そもそも漆は塗装業だった
「漆galleryあさい」に入ると、そこには椀や箸、盆などの色とりどりの日常使いの漆器から、浅井啓介さんの手がける漆アートの大作まで、幅広い漆の魅力が広がっている。漆器の美しさと、そこから放たれる深い光を目の当たりにすると、何十回と繰り返される塗りの奥深さに引き込まれていくのだ。
しかし、浅井さんから出た言葉は意外な一言だった。
「今では『漆芸』というと、高尚なもの、特別なものというイメージになっていますが、昔はいわゆる塗装業だったんですよ」。
塗りの仕事ではあるけれど、塗装業というイメージとはかけ離れている。その理由を伺うと、
「もともと漆は、建築材料でもあったので、城や寺社仏閣を建てる際の外装として、使われていました。接着剤としても使われていますし、刀剣でいえば、刀を納める鞘(さや)の部分にも使われています。だから、戦前まではだいたいどこの町にも漆職人はいたんです。もちろん尾張にも漆関係の職人はたくさんいました」と浅井さん。
確かに、城や寺社仏閣の数を見れば、それに関わる多くの漆関係の職人がいたことは想像できる。それが戦後の高度経済成長で、安価な漆が輸入されるようになり、漆芸は「輪島塗」などの高級漆器を生み出す産地を除いて、減少の一途を辿ってしまったそうだ。
漆は何にでも塗れる伝統工芸の礎
「うちの家は、明治生まれの祖父が創業したのですが、最初、丁稚で行っていたところが『尾張塗』の職人の家で、そこが『鞘塗』を専門にやっていたところだったそうです。漆の技法は地域によっても違いますが、家によっても受け継いでいる技法も多少違うのです」
漆器といえば、木製に漆を塗った木胎(もくたい)漆器を中心に思い浮かべるが、実はいろいろな素材に使用されているのだとか。金属が素地のものは金胎(きんたい)漆器、麻布や和紙の上に漆を塗れば乾漆(かんしつ)と呼ばれるなど、その素材によっても技法はいろいろあるのだという。
「愛知県は七宝焼きが有名ですが、漆器にも七宝の銀線を使った「塗り七宝」というものがあるんです。漆の器に七宝の銀線を立てて、そこに色漆を垂らして模様を付けるんです。また、陶器茶碗に漆を塗って造るものがありますよ。楽茶碗のような素焼きの茶碗に黒い漆を塗ることで、黒楽のように見えるんです。これは豊楽焼(とよらくやき)と呼ばれています」。
要は、塗れるものには何でも塗ることができる万能な塗装料が「漆」の凄さであり、それが古代から現代まで受け継がれてきた要因といえるのかもしれない。いきなり漆の深い世界に引き込まれ、動揺してしまったが、ここからはじっくり「漆芸とは?」に迫ってみたい。
戦国時代にも活躍した漆の力
「尾張名古屋は室町期ぐらいから工芸が盛んで、隣の美濃と呼ばれた岐阜県関市には、刀剣の文化がありました。戦国武将も多数輩出している歴史があり、城もたくさんあったし、もともと漆を使う文化がすごく多かった地域なんです。だから、昔から木地屋、下地屋、塗師、蒔絵師などの職人はもちろん、それらをまとめる問屋や、うるし掻きの職人もいたんです」。
確かに、ここ愛知県は三英傑と呼ばれる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を生んだ地。城づくりに始まり、刀剣や茶道具など、彼ら大名が抱えた職人が多数いたはずだ。その中には漆職人も含まれていたのだろう。さらに江戸時代に入ってから、尾張藩が伝統工芸の保護に力を入れていたこともあり、美濃地方の和紙や陶器、尾張の有松絞り、知多半島の醸造文化とさまざまな伝統が受け継がれている。しかし残念ながら、どの業界も先細りで、現代に残る業界は、風前の灯という状態だ。浅井さんはこうも続ける。
「愛知県に伝わる変わり塗の技法は、江戸時代から変わっていないんですよ。現代的な表現をしているだけで、それだけ磨き上げられた技術なんだと思います。愛知県では、それが自動車産業になり、セラミックになり、技術革新にうまく乗れたということなんです。それはある意味、技術力が高かったから転換できたというのがあります。ものを作る職人たちに先見の明があったと言えるのかもしれません」。
産業大国として今や全国トップを誇る愛知県だが、そこには古くから続く、手仕事の技術の高さが受け継がれてのことと思うと感慨深い。ものづくりの魂が受け継がれてこその今の産業があるのだ。だからこそ、今や「尾張塗」を引き継ぐ最後の一人となってしまった浅井さんの言葉は、とても重く心に突き刺さってくる。
漆の修行は苦行の始まり
現在、三代目を受け継ぐ浅井さんだが、浅井家では、漆の仕事はお父様の代で終わらせるつもりだったのだとか。
「昭和に入り、父の時代になって、プラスチックなどの工業製品が大量に輸入されると、漆器の新品は売れない時代になっていきました。父は本当に苦労したと思いますが、料亭からの注文を受け、塗りと修繕を細々とやっていたんです。周りの職人たちは、仏壇具のメーカーへと転身していきました。今でも尾張仏壇が有名なのは、その頃始まったものなんです。だから名古屋の漆業界自体が低迷している中で、僕に継がせる気もなく、大人になるまで一切『漆』に触れたことがなかったんです」。
