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2020.07.17

源頼朝と北条政子だけじゃない!三浦胤義が承久の乱で見せた妻への深い愛情とは?

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「頼朝様の御恩は山より高く、海より深い」

承久の乱前夜、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権、北条義時の追討命令を、鎌倉の御家人たちに発布しました。

しかし北条政子が「鎌倉の武士たちが今このような暮らしができるのは、鎌倉幕府のおかげだ」という演説をして、鎌倉御家人の決起を促し、鎌倉幕府の危機を救ったという話は、あまりにも有名です。

源頼朝と北条政子の「夫婦愛」として現代まで語り継がれるエピソードですが……もう一つ、承久の乱には「夫婦愛」の物語があります。

妻の為なら命など惜しくないと言い切った武士

承久の乱は、あまり「史料」が残されていません。それは、中世の史料となる公家の日記が、承久の乱の部分がことごとく抜け落ちているからです。残しておくと都合が悪いような事が書かれていたのでしょうか。

承久の乱の詳細は軍記物語である『承久記」に依るところが多く、中でも最古形態と言われる『慈光寺本(じこうじぼん)承久記』は実際の動きに近いのではないかと言われています。

それによると、朝廷では鎌倉幕府に対する不満がふつふつと募っていく中、後鳥羽上皇はいよいよ「北条義時を討ち取るにはどうしたら良いか」という会議をします。そこで、京の軍事を預かるエリート武士・藤原秀康(ふじわら ひでやす)にどうすればいいのかと尋ねました。

秀康は、幕府の重鎮の同母弟で、武芸の達人である三浦胤義(みうら たねよし)が京にいるので、引き込むことを提案します。

ある夜、秀康は胤義を屋敷に呼んで酒を飲みながら訪ねました。

「何故、君は京に来たんだい?」

すると胤義はこう答えました。

「オレの妻は誰だと思う? 鎌倉一の美女と言われた一品房昌寛(いっぽんぼう しょうかん)の娘だぞ!

今は亡き(2代目将軍)頼家様の妻で、若君を一人もうけたのだ。しかし頼家様は北条時政に殺され、若君は時政の子義時に殺された。オレと結婚した後も日夜泣いて暮らしているのが可哀想なのだ。

『男の身なら、出家して仏を唱え弔う事ができるのに、女の身なのでそれもできない』と涙を流すのを見て、胸がしめつけられる。

全世界中に敷き詰められた黄金でも命には代えられない。何よりも惜しいのは人の命。しかし深く切れぬ宿縁の妻と出会えたのなら惜しい命も惜しくない。

だからオレは都に移住し、後鳥羽上皇の元で謀反を起こし、鎌倉に向かって矢を放って、自分と妻の心を晴らそうと思った。

というわけで軍議をしろ。今すぐしろ。とっととしろ。グズグズしてると討てるもんも討てなくなるから、さぁ早く!」

読んで解る通り、9割方ノロケ話です。

妻に書いた手紙や妻と仲睦まじい様子が記録に残っている公家や武士は数多かれど、妻のいない所で、職場の上司とのサシ飲みの席で延々とノロケ話をする武士が後にも先にもいるでしょうか。

愛を伝える5つの方法

三浦胤義夫婦の馴れ初め

三浦胤義は、先祖代々源氏に仕える「三浦一族」の武士です。初代将軍・源頼朝の猶子(ゆうし=自分の子並みに後ろ盾となること)でした。

生年はわかりませんが、建仁3(1203年)年の「比企能員(ひき よしかず)の変」には名前が無く、元久2(1205)年に初めて登場するので、その間に元服したものと考えられます。

一方、妻である一品房昌寛の娘は生年どころか名前も伝わっていません。しかし、父である一品房昌寛は、頼朝の祐筆(ゆうひつ=秘書)として、源平合戦時にも従軍していた僧侶です。

