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Culture
2020.07.09

織田信長と伊達政宗はサプライズがお上手?家臣がリアル困惑した戦国大名たちの言動とは

この記事を書いた人

つい先日、久しぶりに「リアル困惑」の現場を見た。
全く関係ない話からスタートで申し訳ないのだが。じつは、最近、釣りにドハマりなんです、私。ハイ。未だ餌にも触れられない「接待釣り」なのだが、それでも釣った魚を食べる醍醐味といったら。もう、究極の美味。

そんな魅惑の釣りの世界にだって、もちろん暗黙のルールはある。そのうちの1つが「釣り場で適度な距離を保つ」というコト。だって、近くだと釣り糸が絡むんだもの。

しかし、先日、釣り場で衝撃の現場を目撃。横のオジサンが竿を垂らしたままトイレに行ったのだが。新しく参入してきた若者が、オジサンの竿の横にピタリと自分の竿を垂らしたのである。

トイレから戻ったオジサン。
「……」
怒るよりも「困惑」の方が余裕で勝っていた。

無言でたたずむ後ろ姿に、私も激しく同意。そのとき、人って本当に困惑したときは動けないんだ、と実感。フリーズするオジサンを横目に、私は考える。リアル困惑の瞬間、人はどう反応すればよいのだろう。

果たして、最適解はあるのか。

そこで、今回は、家臣がマジで反応に困ったであろう戦国大名の言動をセレクト。どうすれば、この冷凍庫並みの厳しい空気に耐え抜けるのか。是非とも、一緒に考えてみたい。

織田信長の家臣団は図太さが違う?

さて、最初にご紹介するのはコチラの方。家臣を困らせる主君界で長年トップに君臨する「織田信長」である。

なぜ、ぶっちぎりのトップなのか。
だって、明智光秀が起こした「本能寺の変」がそのいい例だろう。未だに、謀反を起した理由は不明。歴史学者もお手上げ状態。しかしながら、有力説の1つは、信長の日頃の言動に対して、光秀の積年の恨みつらみが爆発したというもの。

ただ、それほどまで、信長は家臣に対して過酷な扱いをしていたのかというと。正直、肯定も否定もできず。というのも、信長は独特な存在で、一般的なモノサシでは測れないからだ。歯に衣着せぬ物言いと、厳格な実力主義はかなりのもの。これに合わない家臣は、さぞや大変だったに違いない。

一生懸命に太鼓持ちをしたところで、実力がなければ取り立ててもらえず。加えて、気が変わる早さは、山頂の天気よりも強烈。そういう意味では、信長の家臣は、主君である信長を好きでなければ、務まらないのかもしれない。

さて、じつは、そんな信長が、完成した安土城へ重臣らを招いて慰労会を開いたことがある。

『利家夜話』には、そのときの逸話が記録されている。安土城が完成したのは天正7(1579)年頃だから、その年代であろう。集まった家臣たちは7、8人ほどいたのだとか。その中には、当然、柴田勝家や前田利家らも含まれていたという。

前田利家像

宴席では、じつに珍しいものが振舞われたようだ。
ただ、家臣からすれば、御馳走はもちろんのこと。それよりもまして嬉しいのが、主君の褒め言葉。なんと、あれほどシビアに実力主義を貫く信長が、その席で家臣を褒めたというのである。家臣1人1人に声をかけ、よくやったと皆の前で言う主君、信長。痺れたに決まってる。そう、家臣たちは、その言葉に大いに酔っただろう。これまでの苦労が一気に吹き飛ぶ瞬間となったに違いない。

ちなみに、柴田勝家にはこんな調子。

「柴田前にて御意に、貴殿を始め、度々手柄致され候故、斯樣に天下を静め、萬事成就、満足申し候由御意」
(村井勘十郎ら著『利家夜話』より一部抜粋)

「勝家、お前をはじめ、皆がよく働いてくれたおかげで、予は天下を取ることができた。満足だ」
(丸茂潤吉著『戦国武将の大誤解』より一部抜粋)

居並ぶ家臣らも、くすぐったい気持ちになったのだろうか。それにしても、信長は家臣の気持ちを掴むのもうまい。これぞ、ツンデレの極地。日頃の不安、不満、ストレスが消え去り、さらに、もっと褒められたいと励んでしまう。

宴席では、次々に家臣たちに声がかかる。
そして、ようやく末席にいた前田利家の番である。

若かりし頃の利家は、「傾奇者(かぶきもの)」として、名を馳せていた。良くも悪くも言動が派手で非常に目立つからだ。一方、武功も間違いなくあげる勇将でもあった。それこそ「槍の又左(やりのまたさ)」という異名があるほど。信長の小姓からエリート集団の「母衣衆(ほろしゅう)」へ。そんな出世を果たした人物なのである。