今や漆芸家として日展にも数多く入賞し、斬新なアート作品を生み出している浅井さんからは想像がつかない話だが、創業で苦労した初代、昭和の高度成長期にあおられた二代目にとって、漆の仕事は、それほど未来を感じさせるものではなかったのだろう。しかし、その転機は意外なところからやってきた。
「僕の場合、大学を落ちて、どうしようかな、という状況からのスタートだったんです。やりたいこともわからず。ただ、祖父や父が漆で作るのを家でずっと見ていたので、なんとなくやってみようかなという気になったんですね。それなら、まず自分の家のやり方を覚える前に修行だということで、輪島に行ったんです。佐藤幸一さんという蒔絵を専門にやられている先生に出会って、そこで人生が変わったんですね」
今まで実家で見ていた漆とはまた違う、金粉や銀粉などで、漆の表面に絵模様を描く蒔絵の世界。絵は小さい頃から嫌いだったという浅井さんだが、その美しさには惹かれるものがあったという。
「昔の修行ですから、家の手伝いや犬の散歩、お昼になれば先輩方の食事を注文するなど、漆と関係ない仕事がほとんどでした。あとは、線描きの練習を朝から晩までやっていて。だから本当に何をしているんだ? という感じになってしまって、若さもあったんですが、1年で実家に戻ってきてしまったんです。 それから1年ぐらいフラフラしていて、なんかやらなきゃという話になった時、たまたま小牧在住であれば、プロアマ問わず絵画や陶芸などの芸術作品を出展できる市民展があって。そこに出品したら、なんと受賞してしまったんです。そこから家の漆を手伝いながら、日本画を一から学ぶため、前衛的な日本画を描かれる星野哲弘先生のところに通い始めました」。
伝統工芸の家に生まれながら、一度も漆を触ったことがなく、初めての修行先で大変な思いをし、紆余曲折を経て、ようやく辿り着いたのは、漆を使った芸術の世界だった。引き寄せられるように漆の世界に戻った浅井さんに、運命の力を感じてしまうのは、私だけではないはず。それぐらい浅井さんの生み出す作品には、得も言われぬパワーが潜んでいる。「漆芸」とも「絵画」とも「立体」とも線引きできない総合芸術のような作品。これらを見た人が、不思議な感覚に捉われるのは、彼の人生経験から生み出されたものなのだと改めて感じた。
「日本画をやると同時に、木曽とか福井とか、漆芸の産地にいろいろと学びに行くようになったんです。そうすると地域、地域のやり方があり、気候や材質で違ってくる漆について学べたのが良かったんだと思います。それがいろいろな塗りのバリエーションを覚えることにも繋がっています。全国の漆の産地を訪ね、指導を受けてきた僕の経歴は、漆業界では珍しいと思います」と浅井さんは照れながら、語ってくれた。
多様な漆の世界を知って、物の本質を知る
確かに、陶磁器であれば、産地によって、土も焼成方法も違い、「〇〇焼」として、それぞれの個性を放っているのに、漆に関しては一つのイメージしかない。色も黒や赤、そして金の装飾。ほとんどの人が産地へのこだわりもない。漆器が並べられている中で、その産地の違いを言える人はほとんどいないのではないだろうか。
「僕自身も、最初は頭が混乱していたんです。なんで塗りの技法がこんなにさまざまなのかと。 それが本質が分かってくると、名前が違うだけで、『この漆は乾きが強い』とか『この漆はゆっくり乾く』という漆の特性を理解して、自分の漆芸にも広がりが出るようになったんです。漆本来の特性を捉えながら、こうすると早く固まるからこんなことができるとか、時間によって変わる色のグラデーションを生かすようになりました」。
浅井さんの作品に使われる色の多彩さには、こういったさまざまな地域の伝統技法を学んだことによるもの。黒一つとってもその色味が多彩で、だからこそ奥深い表現ができるのだろう。
「変わり塗」という尾張塗の特徴に迫る
「変わり塗」という言葉自体、馴染みのない方が多いのではないだろうか。変わり塗は、漆の塗りを応用した技法で、それが何十種類もあるのだという。愛知県は変わり塗の中でも「鞘塗」というザラザラとした質感を残した塗りが盛んだった。
その他には色漆を何度も塗って研ぎだす技法や、漆の接着を利用して材料を貼り、その模様を活かす技法などがある。
「漆はいろいろなものに塗れると話しましたが、その模様にもいろいろな素材があって、自分が受け継いだ技法だけで33種類あるんです。例えば「蜘蛛の巣塗」っていうのは、蜘蛛の巣を漆を塗った後にそのままくっつけるわけですね。 そうすると蜘蛛の巣状の絵柄になる。
「虫喰い塗は、漆を塗った後に、お米のもみ殻を蒔くんです。もみ殻ってちょっと油分があるので、漆にくっつかないものが、翌日パラパラっと剥がれるんです。それでお米の跡が、穴が開いたように見える技法なんです」と浅井さん。