一品房昌寛の娘は、頼家の妻の1人でした。資料によっては、男児を2人産んだとありますが、承久記によれば1人です。

建仁3(1203年)年の比企能員の変で頼家は追放され、彼女は元服したばかりの胤義の妻となったと考えられます。

当時は上司から妻を譲られる事は、部下にとって最高レベルの栄誉でした。妻視点で見るとドラマや小説では「女は道具扱いだ」と言われがちですが、このことは妻にとっても「お得なチャンス」となります。

なぜなら、元夫の妻のままでは良くて側室止まりだった地位でも、再婚先では正室ポジションが確約されているからです。当時の「家」は「ファミリー」ではなく「カンパニー」だと考えると、これ以上ないキャリアアップではないでしょうか。

とはいっても、彼女の場合は円満な離婚ではなく、夫が政争に敗れて追放されて、無理矢理引き離されたのです。しかも夫はその後、北条氏によって暗殺されてしまいました。

新しい夫のもと、どんな心境で暮らしていたのでしょう。

さらに襲う悲劇!

それから16年経ちました。彼女と頼家の子は出家して仁和寺の僧となり、「禅暁(ぜんぎょう)」と名乗りました。胤義との間にも3人の男児が生まれ、すくすくと成長します。前夫を亡くした悲しみも癒えてきたことでしょう。

しかし、建保7(1219)年1月27日、3代目将軍・実朝が暗殺されます。実行犯は禅暁の異母兄の公暁(くぎょう/こうきょう)です。そして禅暁はその関与を疑われ、承久2年4月14日、北条氏によって暗殺されてしまいました。

前夫との忘れ形見でもある我が子を、「疑わしい」という理由で殺されてしまった母。想像するだけで辛すぎる!

しかも、前夫を殺した男の息子が、我が子を殺したとあれば、「復讐」という気持ちに傾いてしまうのも、誰が咎められるでしょうか。

二重線:婚姻 赤線:暗殺

毎日泣いて暮らす最愛の妻を見かねて、胤義も北条氏に弓を引く決意をします。そんな時に、始めに紹介した酒宴があったのです。

承久の乱勃発!

酒に酔っ払って盛大にノロケながら、「北条倒したいなら早く軍議をしろ、今すぐしろ、とっととやれ」と半ギレ気味に急かす胤義に圧倒されたのか、朝廷は急いで軍議を開きます。

北条氏の縁者である在京御家人・伊賀光李(いが みつすえ)を討伐し、ついに北条義時討伐の院宣を発布します。同時に胤義は三浦の長である兄に向けて手紙を送りました。

それはこんな内容です。

『俺は都に上り、後鳥羽上皇に従い謀反を起こしました。そして鎌倉に向けて矢を射るためそちらへ向かいます。すると、義時は反撃するでしょう。

兄上は義時と一心同体だから、三浦に残して来た3人の子(側室の子)らの首を、義時の前で斬ることになるでしょう。そうするのなら、どうぞそうしてください。

そしてあなたと義時は一見、仲が良いように振舞っていて下さい。諸国の武士が都に登ろうとしてもあなたは上らず、三浦一族を率いて義時を討ってください。そうすればこの俺も三人の子に先立たれた代わりに、あなたと一緒に日本国を治めるでしょう』

胤義の兄で、三浦一族の長である三浦義村(みうら よしむら)は、北条義時の最大の協力者です。

一説には、朝廷は胤義を通じて義村を朝廷方に引き込もうとしたと言われています。

しかし義村はこの手紙を受け取るとすぐに義時の元に手紙を見せて、集まった御家人たちの前で「こんな誘いには乗らない」と宣言します。

この手紙は、朝廷の甘言を真に受けて兄を勧誘し失敗したと断言され、胤義は楽観的で馬鹿な弟扱いされているのをよく見かけます。

だけど私は、それを疑問に思うのです。

当時の手紙は現代のように個人と個人のプライベートなやりとりには、絶対になりません。ビジネスにおける「BCCメール」のようなもので、誰かに見られる事を想定して書くものです。

だから、手紙に書かれていることは基本「建前」であると私は考えます。

その上、胤義は兄の背中を一番近くで、一番長い間見ていたのですから、手紙を受け取った兄がどう動くか予想がつかないわけがないと思うのです。

何か、裏があるはず。それを読み解く前に、その後の出来事を紹介しましょう。

最期に一目、妻子に会いたい!

