日本文化の入り口マガジン和樂web
10月26日(火)
人が通ったところに道ができる。(カフカ)
日本文化の入り口マガジン 和樂web
日本文化の入り口マガジン 和樂web
10月25日(月)

人が通ったところに道ができる。(カフカ)

読み物
Culture
2020.10.19

まさかのオウンゴール?難攻不落の大坂城が落とされた原因は、豊臣秀吉のせいだった?!

この記事を書いた人

世の中には、難攻不落の城といわれるものがある。

かつて豊臣秀吉が攻めた「小田原城」もその一つ。じつは、この小田原城、これまでにも多くの武将が攻略しようと躍起になっていた。

永禄4(1561)年、越後の龍といわれる「上杉謙信」に攻められるも、落城せず。のちに永禄12(1569)年。今度は、甲斐の虎こと「武田信玄」にも攻められているが、この時も、やはり落城していない。

そんな小田原城を、秀吉は圧倒的な大軍で無血開城へと導く。だからこそ、秀吉は「落城の達人」ともいわれるのだろう。城攻めの手法はバラエティーに富んでいて。どちらかというと、正面切ってのパワー押しというよりは、時間をかけ知略で相手から開城させる手法を好む。

そんな城攻めの達人が築城した城、それが、かの「大坂城」である。

こちらも、難攻不落の城と呼び声高い名城だったのだが。徳川方との戦いである2回の「大坂の陣」にて、慶長20(1615)年にあえなく落城。この裏には、かつて秀吉が生前に語っていた「大坂城自慢」がヒントになったのだとか。

今回は、そんな大坂城落城の秘密を探っていきたい。

※冒頭の画像は、三島霜川著 『太閤秀吉』 出典:国立国会図書館デジタルコレクションとなります

秀吉が「大坂」にこだわった理由とは?

じつは、現在の大阪城は豊臣秀吉が築いたものではない。

残念ながら、あれほど栄華を誇っていた秀吉も、死後までは睨みをきかせることができなかったらしい。遺児の秀頼(ひでより)がいるものの、豊臣政権は続くことがなく。天下人に取って変わったのは、五大老の1人である徳川家康。

では、大坂城はというと。
徳川方と豊臣方が戦った慶長20(1615)年の「大坂夏の陣」にて、火を放たれて落城。それは、さながら豊臣家滅亡の象徴でもあった。

その後、徳川方はなんともご無体なことをやってのける。
豊臣秀吉が自慢した大坂城は、そもそも焼け落ちて無残な形に。それを、最初からなかったかのように、城跡を破壊。さらに、西国64藩に命じて盛り土を行ったという。その期間が10ヶ月というから、まあまあな土の量だと予測できる。結果、秀吉の大坂城の残骸は、遺跡の如く、地中深くへと眠ってしまったのである。

こうして、徳川方は、同じ場所に新たに城を築く。さも、豊臣秀吉の大坂城を打ち消すべく。それが現在の大阪城である。

大阪市大觀. 大正14年5月 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

さて。
それでは、豊臣秀吉が築城した最初の大坂城へと、話を戻そう。

秀吉が築城したのは、意外にも早かった。何が早いのかというと、未だ天下を取る前、天正11(1583)年9月に工事に着工しているのだ。どうやら、将来の天下人たる自分を見据えて、巨大な城の完成を目指したといえる。

ちなみに、天正11年9月とは。
主君である織田信長が、天下取り直前で自刃した「本能寺の変」。この謀反のちょうど1年3か月後くらいだろうか。世は戦国時代半ばで、天下人のイスはまさかの空席。このタイミングで、天下取りレースに頭1つだけ飛び出していたのが、豊臣秀吉であった。

秀吉は、主君の弔い合戦と称して、「山崎の合戦」で謀反人の明智光秀を討ち、さらには、織田家筆頭家老の柴田勝家をも「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」で破る。この戦いが終わったのが、天正11(1583)年4月のこと。

未だ、織田信長の次男・信雄(のぶかつ)や三男・信孝(のぶたか)らは健在。一方、織田信長と一時期同盟を結んでいた徳川家康も力をつけつつある状況だ。信雄と家康の連合軍と対峙する「小牧・長久手の戦い」は天正12(1584)年3月より始まる。その前の段階で、秀吉は「大坂城」の築城へ踏み切ったのである。

大蘇芳年 『皇国二十四功 羽柴筑前守秀吉』 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

はて?
秀吉には、城がなかったのか?