「下記の写真は、実際に並べて見せてもらった33種類の変わり塗の技法だ。自然界にあるいろいろなものを利用して、模様を生み出し、そこに漆を何層にも塗っていく。アートというより、古来から続く人間の知恵だ。こういった技法は、ややもすると手間ひまがかかり、効率化からは無縁のため、時代と共に消え去ってしまう。そんな中、浅井さんは自ら、これを受け継ごうと思ったのはなぜなのか。
自分のアイデンティを見つめると、日本人の精神性にいきつく
「29歳ぐらいの時だったと思います。 自分で漆の作品を作る中で、漆業界で生き残っていくには、差別化が必要だなと思っていたんです。その時に、尾張塗の伝統である『変わり塗』をやろうと思いついて。祖父や父に原型は習っていたんですが、あとは自分で実験を繰り返していきました」。
各地の塗りの技術を知ったことや日本画の技法を学んだことがプラスされ、独自の世界が出来上がっていった。そういった中で、伝統の技法が消えていく怖さも知ったという。
「亀甲塗は、祖父が考案した表面に無数の割れ目が入ったものなんですが、当時94歳で、末期がんだった時に『亀甲塗の技法は知っとるか?』と聞かれて、最後に祖父に教えてもらったんです。その翌月に祖父は亡くなってしまったんですが、こうやって技法って消えてしまうんだなというのを実感しました」。
何百年もかけて受け継がれてきた技法も一度失われてしまえば、二度と手に入れることはできない。私たちの世代はギリギリ、そういう局面に立たされているのだ。
漆は欧米では「japan」と訳される。日本の工芸を代表する漆でさえ、日本人はその存在を忘れつつある。三代目となった浅井さんが、漆を次世代に残さなくてはと強く思ったきっかけは、海外での出来事だったという。
「ニューヨークのメトロポリタン美術館に行った時、そこでいろいろな世界の芸術を見る中で、日本のものってやはり何か違うなっていうことに気づいたんです。僕が影響を受けた谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』や、ドナルド・キーンの本や、岡倉天心の『茶の本』などにも書かれているように、表現としての日本人の精神性というか、ものの捉え方って、すごく大事だなと。何かと戦う時に自分を信じるしかないという感覚や、日本人のアイデンティティの中に道教や禅といった東洋的思想が根底に流れていることや、虚と有が表裏一体であることなど、日本の伝統工芸には日本人ならではの感性が宿っていると思うんです。金継のように壊れたものを継いで再生させるなど、虚や空も悪い事として捉えるのではなく、そこから有を生み出すみたいな。そういう精神的なものも含めて、漆を伝えていきたいんです」。
浅井さんの作品を最初に見たのが、小牧市制70周年記念「漆 うるし URUSHI 浅井啓介展」だった。広い講堂の中に、天井からつるされた作品、床に置かれた作品、全方向から漆に囲まれた時、とても穏やかな気持ちになった。いくつもの工程を経て、生み出される漆芸作品。そこにはもくもくと作業を続ける人々の想いが積み重なって、私たちに語り掛けてくる。それにしてもなぜ、こんなにも漆が身近ではなくなってしまったのか。その問いに浅井さんはこう答えてくれた。
「そこには教育の問題もあると思います。日本人の身近な伝統工芸を学ぶ機会があまりにもない。本来、修行を始めるのも中学を卒業するぐらいが、一番習得に適していると言われています。ただ、現代ではみな、高校、大学に進むことが前提となってしまっている。手先が器用だったり、ものづくりが好きだという人たちがその道に辿りつく機会がない。そういう道が開かれるように、僕自身伝えていく必要があると思っています」。
現在、作品作りの傍ら、金継や漆の教室を開催している浅井さん。漆の未来に対する思いを熱く語ってくださった。その柔らかな笑顔の裏に抱えている重責は計り知れない。漆一つとっても、漆芸に関わる人だけでなく、漆の原木を育てる人、樹液を採取する人、道具を作る人、何か一つ欠けても、成り立たない世界。日本文化は、それぞれの職人たちの仕事が連綿と続いてきたからこそ、成り立っていたのだと痛感させられた。縄文時代から存在した「漆」。まさに人類の歴史と共に存在していたといっても過言ではない。お金を出せば何でも手に入ると思いがちだが、便利さに胡坐をかいた私たちは、実は多くのものを失いかけていることを今回の取材を通して、改めて強く思い知らされている。
浅井啓介
1967年愛知県小牧市出身。18歳の時に、石川県輪島市で故・佐藤幸一氏に師事 蒔絵を習う。20歳より、父・源一郎氏に尾張漆器の塗りを習うと同時に、星野哲弘氏に日本画を学ぶ。日本現代工芸美術展 大賞・本会員賞・理事長賞、審査員4回。日展入選21回・特選2回・審査員2回。現代工芸美術家協会評議員、日展会員、日本美術家連盟会員。小牧市をはじめ、各地で漆教室、本漆・金継ぎ教室などを開催。