承久の乱は、前代未聞の朝廷への武力蜂起です。朝廷側も、鎌倉側も、「天皇や上皇には勝てない」と思っていたのですが、蓋を開けてみれば鎌倉側の圧勝でした。

三浦胤義は、最期まで戦おうとして、数少ない精鋭たちと東寺に立てこもります。そして兄の義村に対して一騎打ちを所望しました。

「三浦義村はいるか! 我をば誰かとご覧ずる! 平九郎判官胤義なり! 鎌倉に仕えて、世渡りすべきであったはずが、あんたを恨んで、悔しさのあまり京都に移り住み、後鳥羽上皇に仕えて謀反を起こしてやった! あんたを頼って、相談の手紙を出したのが間違いだった。でもあんたに人間らしい心が残ってるんなら、あんたの目の前で自害してやろうと思ってやって来た!」

と、激しくまくし立てます。

しかし、兄の義村はそれを聞いて、「馬鹿者の相手をするのは無駄だ」と言って引っ込んでしまいました。

胤義は「一目だけでも妻子に会いたい」と願い、太秦(うずまさ)にある木嶋(このしま)神社に身を隠します。しかし、もうすでに胤義の屋敷は鎌倉軍に包囲されていました。

京都府京都市右京区太秦森ケ東町50−1 木嶋坐天照御魂神社 (蚕ノ社)

胤義は妻子を想い、形見となる髪を切り落とし、郎党に託しました。そして兄にはこんな言葉を残して自害します、

「実の弟を裏切った事、後世でなんと言われるのだろうなぁ。逆に同情するよ」

郎党は胤義の首をしっかりと抱いて、妻の待つ家へと向かいました。前夫と我が子を殺され、そして現夫と、その長男・次男を戦で亡くしてしまった悲劇の美女……その後はどうなったのか、歴史上には記録がありません。

しかし、胤義との子である3男と、幼い娘はその後の記録に出てきています。しかも、手紙に書かれた側室の子3人も健在です。謀反人の家族は、幼い子どもまで処罰されるのが普通の時代。なぜ胤義の子は生き残っていたのでしょう。

それをひも解くのが、私が感じた「手紙の矛盾点」です。

手紙の矛盾点

私は胤義が兄に宛てた手紙を「建前だ」と感じるのは、2つの矛盾を感じるからです。

『兄上は義時と一心同体だから、三浦に残して来た3人子らの首を、義時の前で斬ることになるでしょう。そうするのなら、どうぞそうしてください。そしてあなたと義時は一見、仲が良いように振舞っていて下さい』

まず、胤義の正室は、先述した元頼家様の側室だった「一品坊昌寛の娘」で、彼女とその息子たちと共に京に移住しています。「三浦に残して来た」のは側室の子です。

胤義は髪を切り落として分けて、その一部を「三浦にいる子どもたちに」と渡しています。さらに最後に木嶋神社へ向かったのは「妻と幼子に会いたいから」です。

胤義は子どもたちを愛している事が伺えるエピソードがありながら、それを「どうぞ斬ってください」と言っています。これが私が感じる矛盾の一つです。

そして、手紙に関するもう一つの矛盾は、胤義が東寺で兄の義村と一騎打ちを所望して、まくし立てた言葉です。

「あんたを恨んで、京都に移り住んだ」と言っておきながら「あんたを頼って、相談の手紙を出した」とも言っています。

恨んだ相手を頼る? もしかして本当は裏で繋がっていたのに、仲が悪いふりをしていたのか? そして義村は土壇場になって実の弟を裏切ったのか?

