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Culture
2020.05.01

徳川家康は健康オタク?銅像からは分からない性格やおもしろエピソードを紹介

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日本全国津々浦々、歴史上著名な人物像は至るところにある。そんな数ある像の中でも、この駿府城にある徳川家康像ほど、本人を悲しませるものはないだろう。アングルのせいなのか。このメタボ感、特に「腹回り」は、半端ないほどの強烈なインパクトを与えてしまう。

しかし、こう見えても、じつは家康はかなりのスポーツマンだったとか。あらゆる武芸に通じており、それも全てが一流のレベル。メタボ像からは想像できない事実が、残された記録からうかがい知ることができる。また、健康には人一倍気を遣い、その知識量は「健康オタク」といわれるほど。なんなら、自ら薬を調合していたというから、健康へのこだわりは圧倒的に他の武将を凌駕していたといえる。

運動こそが体力維持、健康に繋がることを知っていた家康。だからこそ、あのメタボ像が、じつに残念でならない。下腹が出過ぎて侍女に帯を締めさせていたほどの肥満でも、相撲の力士の如く「筋肉の固太り疑惑」も浮上するほどのスポーツマンなのだ。

そこで今回は、家康の無念を晴らすため、彼が生涯励んだ様々なスポーツについて取り上げる。策略だけではない、スポーツに秀でた新たな家康像を、是非とも知って頂きたい。

浮いてるんじゃない!川でちゃんと泳いでるんだ!

「人して代はらしむる事のならぬわざなり」。
こちら、徳川家康の残した言葉である。直訳すれば、「人に代わってもらうわけにはいかないもの」。何について語っているのかというと「負け戦の騎馬」と「泳ぎ」の2つについてである。家康からすれば、これら2つは家臣に身代わりをさせられないというのだ。

そもそも、戦では、たいていのコトは、大将に代わって家臣に行わせることができる。剣術や砲術はその一例だろう。しかし、戦に負けてしまえば、そうは言っていられない。全軍撤退して逃げなければならないからだ。だから、どんなに偉い大名であっても、自らが馬に乗り、川で泳ぐ。この「負け戦の騎馬」と「泳ぎ」の2つだけは、いくら家臣でも代わりをさせることはできない。そんな意味が込められた言葉なのだ。

つい、武田信玄と戦った三方ヶ原の戦いが思い出される。結果は散々。家康の屈辱的な敗走に終わったわけだが、そんな惨めな姿が脳裏にでも焼き付いていたのだろうか。どんな状況であれ、頼れるのは自分の体のみ。だからこそ、日頃からしっかりと心身を鍛えるべきなのだと。家康は、この言葉を戒めとして幾度も語っていたという。

そして、それは言葉だけにとどまらず。有言実行とばかりに実践してみせるのが、家康のスゴイところ。

なんでも、幼少期から泳ぎ慣れをしていることもあり、水泳はお手の物。家康自らが、長男・信康(のぶやす)にも教えていたといわれる腕前だとか。夏になれば子や家臣を連れ、近くの岡崎(愛知県)の川で泳いでいたという。これが、毎年の夏の恒例行事だったようだ。

それだけではない。さらに驚くべきは、家康の脅威の体力である。慶長15(1610)年7月には、駿河の瀬名川(静岡県)で泳いだとの記録が残されている。家康、御年69歳。70代手前にして、もう、元気大爆発だ。長生きするだけでも大変な時代だというのに、川での泳ぎとは恐れ入る。

一方で、家臣の心中を思うと、さぞや気が気でならなかったことだろう。いくら将軍職を秀忠に譲ったとしても、家康は未だ「大御所」として実権を握っていたのだから。本人は元気で泳いでいるだけだが、周囲の心境は計り知れず。万一のことがあればと心配したに違いない。

200メートル先に命中⁈砲術の達人だった?

徳川家康は、じつに周囲をよく驚かせる。あらゆる武術に秀でていると評価が高いが、砲術もそのうちの一つ。家臣も寄せ付けないレベルの射撃の名手だったとか。

そもそも「砲術」とは、古武術の一つで、種子島に伝来した鉄砲の操作方法と武道が合わさった日本独自のものである。江戸時代にはその研究が進み、流派はじつに200にも及んだといわれている。なかでも主流の一つである「稲富(いなどめ)流」。射手の姿勢を裸形で示し、距離射撃を順次図解するなど、その斬新さが特徴の流派だ。家康はこの稲富流を習っていたという。

稲富流の流祖は、稲富伊賀入道一夢(いちむ)。種子島直伝の奥旨に新たな独自の創意を加えて、流派を開いたとされている人物だ。関ヶ原の戦いの当初は、大坂の細川邸で留守を預かるも、細川ガラシャの自害後に逃亡。一時は厳しい非難を浴びたが、その高い技術が惜しまれ、家康の四男である松平忠吉に救われることに。その後、家康に拝謁し、幕府の鉄砲政策にも参画している。

