2か月遅れで始まった新作ドラマ。内容を紹介するうえで欠かせないのが、やはり「人物相関図」だろう。ちなみに、私は先に相関図や大まかなあらすじを見て把握するタイプ。登場人物が出てくるたびに、「犯人候補」やら、「友人だけど裏切る人」やら。なんだか一種の確認作業のようではあるが、これが、またよかったりもする。
特に、登場人物が多いドラマは、人物相関図が必須だろう。だって、もう、誰が誰だか。ストーリーの中で登場人物を見失うほど、イタイことはない。
それならば。
混乱を極めた下剋上にこそ、人物相関図が必要ではないのか。この唐突な思いつきから、今回、記事のテーマを選んだ。
戦国の世、時代のうねりは激流となって押し寄せる。そんななか、戦国武将たちは生き残りをかけ、情勢を見極めるしかない。敵になり味方になり。時には、非情な決断を迫られることも。だからこそ、属するグループでは判別しない。武将個人の生き様、価値観がモノをいうのである。
そんな戦国時代人物相関図で、最初に取り上げるのがこの2人。
奥州の覇者「伊達政宗(だてまさむね)」と、戦国時代きっての名軍師「直江兼続(なおえかねつぐ)」。
じつは、彼らの関係は超バッド。意外にも、非常に仲が悪かったと後世に伝えられている。「天敵」や「犬猿の仲」と例えられることも。
さて、実際の関係は?
今回は、残された逸話を紐解きながら、2人の知られざる実像に迫りたい。
じつは「米沢」を巡って因縁のある2人
「伊達政宗」と「直江兼続」。そもそも、彼らには、どのような接点があったのだろうか。
まず、2人は同じ「永禄(えいろく)」年間の生まれ。実際の年齢差は7歳で、直江兼続の方が年上なのだとか。ただ両者の立場はというと、伊達政宗の方が格上。政宗は大名であるが、兼続は、大名である上杉景勝(うえすぎかげかつ)の家老。つまり、景勝に仕える家臣という立場となる。
じつは、両者には、時の権力者に「駒」扱いされ、散々振り回されてきた過去がある。
伊達政宗はというと、これまでに幾度か豊臣秀吉に反旗を翻してきた。しかし、その都度、ギリギリのところで許してもらうウルトラGの大技を連発。ただ、だからといって、全てを見過ごす秀吉ではない。締めるところは、きっちりと締める。その役割となったのが、上杉家である。
天正18(1590)年、豊臣秀吉の奥州(東北地方)仕置。これまで勢力図を拡大してきた政宗にとっては、非常に厳しい措置であった。前年に手に入れた旧葦名(あしな)領の会津(福島県)は没収され、居城であった米沢(山形県)からも出されることに。
そして、慶長3(1598)年、その会津を与えられたのが、お隣の越後(新潟県)を領国としていた上杉景勝。これまで伊達政宗の監視役であった蒲生氏郷(がもううじさと)は享年40歳で死去。その役割を引き継いだ形となる。結果だけみれば、会津120万石の領主へと大幅加増であった。
それだけではない。
政宗の居城であった「米沢」。この米沢30万石を秀吉から与えられたのが。
そう、上杉家筆頭家老の、あの直江兼続であった。
こうして、豊臣政権時代には、五大老に加えられた上杉景勝、そして家老でありながら米沢30万石の領主となった直江兼続らが重用されることに。会津は関東と東北北部にとって、絶好の場所。関東には、同じ五大老の1人、徳川家康が。そして東北には、一筋縄ではいかない伊達政宗が。両者を牽制する役割が上杉家に与えられたのであった。
しかし、時代は急変。
上杉景勝が会津へ転封したのち、慶長3(1598)年8月、まさかの豊臣秀吉が死去。ここから勢力図は大きく変わることに。この機会に、次の天下人となるべく知恵を絞ったのが、徳川家康であった。
秀吉死後、私婚禁止に背いて、次々と有力大名と縁戚に。天下取りの土台を作った後で、同じ五大老の上杉景勝に上洛を要求。返答として、直江兼続がしたためたとされる書状が、あの有名な「直江状」である。奇しくも、上杉討伐の大義名分となり、天下分け目の戦いと称される「関ヶ原の戦い」のきっかけにもなった手紙だ。