否。
秀吉は、既に長浜(滋賀県)や姫路(兵庫県)などに城を持っていたはずだ。それにもかかわらず、大坂城を築くとは。一体いかなる理由があるのか。

これは、亡き主君である信長の遺志が関係する。
じつは、かねてより信長は、この「大坂の地」をずっと狙っていたのである。

もともと、大坂城の場所は更地ではない。ある有名な寺があったのだ。その寺とは、信長が10年もの間、長期戦に臨まなければならなかった相手方。「石山本願寺(いしやまほんがんじ)」である。

信長からすれば、この本願寺勢力との戦い「石山合戦」は、思いの外、長期戦となったようだ。和睦しては挙兵を繰り返す本願寺勢力相手に、なかなか決着がつかず。最終的には、朝廷が間に入って和睦が成立することに。

こうして、天正8(1580)年4月、本願寺勢力のトップである「顕如(けんにょ)」が大坂を離れる。未だ抵抗していた勢力も含めて、大坂の地の明け渡しの完了は、同年8月。

ようやく「大坂の地」を手に入れたのもつかの間。信長は天正10(1582)年6月に自刃。その遺志を受け継ぐ形で、秀吉は大坂に城を築城したのだろう。

ちなみに、「大坂」という地を選んだ理由だが。
信長の家臣・「太田牛一(おおたぎゅういち)」が記した『信長公記』から、その詳細が分かる。一部を抜粋しよう。

「そもそも大坂は、日本一の土地である。その理由は、奈良・堺・京都に近く、特に鳥羽・淀から大坂の町口まで船の交通が直結しており、同時に四方が自然の要害となっている。…(中略)…西は、広々とした海で、日本の各地は無論、唐土・高麗・南蛮の船が出入りする。五畿七道の産物が集まって売買され、その利潤で潤う経済力豊かな町である」
(太田牛一著『信長公記』より一部抜粋)

さすがに、信長が目をつけただけのことはある。現在も、日本の中枢を東京と担うような大都市へと発展した大阪。この場所に、是非とも城を築きたい。そんな信長の思いを実現すべく、着工を決意したのである。

落城は、つい大坂城を自慢しちゃった秀吉のせい?

大坂城がほぼ完成したのは、翌年の天正13(1585)年のこと。工事のスピードは速く、なんなら着工してから2か月後には、天守台の石垣も築かれていたほど。そのままの勢いで、大坂城は見事な名城として完成。広大な城下町も築かれ、経済的にも大きく飛躍した。

しかし、である。
そんな大坂城も、徳川方との戦いである「大坂の陣」で滅びることに。

あれ?
大坂って、信長が「自然の要害」と、目を付けた立地じゃなかったか。秀吉が築城した大坂城は、難攻不落の城と名高かったはず。それが、どうして、結果的に、徳川方に落とされることとなったのか。

どうやら、その裏には、ちょっとした太閤(豊臣秀吉のこと)の失態があったようだ。

じつは、家康が天下に名高い「大坂城」を攻め落としたと、その知恵を感心したところ。まさかの家康本人から、意外な答えが返ってきたという。『名将言行録』には、このような記述がある。

「これはわしの知恵ではない。太閤が教えて下さったものだ。これは太閤が大坂の城をつくられたとき、『この城を攻めるには力業では成功しまい。調停を使って、二度目でなければ攻略できまいと思われる城だ』と語られたことがあった。これは特にわしに教えられたのではない。世間の人で聞かぬ者はなかったのだが、これに心をとめなかっただけのことだ」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)

まさかの秀吉……。
オウンゴールかよ。
そう、突っ込みたくなる内容である。

芳年 『月百姿 しつか嶽月 秀吉』 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

さて、実際のところ、落城までの経緯はというと。
確かに、秀吉のヒントの通り、家康は調停を間に挟む2度の攻撃で豊臣方を撃破、大坂城の落城に成功している。

まずは1度目の戦いである。
慶長19(1614)年12月。豊臣方と徳川方が激突した「大坂冬の陣」。難攻不落の城であったから、豊臣方は、城に籠ってやり過ごす「籠城戦」を選択。

ただ、豊臣秀頼に馳せ参じた「真田信繁(さなだのぶしげ、幸村)」は、大坂城の平野口付近が弱点と見抜き、そこに出城(でじろ)を築く。これが、あの「真田丸(さなだまる)」である。外の堀は6~8メートルの深さで、積まれた土塁は9メートルほどだったとか。

