浮世絵師と聞けば、パッと思い浮かぶのは、葛飾北斎や東洲斎写楽、歌川広重などでしょう。蔦屋重三郎に見いだされ、大首絵の美人画を描いて一大ヒットを飛ばした歌麿も、江戸時代を代表する浮世絵師の一人として語られています。
しかし同時代に美人画を描き、人気を誇った鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし)を知る人は少ないのではないでしょうか。武士から浮世絵師となった異色の経歴の持ち主で、浮世絵版画(錦絵)だけでなく、肉筆画にも素晴らしい作品を残している栄之。そんな彼がどのような経緯で浮世絵師になったのか。現在、千葉市美術館で開催中の『サムライ、浮世絵師になる!鳥文斎栄之展』を担当した学芸員の田辺昌子さんにお話を伺いながら、知られざる浮世絵師の生涯に迫ってみました。
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鳥文斎栄之は、家禄五百石の旗本の家系で、祖父は江戸で勘定奉行を務めた細田家の長男として、宝暦6(1756)年、江戸に生まれました。父を早くに亡くし、17歳で家督を継ぐと、10代将軍徳川家治(とくがわいえはる)※1の御小納戸役(おこなんどやく)※2として、絵具方(えのぐかた)という役目を賜ります。
武士の身分を捨て、浮世絵師としての道へ
―武士の家系に生まれた人物が、士農工商でいえば、『工』にあたる浮世絵師になるというのは、かなり珍しいことですよね?
田辺:そうですね。栄之は御小納戸役の中でも、高い位についていたようです。幕府のお抱え絵師であった狩野派の狩野栄川院典信(かのうえいせんいんみちのぶ)の門下に入り、絵を学び始めます。ただ、武士として将軍に仕え、狩野派の中で絵を描くことに息苦しさを感じたのか、病気を理由に3年で辞職してしまうんです。その後、天明6年(1786)に家治が逝去し、老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)※3が失脚すると、本格的に浮世絵師としての活動に専念していきます。その頃描いたとされるのが、この「風流十二月」です。
恵まれた出自を活かし、大型新人として登場!
―栄之の浮世絵は、基礎がしっかりしているというか、日本画といってもいいような繊細で優美な感じがしますね。
田辺:やはり日本最高峰の狩野派に学んでいたため、高いレベルの技術を習得していたんだと思います。栄之は、家治にも可愛がられていたようで、栄川院の栄を取って、「栄之」と名づけるよう家治が指示したと伝えられています。
―浮世絵師としてデビュー後、すぐに高価な大判絵※4 を描いていたんですよね。
田辺:はい、当時としては一番高いもので、中判絵の2倍の大きさで、値段も倍はしていたと思います。普通、新人の浮世絵師が描かせてもらえるのは、細判からなんです。栄之が最初から大判を描かせてもらえているのは、やはり武家出身ということが大きかったと思います。大判絵は、彫りや摺りも凝っているし、色数も多いので、見ごたえがあります。
高級層を狙った? 煌びやかで色鮮やかな浮世絵を描く
―そういう意味では、他の絵師とは一線を画すようなポジションだったのでしょうか。
田辺:武家出身という出自もあり、最初から富裕層を狙った浮世絵を描いていたようです。これは栄之を売り出した版元、西村屋与八※5の狙いでもあったと思うのですが、同時代に人気を博した歌麿との差別化を図ったのではと思われます。