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読み物
Culture
2019.10.30

猛女・妙林尼。愛ある戦いに戦国最強の島津もびびった!

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歴史上、猛女や烈女と呼ばれる女性がいる。
男も顔負けの戦績を残す、逆境に機転を利かして立ち向かうなど、様々な武勇伝が後世に伝え残されている。

確かに、そうせざるを得ない状況に追い込まれたのかもしれない。あるいは、武家の娘として当然に教育を受けた環境ならば、なんの迷いもないのかもしれない。しかし、彼女らが選んだ道はあまりにも険しく、単なる必然では片づけられないような気がしてならないのだ。それは、人に応じて異なるが、執念にも似た信念だったり、亡き夫への愛だったり、守るべき民など、揺るぐことない自分だけの「モノサシ」を心に持っていたからではないか。

吉岡妙林尼(よしおかみょうりんに)。
本名も生没年も不明であるが、彼女のなした功績だけは詳細に語り継がれている。
「かの有名な島津軍を撃退し、知略で亡き夫の居城である鶴崎城を奪回した女」

戦国史上きっての猛女と呼ばれた妙林尼は何を思って戦ったのか。
そこに迫りたい。

どうして島津と一戦を交えなければならなかったのか

現在の大分市立鶴崎小学校・大分県立鶴崎高校の場所には、かつて鶴崎城(つるさきじょう)があったという。

この鶴崎城の城主は吉岡鑑興(よしおかあきおき)。妙林尼の夫である。この吉岡家は、当時、豊後一帯を統治していた大友氏の側近の一族で、もともとは父である吉岡長増(よしおかながます)が鶴崎城を築城したといわれている。

鶴崎城跡(写真提供:大分市)※学校敷地内にあり、勝手に立ち入ることは不可

さて、大友家当主の大友宗麟(おおともそうりん)は、天正6年(1578年)に日向(宮崎県)へ侵攻するも、薩摩(鹿児島県)を治めていた島津勢に大敗する(耳川の戦い)。この戦いで吉岡鑑興は戦死。夫を失ったため、その後「尼」として妙林尼は生きることになる。居城であった鶴崎城は、息子の甚吉(後の統増)が当主となって跡を継いだ。

当時の勢力図は、大友宗麟が高城・耳川の戦いの敗北をきっかけにして衰退しつつある状況。一方、島津は勢力を伸ばし、九州一帯が大きく変わろうとしていた。そのため、天正14年(1586年)には、大友宗麟が大坂へ参上し、豊臣秀吉に直接、島津氏の討伐を願い出ている。

こうして秀吉の九州討伐が始まるが、同年12月、第一戦目の戸次川の戦いは、島津が大勝。この勢いにのって、島津軍は大友宗麟が籠城する丹生島城(臼杵城)へ迫り、甚吉は母の妙林尼を鶴崎城に残して、軍勢を率いて丹生島城へと向かう。つまり、鶴崎城には妙林尼のほかわずかな兵以外は、老兵や農民、女子どもしかおらず、ほぼ戦力としては無いに等しい状況であったという。

島津軍の16回もの攻撃を凌ぐ知略とは?

幸いながら、鶴崎城の立地は平城ながらも、別府湾、乙津川、大野川に囲まれたデルタ地帯にあった。干潮でしか渡れないため天然の堀に守られており、唯一の陸地は「琵琶の首」と呼ばれるほどの細い土地だった。

この鶴崎城を守るため、妙林尼は完全武装。鎧(よろい)の上に陣羽織(じんばおり)をまとって、額に鉢巻(はちまき)、手には薙刀(なぎなた)という姿。また、農民に板や畳を持ち寄らせ、城の周りには堀を建てるよう指示し、砦を完成させた。さらに、自ら農民や女性に鉄砲の使い方を教えこんだという。

鶴崎公民館前にある吉岡妙林尼の像(写真提供:大分市)

一方、島津軍はというと、伊集院美作守久宣、野村備中守文綱、白浜周防守重政の三将が3000もの兵を率いて鶴崎城へ。息子の甚吉の留守を知って、一気に攻め落とそうとしていた。

