「男子であれば天下に名を成す人物になっていただろう――。」戦国の時代にそう評された美しい姫君がいました。名は甲斐姫(かいひめ)。豊臣秀吉の小田原攻めの際、関東で唯一落とせなかったといわれている忍城(おしじょう)の城主、成田氏長(なりたうじなが)の娘です。
甲斐姫は、東国無双といわれるほどの美貌の持ち主でした。兵法や武芸にも優れており、性格は男勝りだったと伝わります。なんでも、小田原攻めで忍城を守り抜いたのは甲斐姫だったとか――。
今回は、そんな美しく勇ましい甲斐姫の、戦場での武勇伝を紹介します。
小田原攻めの舞台のひとつとなった忍城
豊臣秀吉が北条氏を降伏させ天下統一した「小田原攻め」。
このとき甲斐姫の父である氏長は、北条氏の本拠地である小田原城に籠っていました。その間に氏長の本城である忍城も、豊臣軍により侵攻されます。
城主不在の忍城
忍城に向かってきたのは、石田三成率いる豊臣軍。約23,000人の大軍だったといわれています。一方城主不在の忍城には、500人ほどの兵と、女性含む3,000人あまりの農民。軍力の差は圧倒的でしたが、城代の成田泰季(なりたやすすえ)を筆頭に成田軍の士気は非常に高まっていたため、豊臣軍からの攻撃に耐えていました。
城代がまさかのダウン……!
ところが、当時75歳だったといわれている泰季が、発熱がもとで突然亡くなってしまいます。泰季は自身の嫡男・成田長親(なりたながちか)を代わりに城代とするよう遺言を残していたため、総大将は長親に。
援軍が押し寄せ忍城ピンチ
このころ三成らは、忍城を水の底に沈めようと準備を進めていました。しかしうまく事が運ばず、水攻めは失敗。その報告を受けた秀吉は、忍城に浅野長政、真田昌幸、真田信繁らを援軍として向かわせます。
城を守ったのは19歳の姫!?
大軍が本丸まで迫っているという報告を受けた総大将の長親は出陣の準備をはじめますが、甲斐姫はそれを止めます。そして自ら鎧を身にまとい、200人の兵士を率いて敵軍に向かっていきました。ついに門前で浅野軍と鉢合わせ。「ひるむなー!」と兵士らを奮起させ、甲斐姫自身も成田家に代々伝わっていた名刀「浪切」で敵軍を次々となぎ倒します。
そこに真田親子ら敵の援軍が駆けつけるも、甲斐姫たちは負けじと撃退。圧倒的優位だった豊臣軍の城内への侵入を阻止し、甲斐姫ら成田軍は勝利したのです。
数少ない兵を率い、城を守り抜いた甲斐姫。当時の彼女の年齢は19歳だったと伝わっています。武将の娘、恐るべし……!
城を堂々と去る成田軍
忍城は守り抜かれましたが、本拠地である小田原城が開城しました。結果、忍城も開城し三成に明け渡すことに。開城の際、甲斐姫ら成田軍は民の拍手を浴び、堂々と城をあとにしたと伝わっています。
惚れてまうやろ!甲斐姫ドライエピソード
戦中、鎧を身にまとった甲斐姫が、女性でありしかも美人であることに気が付いた敵将。「勝利の暁には我の妻にしてやろう〜〜!」と寝ぼけたことを言い放っていたところ、甲斐姫が弓矢であっさりしとめたというなんともドライなエピソードも残されています。
謀反に巻き込まれ殺された義母の仇討ち
軍記物『成田記』に載る伝承では、忍城開城後、甲斐姫と父・氏長らは蒲生氏郷(がもううじさと)に預けられます。そこで氏長は、福井城の守備を一任され領地を得ることができました。
父留守中の悲劇
氏長が出陣で城を留守にしたある晩、氏郷から与えられた家臣・浜田将監とその弟の浜田十左衛門が謀反を企てます。約200人の兵を率い、福井城の本丸に攻め入った浜田兄弟。氏長の妻をはじめ、成田家の家臣らを次々と殺害しました。
甲斐姫、怒り心頭
この謀反の知らせを受けた甲斐姫は怒りに震え、たった数十人の兵を率い浜田らに反撃。馬で逃げようとする弟・十左衛門を甲斐姫は斬りつけ首を討ち取ります。
謀反を知った氏長らが駆けつけ、兄・将監が籠城する福井城を包囲。将監は城からの脱出をはかりますが、待ち伏せしていた甲斐姫によって右腕を斬り落とされ、生け捕りに。そして、斬首の刑に処されます。
豊臣秀吉に気に入られ側室に
これらの武勇伝を耳にした秀吉は、甲斐姫を大変気に入り「側室」に迎えました。その後、甲斐姫の口添えもあり、氏長は下野国烏山城の城主として、2万石の大名になります。
城を守り、身内の仇討ちを果たし、父を出世させた、強く美しい甲斐姫。大坂城に入った後については明確な史料が残されておらず、謎に包まれています。