そんな利家に放った信長の言葉とは。

「利家樣、若き時は、信長公御傍に寝臥なされ、御秘蔵にて候と、御戯言(おんざれごと)、御意には、利家其頃まで大髭にて御座候、髭を御取り候て……」
(村井勘十郎ら著『利家夜話』より一部抜粋)

「信長は彼の髭をつかみ、こう言った。
『貴様が少年の折は、夜になると片時も体から離すことがなかったな』」
(丸茂潤吉著『戦国武将の大誤解』より一部抜粋)

さても、この発言。家臣たちには、どう受け止められたのか。

じつに物議をかもすかと思いきや、予想は大いに外れ、さして場の空気は凍らず。というのも、当時の風潮は、男色(男性同士の性愛のこと)も珍しいことではなかったからだとか。そのため、このように主君が堂々と性的関係を公にしても、問題にならず。反対に、羨ましがられるような感じといったところか。

ちなみに、現代では。
職場という環境でこのような発言は、セクハラ、パワハラ疑惑で一発即アウトだろう。それにしても、信長の家臣はやはり、主君同様、図太かったのか。もしくは、宴席ということもあって、酒も入っていたからか。万が一、この発言で一層の盛り上がりを見せたのなら。なんとも複雑な心境になるのは、私だけだろうか。

ただ、この信長の発言については、その解釈が分かれるところ。じつは、諸説あるのだという。今回は、そのうちの1つを意訳として紹介したまで。

原文は「信長公御傍に寝臥なされ」となっており、複数の解釈が可能。もちろん、男色という意味にも取れるが、それ以外にも、主君の側で寝ずの番をしていたとも。つまり、寝るときにしっかりと警護してくれたので、安心だったという意味合いにも取れるのである。

そうなると、また、全く違う織田信長と前田利家の関係が見えてくる。男色ではなく、似た者同士の確かな絆。強固な信頼関係の師弟愛みたいなものか。どちらの解釈も、可能性はありそうだ。

なお、追加情報として。
じつは、『利家夜話』では、この項目の話のメインは、信長の発言ではない。

「鶴」なのである。

マナヅル

どうやら、この宴席で振舞われたのが「鶴の汁」。
そして、もともと『利家夜話』では、「宴席の場で『鶴の汁』を食べ過ぎて、利家が腹痛を起こした」という内容こそが主題。メインの話なのである。

『利家夜話』にはこのように記されている。

「御近習衆、通ひを仰せられ候衆までも、さてもゝ冥加なる又左殿かなと、あやかり者と奪合ひ候樣に、通ひ物候故に、奢にて、忝(かたじけな)き御諚と、ひた物食ひ過し、鶴汁を是非なく過したれば、その後中り申し候と御意にて、御笑なされ候」
(村井勘十郎ら著『利家夜話』より一部抜粋)

先の信長の問題発言には、さらなる続きがあったのだ。
信長は、織田家の家督争いで起こった「稲生(いのう)の戦い」に言及。右目下を矢で射抜かれても、ひるむことなく相手を討ち取った利家。この武功を、信長が宴席で披露したのである。それを聞いた近習らは、利家にあやかりたいと鶴の汁を差し出す始末。こうして、前田利家は鶴の汁を食べ過ぎたため、腹痛を起こしたという。

このとき、既に利家の年齢は40オーバー。さすが「律義者(りちぎもの)」と称されるだけのことはある。鶴の汁を食べまくったなんて。胃もたれは半端ないだろう。

まとめると。
信長の宴席での発言の結果、空気は凍らなかったようだが、家臣が1名負傷。

症状は、鶴の汁の食べ過ぎによる腹痛であった。

オチャメな伊達政宗のいたずらに困る家臣

お次の方も、大層、人を困らせ好きの方。
家臣がどう反応していいか分からない場面を作り出す天才といえば、この人物の右に出る者はいないかも。

容姿も行動も規格外。加えて、片倉小十郎景綱らを筆頭に、家臣の忠誠心も規格外。そんでもって、ピンチを乗り切るスキルは天下一品。こうくれば、あの人しかいないだろう。奥州の覇者、伊達政宗である。

伊達政宗像

何度もこの方の記事を書いているが、一体、今度は何をやらかしたのかと、私までもが思ってしまうくらい。ただ、安心して頂きたい。今回は、他愛もないちょっとしたイタズラだ。政宗からすれば可愛いレベル、周囲からすれば、人間の本性が出てしまうレベルである。

ときは、慶長19(1614)年12月の「大坂冬の陣」のあと。ちょうど豊臣方と徳川方の間で和睦が成立し、諸大名らも陣中で暇になった頃である。

暇となれば、剣術を磨くとか、軍の体制を見直すとか、なりそうなのだが。
やはり、戦が終わった後の解放感なのだろうか。「暇つぶしに何か一興を」となるワケで。なんだが、命を賭けて戦ったあととは思えない。じつに、ほんわかした雰囲気の中。