この「関ヶ原の戦い」を経て、蓋を開ければ、天下人「徳川家康」の誕生。上杉家は会津120万石から米沢30万石へ減封。一方、伊達政宗も100万石のお墨付きは消え、旧領の米沢復活も叶わず。
そして、家康は。
秀吉と異なり、さらに策士ぶりを披露。
伊達政宗、上杉景勝。結果的には、両者がそれぞれの牽制役となったのである。
二重の意味で皮肉?直江兼続の鉄壁な返答
「米沢」を巡る伊達家、そして上杉家の思惑。
だからなのか。伊達政宗と直江兼続の間には、あまりいいエピソードはない。
時は、豊臣秀吉存命の頃。
天正大判(てんしょうおおばん)が作られていることから、天正16(1588)年以降であろう。聚楽第(じゅらくだい、秀吉が京都内野の大内裏跡に建てた邸宅)で諸大名が集まった時の話である。どうやら、兼続は上杉景勝の代理でその場にいたようだ。
偶然にも、同じ場に居合わせた伊達政宗。集まった大名らで話をしている最中に、政宗は懐より天正大判を取り出したというのだ。まあ、話の流れでそうなったのか。それとも、伊達者(だてもの)の政宗のこと。珍しいこの貨幣を、皆に見せようとしたのかもしれない。
この天正大判、通常の大判(貨幣)よりも大きく、出回ったばかりで大層珍しかったのだとか。秀吉の派手好みに合わせて、量目は44・1匁(もんめ)、ちょうど約165gほどの重さ。金の含有率は約74%。サイズは縦約15㎝と、あまり実用向きではなかったともいわれている。
その場に居合わせた大名らは、天正大判を手に取り、興味津々。まあ、なんせキラキラ好きは、女性だけとは限らない。男性陣も、天正大判の持つ美しさに魅了されていたという。ただ、なぜか兼続は、その輪に入らず。
これを見た政宗は気を遣う。大名の中で、家臣という立場の兼続の居場所がないと思ったのだろうか。親切にも、わざわざ声をかけて「これをみられよ」と天正大判を勧めたという。
そこで、取った兼続の行動はというと。
『名将言行録』ではこのように表現されている。
「彼は扇の上にその金銭を置いて、打ち返し打ち返し女子供が羽根つきでもするようにしてみていた」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)
つまり、扇の上に天正大判を置いて、素手では触らなかったというコト。
さて、あなたは、この兼続の行動をどのようにとらえるだろうか。
A:遠慮
B:迷惑
ちなみに、政宗はというと「A:遠慮」と思ったようだ。
その続きの兼続の行動が『名将言行録』には記されている。
「政宗が『気にせず手に取ってみられるがよい』といいも終わらぬうちに兼続は『わが主謙信のときから、先陣をうけたまわって下知し、麾(さい、ざいとも読む。軍を指図する旗のこと)を揮(ふる)ったこの手に、このように賤しいものを直接触れては汚れますゆえ、このように扇にのせたわけです』といって、金を政宗の方にぽいと投げて戻した」
(同上より一部抜粋)
この兼続の行動には、3点突っ込むところがある。
まず、政宗が言い終わらないうちに、言葉を重ねたこと。次に「賤(いや)しいもの」と表現したこと。そして、最後に天正大判を投げて戻したということ。特に「賤しい」には2つの意味が含まれていると解されている。お金の存在自体が賤しいという意味。また、伊達政宗が触ったから賤しいという意味。どちらにしても、ひどい言い草だ。
いや、もうアウトでしょうよ、これは。
確信犯の何者でもない。政宗は親切心で「A:遠慮」と解釈したようだが、じつは「B:迷惑」が正解。それにしても、大人げない直江兼続の態度はあまりにも目に余る。
しかし、逆をいえば、直江兼続はこの行動が許されるほどの実力者だともいえるのだ。それにしても、周りの大名らが凍りついたことはいうまでもないだろう。
伊達政宗に嫌味を言えるのは直江兼続だけ?