胤義の狙いは、こういった疑念を「周囲に持たせること」じゃないでしょうか。

これらを踏まえ、もう一度胤義の手紙を読み返してみてください。

私は、胤義の手紙の真意は「俺の子を殺したら、あんたが義時を討つと噂になるぞ」という心理的駆け引きだったんじゃないかなぁ、と思っています。

そして義村が胤義に一騎打ちを吹っ掛けられた時。「あんたの手にかかろうとやってきた」と言われたその瞬間、義村はその真意に気づくんですよ。

「馬鹿者の相手をするのは無駄だ」

そう、胤義は馬鹿です。我が子を生かすために最後の最後になって兄に対して心理戦を仕掛けるんです。

ここで義村が誘いに応じて胤義を殺したら?
「あんたを頼りにしてたのに! 裏切者!」と大声で叫ぶ弟を殺したら?

周りにいる人々は手紙の内容を思い出しながら「あぁ、こいつ実の弟裏切った上に殺したよ」と、思うのではないでしょうか。

義村は胤義の真意に気づいたので、胤義を殺す事はどうにか回避しました。しかしこの瞬間から、胤義の子を守らねばいけなくなりました。

でないと、この戦に勝ったとしても「北条に従って胤義の子を殺した。ということは手紙の通りに義村は義時を裏切るぞ」と言われるでしょう。

もちろん、胤義は既に死んでます。けれどその地位を脅かすには「噂一つ」で十分です。「噂一つ」で謀反の疑いをかけ、御家人や将軍の息子たちすら排除してきたのは義時・義村たちなのですから。

そしてこの手紙の内容を公開したのは外ならぬ義村です。義村は「そうしなければいけなかった」。北条義時に味方するのなら、あの手紙を公開して、身の潔白を証明するしかない。そしてその瞬間から胤義の子の生存は確定しました。

胤義は、義村が一騎打ちに応じなかった事で、兄が自分の真意に気づいた事を悟り、子らの生存を確信します。

義時だって、気づいたはずです。それはもしかしたら「胤義の子を斬れ」と言いかけた瞬間かもしれません。その瞬間の表情を義村はどう見たでしょう。

仇に味方する兄を矢にして、憎い義時に一矢報いたと思ったら――最高にエモくないですか?(註:個人の妄想です)

歴史の中に埋もれた夫婦の物語

歴史とは勝者が紡ぐもの。敗者の物語はその断片的なことしかわからないのが世の常です。

三浦胤義の夫婦の物語は、数多くの勝者の物語の中に埋もれています。
胤義が最期に目指した最愛の妻の待つ家は、太秦のどこにあるのか今はもう知る由もありません。

胤義が自害した木嶋神社も現在は区画整理のため、かつての姿は失われています。

『都名所図会 巻之四』 本殿の近くにある「鎮魂社」が三浦胤義を祀る神社と言われていますが、現在は合祀された末社になっていて、神主もどこの社に祀っているのかわからないそうです

学術的にも、あまり注目される人物ではないので、どんな人物だったかは想像の域を超えないです。

でもだからこそ、広い世の中に1人ぐらいは「胤義は、妻の無念を晴らす為に戦い、妻子を守るために『朝廷の甘言に惑わされた馬鹿な男』というレッテルを甘んじて受けた」と考える人がいたってかまわないですよね!

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1. 伊豆の若武者「北条義時」(小栗旬)
2. 義時の父「北条時政」(坂東彌十郎)
3. 御家人筆頭「梶原景時」(中村獅童)
4. 頼朝の側近「比企能員」(佐藤二朗)
5. 頼朝の従者「安達盛長」(野添義弘)
6. 鎌倉幕府 軍事長官「和田義盛」(横田栄司)
7. 鎌倉幕府 行政長官「大江広元」(栗原英雄)
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10. 朝廷・坂東の事情通「中原親能」(川島潤哉)
11. 頼朝の親戚「二階堂行政」(野仲イサオ)
12. 文武両道「足立遠元」(大野泰広)
13. 下野国の名門武士「八田知家」(市原隼人)