「なんだか暇になったよなー」
「だったらアレでも?」

そんな流れにでもなったのだろうか。
急遽、「香合わせ」が行われることになったのである。

「香合わせ」とは、二種の香木をたいて、その匂いや香銘の優劣を競うもの。戦国武将にとって、和歌や茶道、香道などは必須スキル。誰しも、最低限の知識は身につけているもの。そのため、こんな具合で、いきなり香合わせのイベントが開かれたりするのである。

『名将言行録』によれば、伊達政宗も、どうやらその場に行き合わせたようで。「香をかいで下され」と相手に振られて、飛び入り参戦。ちなみに、この香合わせ、ただ競うわけではない。もちろん、それなりの楽しみがある。それが、諸大名らが出す「景品」なのだという。

この景品、内容はじつに様々。例えば、弓矢であったり、馬につける鞍の泥障(あおり)であったり。それなりにもらって嬉しい物を、諸大名らは用意したのだとか。

さあ、ここは、政宗が注目を浴びるところ。だって、あの「伊達者(だてもの)」の政宗が出す景品なんだもの。派手でオシャレなモノで、それでいて実用品。どんな品が出てくるんだ、と周囲は目をキラキラさせる。期待の眼差し一斉ビームである。

興奮が渦巻くなか、政宗は一向に気にする様子もなく。
なんと、ちょうど腰につけていた瓢箪(ひょうたん)を景品に出したのである。

「えっ?」
「なんで、瓢箪?」
そうだ、政宗よ。この期に及んで、なんで瓢箪なんだ?

嗚呼。確かに。
その場の空気は確実に凍ったはず。そして、誰もが、この景品には当たりたくないと本気で願ったことだろう。

ただ、実際はというと。
意外と空気が凍ったのは一瞬で、そのあとは不満爆発。失礼ながらも、ブーイングの嵐となる。それを隠そうともしない周囲の雰囲気は、さすが、戦国の世。『名将言行録』では、このように書かれている。

「みなおかしな景品だとして、それを取る者はなかった…(中略)…奥州の大将の景品ともあろう品がといって笑っていた」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

逆に、なんだか切なくなる。もうちょっと、政宗に気を遣った方がと、私がヤキモキするくらい。クリスマスのプレゼント交換会で、自分のプレゼントが「ぼっち」で取り残された感覚に近いだろうか。哀しすぎる瓢箪である。

誰しもがそっぽを向いたが、その場は、どこぞの家来かが瓢箪を取って、香合わせは終了。致し方なくだろうが、瓢箪は残らずに持っていかれたのである。

さて、政宗はというと。
散々、周囲からブーイングを受けつつ。意外と気にしてなさそうな様子。

そして、帰る頃になってのこと。政宗は、驚きの行動に出る。
悠々と、自分が乗ってきた馬を、瓢箪を取った者に渡したのだ。それも、馬には様々な飾りがついていたが、そのままの恰好で。つまり、飾りも取らずに丸ごと含めてである。

不思議に思っている相手に、一言。
「諺(ことわざ)通り、瓢箪から駒が出たぞ」

なんと、政宗の景品は「瓢箪」ではなく、「瓢箪つきの政宗の馬」。
それを見ていた周囲の者は、手のひらを反す如く、羨ましがったという。なんとも、現金な彼らである。

これは、政宗の人柄がよく分かるエピソードといえる。モノではなく気持ち。浅はかな周囲の者をちょこっと懲らしめつつ、サプライズ感も忘れない。人を驚かす威力は折り紙付き。さぞ、瓢箪を取った者は喜んだであろう。

それにしても、馬に飾りがついたまま、丸ごと渡すとは。
やはり、政宗は、気前の良さも規格外であった。

織田信長にしても、伊達政宗にしても。
共通点は、全くもって「平凡ではない」というコト。

見方によっては、欠点の部類に入るのかもしれない。しかし、彼らの家臣は違う。それは、やはり「我が主君の魅力」と映るのだろう。

おっと。そういえば。
2人には、もう1つの共通点が。
それは、彼らの家臣も同じく。平凡ではないというコト。

似たり寄ったりが、案外いいのかもしれない。

参考文献
『日本の食と酒』 吉田元著 講談社 2014年1月
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『信長の親衛隊』 谷口克広著 中央公論新社 2008年8月
『加賀藩百万石の知恵』 中村彰彦 日本放送出版協会 2001年12月
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月
『戦国武将の大誤解』 丸茂潤吉著 彩図社 2016年9月

書いた人

生粋の京都人。生まれも育ちも京都で、大学時に未生流の華道師範代を取得。教育業界を飛び出し2年半、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その反動で、現在は北陸で馬車馬の如く執筆する日々。法律、ビジネス系記事から日本文化まで。日本の歴史、なかでも戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。北陸文化も発信中。