで、余計に分からなくなっちゃったではないか。
ということで、答えをそろそろ。
ええ、ええ。予想通り、答えはズバリ「猫」。
政宗は「猫」について、あんなにも熱量重めで、手紙を書いていたのである。

それにしても、益々気になるじゃないか。
一体、どんな猫なのか。
それでは、ここで、一気に手紙をご紹介しよう。
猫子無御失念預候、先々おとこふり扨々見事にて候、武がた夜前も其身大力之鼠ヲ組討仕之由、弥以秘蔵可仕候、のとわの御物すき一段はなやかにて候、恐惶謹言
(同上より一部抜粋)
手紙から全体像が見えてきた。
どうやら政宗は、取次の野々村四郎右衛門から子猫をもらったようだ。その礼状なのだろう。
超訳すると、こんな感じだろうか。
「猫の子を忘れずお預かりいたしました。男ぶり(顔つき)はなんと見事なもの。家来から昨晩、自分の体よりも大きな鼠を組み討ちにしたと聞きました。益々気に入り、秘蔵したいものです。首輪もオシャレで一層華やかに見えます」
それにしても、「親バカ」ならぬ「猫バカ」の政宗。
とっても気になるのが「猫よりも大きい鼠」というところ。子猫だから、そういう状況もありえるのかとも考えたが。家来が政宗を喜ばすためにチョイと話を盛った可能性もある。
加えて「組み討ち」だなんて。ヤツは武士なんかーいと、マジでツッコみたくなる。褒め過ぎもいいところ。
さらにさらに。
さすが伊達者。猫の首輪までオシャレとは。
政宗自ら首輪を選んでる姿が容易に想像できる、そんな子猫の尾を間違えて踏んでしまったりしたら、それはそれでがくぶる。怖すぎるではないか。
顔よし、動きよし、装いよし。
三拍子揃った子猫。そりゃ、秘蔵したいと思うのも当然だろう。
デレデレ?
いや、メロメロ?
デレやらメロやら。ええい。この際、どっちでも。
あまりにもぞっこん過ぎる政宗に。
こちらは、ホトホト呆れ気味となったのである。
最後に
今回は、サラッと短めに締めようではないか。
最初にご紹介した細川家の手紙だが、日付は元和9(1623)年。
そして、次にご紹介した伊達家の手紙。コチラの日付は不明だが、推測では元和8、9(1622、1623)年辺りとのことであった。
つまり、なんなのだ。
伊達政宗も細川忠興も。
場所は異なるが、同じような年代に猫についての手紙を出しているというコトか。
一方は猫が欲しいとの催促状。
もう一方は猫をありがとうとのお礼状。
ふむ。
なんだか怪しいぞ。
当時は猫が流行っていたのか。それとも……ただの偶然か。
じつは、ふたりには共通点が多い。
「関ヶ原の戦い」では、共に徳川家康率いる「東軍」で戦っており、徳川一強時代に外様大名としての揺るぎない立場を築いた。両者の存命期間を確認すると、伊達政宗(1567―1636)と細川忠興(1563~1645)は、まさに同年代の武将。それも忠興の方が10年ほど長生きしたようだ。
おっと、もうひとつ。
大事なコトを忘れていた。「茶の湯」である。
細川忠興は千利休に学んだ門下七哲のひとり。一方、伊達政宗は千利休の教えを乞うことを希望していたが、不運にも一度しか会えず。代わりに、千利休の弟子である「古田織部(ふるたおりべ)」と親交が深い。
ふむふむ。
これは、いよいよ……。
とある可能性が……。
ならばと、政宗の他の手紙を確認すると。
やはり、推測通り、ふたりには個人的な交流があったようだ。
元和年間(1615~1624年)に、伊達政宗が細川忠興に宛てた自筆の書状が残っているのである。内容は「茶会の招待」だ。
つまり、茶の湯を通じてふたりには交流があった。
とすれば、こんな可能性もないとは言い切れないだろう。
政宗:「うちの猫の首輪は……これまたオシャレで……」
忠興:「うちは猫が多くて、なかなかそこまでは……」
戦国時代に武勇伝を多く持つ伊達政宗と細川忠興。
そんなふたりが茶会で、大いに猫の話で盛り上がる。
これぞ、デレ&メロの共演。
見てみたい……いや、あんまり見たくないような気も。
結局のところ。
こちらは、ますます困惑するのであった。
参考文献
『仙台市史 資料編 12 (伊達政宗文書 3) /別冊』 仙台市史編さん委員会 編 仙台市 2005年3月
『伊達政宗の素顔 筆まめ戦国大名の生涯』 佐藤憲一著 株式会社吉川弘文館 2020年9月
『城と隠物の戦国誌』 藤木久志著 株式会社筑摩書房 2021年1月
『猫の日本史 猫と日本人がつむいだ千年のものがたり』 桐野作人著、吉門裕著 戎光祥出版 2023年12月
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