真田丸の正面には加賀藩(石川県)の前田利常(としつね)率いる1万2,000の軍勢が布陣していたという。ただ、前田方は真田隊の挑発に乗り、あろうことか軍令違反の「先駆け」を行う始末。統率が取れず、自滅のような結果となってしまったようだ。これは『大坂冬御陣後御不審御尋之事』などの資料にも記録されている。

この真田隊の勝利は、徳川方にも大きな痛手を与えることに。そこで、家康は考えた。このままでは埒が明かないと。こうして、圧倒的な兵力差を誇る徳川方だったが、和睦を望むことに。

家康の思惑通り、豊臣方と徳川方の間で、一時停戦と和睦が成立。

この和睦の条件として注目されるのが、散々苦しめた「真田丸」の破却。さらには、大坂城の総構(そうがまえ、城の周囲に築いた囲いのこと)や二の丸、三の丸の破却、外堀などの埋め立てなどの条件である。大坂城をただの裸城にするような内容が盛り込まれていたという。

つまり、言い換えれば。
これらの和睦の条件が揃えば、大坂城は、もはや、秀吉が自慢した「難攻不落の城」とはいえないというコト。本丸だけ残すとは。恐ろしいにもほどがある。

結果的に、秀吉の大坂城自慢は、ただの城攻めの助言となることに。家康は、そのアドバイス通りの手筈で、少しずつ大坂城落城に向けての包囲網を進める。破却や埋め立てが粛々と行われたのであった。

徳川治績年間紀事「初代安国院殿家康公」 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

慶長20(1615)年4月、2度目の戦いとなる「大坂夏の陣」。大坂城は何の脅威もない裸城へと姿を変え、予想通り、持ちこたえることができず。秀吉の遺児である秀頼や淀殿は自刃(諸説あり)。豊臣方の滅亡と共に、大坂城も落城という結末を迎えてしまうのである。

最後に。
後世に伝わる話では、大坂城の堀の埋め立ての際に、徳川方の謀略があったとも。

もともと当初の和睦の条件は外堀を埋めるだけ。それが、あれよあれよと勝手に徳川方が作業を進め、気付けば内堀の二の丸や三の丸を埋め立てられていたというもの。

慌てて豊臣方が抗議したものの、徳川方、具体的には知略に長けた家康の側近・本多正信(ほんだまさのぶ)が、勘違いしちゃった。てへぺろ的な感じで受け流したとか。

ただ、残された資料からは、どうも徳川方の謀略はみられない。『大阪陣日記』や『本光国師日記』などによれば、もともとの和睦の条件自体が「本丸」のみを残すこととなっていたようだ。つまり、二の丸や三の丸を埋め立てることには徳川方も同意していたという。

細川忠興(ほそかわただおき)の三男で、初代熊本藩主の「細川忠利(ただとし)」の書状からも、同じ内容が確認できる。この書状では、埋め立ての役割分担がなされただけと記されている。「総構」は徳川方で取り壊し、「二の丸」や「三の丸」は豊臣方が取り壊すというコト。

結論からいえば、徳川方の謀略という内容は、どうやら後世に脚色された可能性が高い。

どちらにしろ。
天下の名声を欲しいままにした「大坂城」は、既に落城。豊臣方も滅亡。時代は徳川政権へと完全に移行する。豊臣恩顧の大名が多かったことを思えば、やりようによっては、豊臣家の存続もあっただろうに。

こうなると、やはり。
秀吉の大坂城自慢が悔やまれる。もし、本当に、不必要な城攻めのアドバイスとなったのなら。大坂城落城を招いた元凶ともいえるだろう。

幼き頃、よく母に言われた言葉を思い出す。

「口は禍のもと」

是非とも、豊臣秀吉にも教えてあげたい。

▼2021年のカレンダーにおすすめ!

参考文献
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『ここまでわかった!大坂の陣と豊臣秀頼』歴史読本編集部編 株式会社角川2015年8月
『秀頼脱出 豊臣秀頼は九州で生存した』 前川和彦著 国書刊行会 1997年12月
『日本の城の謎 築城編』 井上宗和著 祥伝社 2019年8月
時空旅人『大坂冬の陣 夏の陣400年』 栗原紀行編 株式会社三栄書房 2015年1月
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。