伊達政宗と直江兼続のやり取りは、さらに続く。今度は場所を江戸城に移して第2戦目。
時は、徳川政権の頃。
「大坂の陣」が終わったあとのこと。ちょうど登城のタイミングが同じだったのだろう。江戸城の廊下で伊達政宗と直江兼続がバッタリと出くわすことに。
一般的に、江戸城の廊下では、敵同士であっても目礼するのがマナー。まさしく江戸城は天下人である徳川家康の居城。何があっても事を荒立てず、穏便に済ませるのが最善の方法だといえる。
そんななか、またもや直江兼続の暴挙が炸裂。
当時、伊達家は60万石、それに対して上杉家は30万石。政宗は大名だが、兼続は家臣の身。そんな立場の違いを無視して、兼続は政宗とすれ違った際に、素通りしてしまったのである。
ま、待ていぃぃぃぃぃぃぃ(by政宗の胸のうち)
さすがの政宗も。これには「閉口」せず、面と向かって物申すことに。だって、両者は格が違うんだもの。政宗が怒るのも無理はない。
「何の挨拶もしないで通り過ぎるとは何事か、無礼者」
これに対して、兼続は今気づいたかのように「失礼いたしました」と詫びてから。なんと、正々堂々と言い訳をするのである。それが、コチラ。
「政宗公とは戦場では幾度もお目にかかっておりましたが、いつも(負けて逃げる)後ろ姿しか拝見したことがなかったため、一向に気がつきませんでした」
(松森敦史編『独眼竜の野望 伊達政宗の生きざま』より一部抜粋)
いや、コレもあかんでしょ。これで、直江兼続のツーアウト確定。
それにしても、痛烈な皮肉である。後ろ姿しか見たことがないって。皮肉というよりバカにしすぎというか。思いのほか、子どもじみた態度を取るのが信じられないくらいだ。両者の間には、未だ知られざる出来事があるのだろうか。それとも、ただ性格が合わないだけなのだろうか。「犬猿の仲」というよりは、直江兼続の方が一方的に攻撃しているという感じ。
そして、同時に1つの疑問が。
あれ、直江兼続ってこんな器の小さい男だっけ?
そもそも、直江兼続はそこまで人が悪いワケではない。
「関ヶ原の戦い」により、上杉家は30万石に減封。直江兼続は6万石を上杉景勝より賜ることに。じつは、兼続はそのうちの5万5000石を同輩部下に配分し、自身は5000石のみになったという。いかに、彼が同輩部下を大事にしているかが分かる。
兼続という人は、好き嫌いのはっきりした人物だったのだろう。多くの書籍には、伊達政宗の「伊達者」の気質が、質実剛健の直江兼続には合わなかったとも。確かに、性格的には合わない気がしないでもない。
しかし、それならば。
直江兼続の人物相関図に矛盾が生じることに。
というのも、じつは、兼続の親交のあった人たちの中に、前田慶次(けいじ、慶次郎とも)の存在が。彼は、織田信長の重臣である滝川一益(たきがわかずます)の甥として生まれ、のちに、前田利久(としひさ、前田利家の兄)の養子に。結果的に前田利家の甥となる人物である。世間では、非常に傾奇者(かぶきもの、逸脱した行為を好んで行い目立つ振る舞いをする者)として知られ、奇行も目立ったという。
目立つ振る舞いは、伊達政宗と同じ。それでも、直江兼続は、そんな前田慶次と仲が良かったというのだ。
だとすれば。
兼続は、決して伊達者が嫌いなワケではない。というより、好きなのかも。いや、もっと突き詰めて考えれば。格が違いながらあれほど大胆に嫌がらせをする。逆の見方をすれば、直江兼続は、伊達政宗の性格を読み、絶対に衝突はしないという自信、いや、確信があったのかもしれない。
いうなれば、一種の甘え。
政宗なら受け止めてくれるだろう、流してくれるだろうという「甘え」だったのではないか。
嫌いも回りに回って好きとなることも。
好きな女の子にちょっとした嫌がらせをする小学生の男の子みたいなものか。
少し無理がある……のか。この解釈。
さて、あなたならどう解釈する?
参考文献
『独眼竜の野望 伊達政宗の生きざま』 松森敦史編 晋遊舎 2013年12月
『名将言行録』 岡谷繁実著 講談社 2019年8月
『1人で100人分の成果を出す軍師の戦略』 皆木和義著 クロスメディア・パブリッシング 2014年4月
『戦国武将 逸話の謎と真相』 川口素生著 株式会社学習研究社 2007年8月
『戦国武将の都市伝説』 並木伸一郎著 株式会社経済界 2010年12月