ただ、家康の腕前は、なにも稲富流の教えの結果だけではない。家康自身の集中力と日々の鍛錬の相乗効果によるものだろう。それもそのはず。訓練を怠ることなく、毎日3発ほど鳥銃を撃って鍛えていたというからスゴい。

『徳川実記』には、浜松城でのエピソードも記されている。ある日のこと、50~60間(約100メートル)先の櫓(やぐら)に鶴がいたという。家康はそんな距離をものともせず。なんと、長筒でその鶴を仕留めたというのだ。同じように20人もの家臣が挑戦したが、誰も命中させられなかったのだとか。少々盛って書かれていることを想定しても、なかなかの腕前ということがわかる。

晩年になっても、その集中力は衰えず。慶長16(1611)年には、駿府の浅間神社で射撃を行った記録が残っている。二町(約200メートル)先の的に、5発も命中させたという。もちろん、家臣は誰も当てられなかったようだから、御年70の御老体でもバリバリの現役だったといえる。

「海道一の馬乗り」の真相

天正18(1590)年、小田原征伐のときの話である。豊臣秀吉の命令で、徳川家康らは小田原に向けて行軍していた最中のこと。一行は、ちょうど谷川を渡るために、とある橋の前へとさしかかったという。なんとも、馬一頭がやっと通れるほどの細い細い橋である。

そこへ身を乗り出す3大名。豊臣方の丹羽長重(にわながしげ)、長谷川秀一、堀秀政の3人である。彼らは、家康の一挙手一投足に興味津々のご様子。というのも、家康の異名は「海道一の馬乗り」。その技術の高さは世に広く知れ渡っていたからだ。

家康の馬術は、大坪慶秀(おおつぼよしひで)開祖の「大坪流」に習ったもの。免許皆伝をも習得していた腕前であったという。この細い橋を、家康は一体どのようにして渡るのか。いよいよ、その馬術がお披露目されるとあって、3人のみならず、誰もが丘の上から固唾を呑んで見守った。

しかし、そこで家康が取った行動は、思いもかけぬものだった。さっと自身の馬から降りて、雑兵に渡す。雑兵は家康の馬を引きながら渡る。そして、肝心の家康はというと、なんと兵の背中の上。あの「海道一の馬乗り」が、馬にも乗らず兵に背負われて橋を渡っていくのである。

その意外な姿に、豊臣方の兵らは大爆笑。一方で、外野の喧騒などものともせず、悠々と渡る家康。

「さすが」
そう唸ったのは、例の3大名である。

なぜなら、彼らは「真の達人」というものを知っていたからだ。達人はどのような状況でも慢心せず、危険を冒さないもの。これは大坪流の教えにも合致する。「馬の身を思いやる」という内容だ。じつは、家康は、危険な場所では馬から降りて歩くべしという教えを、忠実に実践していただけなのである。

もちろん、家康とて見栄を張りたいとの思いもあったに違いない。それでも、目的を見失うことはなかった。行軍のあとに待っている大切な戦い。たかが名誉のためだけに、冒す価値のない危険は避けるべきと考えたのだ。そして、そんな裏側を知るからこそ、3大名はいたく感心したのだろう。

当然のことだが、現代の私たちは徳川家康に会うことができない。どんな人物か、どんな容姿なのか、再現されたものを視覚的に捉え、「ああ、これが…」と認識するしかない。だからこそ、冒頭の家康像は、単なる「タヌキ親父」「メタボ家康」などと誤解される元ネタにならざるを得ない。

しかし、家康の武芸は幅広く、スポーツも万能だ。剣術は奥山流をはじめ2、3の流儀を習得。後年は柳生流にまで手を出している。大名の趣味として親しまれた「鷹狩り」も、家康は生涯に1000回以上も行ったとされている。また、その方法も独特だ。ただ獲物を狩るのではなく、予めコースを決めておき、徒歩で回る。たとえ獲物を狩れなかったとしても、最後までコースを回ることを徹底した。家康にとって、鷹狩りは、あくまで体力維持のためのスポーツなのだ。

だからこそ、家康は天下を取ったのち、さらに70歳を超えても、なお生き続けた。豊臣秀吉、前田利家らが62歳で死するとき、一族の未来を家康に託さなければならなかったのとはワケが違う。江戸幕府を開き、盤石な体制になるまで自らが実権を握って、他家を圧倒した。

「三英傑」といわれた徳川家康。残りの2人、織田信長や豊臣秀吉との徹底的な違いは、性格などではない。その寿命にあったのだ。

参考文献
一個人2011年9月号『戦国武将の謎100』高橋信幸編 KKベストセラーズ 2011年7月
『徳川四天王と最強三河武士団』 井上岳則ら編 双葉社 2016年11月
別冊太陽『徳川家康没後四百年』 小和田哲男監修 平凡社 2015年4月
『戦国武将の病が歴史を動かした』 若林利光著 PHP研究所 2017年5月
『徳川家康に学ぶ健康法』 永野次郎編 株式会社メディアソフト 2015年1月
『別冊宝島 家康の謎』 井野澄恵編 宝島社 2015年4月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。