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2020.12.25

「自分の死に場所は自分で決める!」数万の軍勢を足止めした武士鏡久綱

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鎌倉時代、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して兵を差し向けた「承久の乱」。鎌倉幕府はそれに対して決死の反撃をし、みごと朝廷軍を打ち破りました。あまりにもアッサリと幕府軍が勝ってしまったので、朝廷軍の中に大した武士がいなかったのだろうと思われがちです。

実際に、朝廷側の武士や公家に戦経験がある人は少なく、総大将の藤原秀康(ふじわら ひでやす)に至っては、数千・数万単位の武士を率いるのは承久の乱が初めてという有様でした。

けれど、1つ1つの戦場を『吾妻鏡』や『承久記』などを詳しく読んでみると、朝廷軍にも素晴らしい活躍をした武士が多くいた事がわかります。その1人が鏡久綱(かがみ ひさつな)です。

鏡久綱ってどんな人?

鏡久綱の半生については、全くと言って良いほどわかっていません。どんな人生を送った人物なのか、文献に残っていないからです。

ただ、『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』という14世紀頃の家系図に、出自が少し記載されています。それによると、鎌倉御家人「佐々木四兄弟」の長男、佐々木定綱(さだつな)の孫で、近江国の荘園、鏡荘を領有したことから鏡氏を名乗りました。生まれた年は分かりませんが、祖父の定綱の年齢から考えると、承久の乱当時はアラフォーぐらいかな? という感じです。

滋賀県蒲生(がもう)郡には現在も鏡(かがみ)という地名が残っています。伝承では鏡久綱は、鏡山に城を建てて住んでいました。ちなみに鏡は源義経が鞍馬山を抜け出して奥州に向かう際に、自ら髷を結って烏帽子を被り、セルフ元服の儀をした地として知られています。

鏡久綱がなぜ朝廷軍に従軍していたかは不明ですが、彼の伯父にあたる佐々木広綱が、後鳥羽院直属の私兵「西面武士(さいめんの ぶし)」ですので、同族の彼も西面武士だったのかもしれません。

承久の乱での活躍

鏡久綱が登場するのは、承久の乱の木曽川の戦いです。彼は朝廷軍・幕府軍の総大将同士が睨み合う、大豆戸渡(まめどの わたし)にいました。

しかし幕府軍の猛攻により、朝廷軍は撤退する事となります。ここで鏡久綱は自らここに残り、足止めする事を志願しました。その様子は『吾妻鏡』の承久3(1221)年6月6日条に詳しく書かれています。

それによると、鏡久綱は旗に自らの名前を書き、立て並べて幕府軍に立ちはだかりました。朝廷軍1万騎に対して幕府軍は19万騎! ……と言われてますが、これは誇張された数字で、実際は10分の1ぐらいだろうと考えられています。

しかしそれでも10倍ぐらいの規模の敵を一手に引き受ける事となります。並大抵の覚悟ではない事は明らかです。鏡久綱は激しく戦いました。しかしゲームのように多勢に無勢で無双するのは、現実ではなかなかできないものです。

鏡久綱は負けを悟ると「臆病者の総大将、藤原秀康の下につかされたので、思うように戦えなかった」と嘆き、自害しました。この最期は幕府軍も敵ながらあっぱれと称えたのでしょう。無名だった彼の名は『吾妻鏡』に記録され、現代まで残っています。

死して名を残す武士たち

「命を惜しむな、名こそ惜しめよ」とは、坂東武者の倫理観を示す言葉と言われています。「無様に逃げて無名のまま生き延びるより、名を後世に残すような事を成して死ぬ」という事です。感性は人それぞれですが、覚悟を決めた武士たちの死に様に、感銘を受ける人も少なくはないと思います。私もその1人です。

私は幼い頃、歴史上人物の生涯を紹介するTV番組を見て、「人は必ず死ぬ」という事を感覚として理解したような気がします。TV番組で紹介された人たちは、死んでしまった後も人々に覚えてもらえている。この世に生きた証が残っている。私は死んだ後に自分がこの時代、この場所で生きていた証拠を残せるのか……。そのTV番組を見た後は、布団の中で毎週そんな事を考えていました。

もしも鏡久綱が、あの時、何千・何万騎の敵兵を前にして留まる事を選ばなければ、もしも自らの名を書いた旗を立てなければ……彼は幕府軍の記録である『吾妻鏡』に名前が残らなかったかもしれません。もしかしたら『尊卑分脈』にも、ただの「男」としてしか載らなかったかもしれないし、「鏡城主」として鏡荘の人々に伝えられる事も無かったかもしれないです。

そうしたら、私はこの記事を書くこともできなかったし、読者であるあなたも、800年前に鏡久綱という武士が確かに生きていて、承久の乱という戦で死んでいった事を知る事はありませんでした。

大きな偉業を成し遂げた人物は、より多くの人に覚えていてもらえ、まさしく「歴史に名を残した」と誰もが認める事ができます。けれど彼のような「知る人ぞ知る」存在もまた「歴史に名を残した」のだと思うと、それを知っている自分が歴史の証言者になったように感じて、ちょっと誇らしくなってきますね。

アイキャッチ画像:菊池容斎『前賢故実 巻第8』鏡久綱(国会図書館デジタルコレクション)

書いた人

神奈川県横浜市出身。地元の歴史をなんとなく調べていたら、知らぬ間にドップリと沼に漬かっていた。一見ニッチに見えても魅力的な鎌倉の歴史と文化を広めたい。

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大学で源氏物語を専攻していた。が、この話をしても「へーそうなんだ」以上の会話が生まれたことはないので、わざわざ誰かに話すことはない。学生時代は茶道や華道、歌舞伎などの日本文化を楽しんでいたものの、子育てに追われる今残ったのは小さな茶箱のみ。旅行によく出かけ、好きな場所は海辺のリゾート地。

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