しかし、この鶴崎城、予想に反して落ちそうで落ちない。じつは、妙林尼の策略が功を奏したのだ。妙林尼は砦を作る際に、できる限りの防御施設を施していた。土塁(土を積み上げたもの)はもちろん、堀底の落とし穴、薬研堀(底がV字状になった堀)など、様々な仕掛けを準備していたという。油断した島津軍は落とし穴に落ちては鉄砲に狙い撃ちされるなど、結果的に16回にも及ぶ攻撃を行うが、鶴崎城を落とすことはできなかったという。

忠義なのか執念なのか…愛なのか

勝ち目のない戦いであっても、兵士の士気は不思議と落ちなかった。というのも、妙林尼が自ら飯や酒を配って回ったからだ。このように優しさも見せつつ、時には厳しさも見せる。じつは、降参を進める家臣に対しては「汝らは臆病者なり」と刀を抜いたという逸話も残っているとか。

しかし、判断力が鈍っているわけではない。その後、戦いは膠着状態となり、城中の食料も尽きる頃、島津が家臣を通じて促した降参を、妙林尼は全員の命の保証を条件にあっけなく受け入れる。そして、鶴崎城を明け渡し、近くの屋敷に落ち着くことになる。それだけではない。これまでの戦いで互いの健闘を称えるかのように、島津の諸将を酒などでもてなしたという。

明けて、天正15年(1587年)3月、豊臣秀吉の再度の九州討伐の知らせが届いたため、島津全軍に薩摩への退却の命が下る。もちろん鶴崎城に駐留していた島津軍も引き揚げることに。その際に、妙林尼は、意外にも「大友家に背いた」ことを理由に、家中の者と共に連れて行ってほしいと頼んだという。これを快諾した島津の三将。

さて、鶴崎城での最後の夜。妙林尼は美酒などを用意させ酒宴を開く。そして同年翌3月8日、酒に酔った状態で夜明けから島津軍は退却を始めるのだ。ここで妙林尼は出立の支度があるため後で合流するとして、島津の三将を丁寧に見送ったようだ。

ようやく鶴崎城をあとにした島津軍。二日酔いの状態で退却の途中、乙津川を渡ろうとしたその時、突然の敵勢の襲来を受ける。松林に隠れていたのは、妙林尼の命を受けた伏兵だった。そして、慌てふためく島津軍を、あの妙林尼が、耳川の戦いで戦死した武将の妻の一団と共に追撃したという(諸説あり)。

この乙津川の戦い(寺司浜の戦い)で、三将のうち、伊集院美作守、白浜周防守と300名以上の島津兵が戦死。残る野村備中守も矢を受けた傷により、後日死亡。妙林尼は、敵将の首など63個を亡き夫の主君である大友宗麟へ差し出したという。

寺司浜の戦いの戦死者を供養した寺司地蔵尊(写真提供:大分市)

その後の妙林尼の記録はない。なお、後日談ではあるが、豊臣秀吉もこれを聞いて妙林尼に是非会いたかったようだが、断ったという。

そもそも戦国時代の女性は勇ましい。なにしろ、戦場に散った兵の3割は女性との記録もあるほど。その中でも猛女として挙げられる妙林尼。

しかし、私にはどうしても、猛女と思うことができない。ここからは推測の域となるが、夫が果たせなかった大友宗麟への忠義を代わりに果たそうとしたのか、鶴崎城下の民を守りたいという気だったのか。そのどちらも当たっている気がする。それでも、敵将を3ヶ月も欺いてまで成し遂げる執念。それは、夫を亡き者にした怒り、悲しみ、そして「喪失」への自身の一つのけじめのつけ方だったのではないだろうか。

だから私には、妙林尼という女性が、猛女ではなく、ただ亡き夫へのレクイエムを捧げた女と見えるのだ。

基本情報

公式webサイト:大分県大分市鶴崎校区歴史マップ
大分市鶴崎歴史散歩コース

写真提供
大分市役所にご協力頂きました。
参考文献
『戦国時代の大誤解』 熊谷充亮二著 彩図社 2015年1月
『目からウロコの戦国時代』谷口克広 PHP研究所 2000年12月
『大分県の地名』下中弘 平凡社 1995年2月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。