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Culture
2021.11.29

奥州と源氏の関係の発端「前九年の役」を3分で解説【鎌倉殿の13人】

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令和4(2022)年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』をもっと楽しむために、鎌倉時代より前の歴史を学ぼうのコーナー! 今回は東北地方の戦、「前九年の役(ぜんくねんのえき)」をわかりやすく解説しよう!

前回の「平忠常(たいらの ただつね)の乱」で、坂東(関東地方)は、源頼朝様のご先祖、頼信(よりのぶ)公によって平和が訪れた(ということにしておいてくれ)。それから約20年の時が流れた。

永承3(1048)年、源頼信公が亡くなり、河内源氏の家督が息子の頼義(よりよし)公に譲られた頃、東北地方に嵐が吹き荒れる!

蝦夷と俘囚

この頃の東北地方には、朝廷に従わない勢力である蝦夷(えみし)と呼ばれる者たちがいた。奈良時代から大和朝廷と戦い続けていたんだが、長い年月の間に蝦夷の中にも朝廷に従うものがでてきた。彼らを「俘囚(ふしゅう)」と呼ぶ。

鬼切部の戦い

その俘囚の中でも安倍一族が、東北地方で大きな勢力を誇っていた。けれど朝廷から派遣されてきた国司(こくし=地方行政官。現在の県知事のようなもの)とは折り合いが悪くてな。安倍氏は次第に朝廷への納税を怠るようになった。

そこで朝廷は、永承6(1051)年に陸奥国の国司(陸奥守)藤原登任(ふじわらの なりとう)に命じて、安倍氏を攻めた。その合戦場が鬼切部(おにきりべ)。現在の宮城県、鳴子温泉の鬼首(おにこうべ)だ。

結果は安倍氏の勝ち。藤原登任は東北から追い出されてしまった。そこで新しく陸奥国の国司に任命されたのが、源頼義公というわけだ!

頼義公登場!

最初、安倍氏は頼義公をもてなし、仲良くしていた。この頃の安倍氏の長は安倍頼良(あべの よりよし)という名だったのだが、頼義公と同じ名であることを憚って、頼時(よりとき)と改名したほどなのだ。

さすが平忠常の乱を話し合いで解決した頼信公のご子息であるな! しかし頼義公が任期を終える直前にイザコザが発生してしまった!

阿久利川事件

天喜4(1056)年2月。頼義公は安倍氏の所領である胆沢(いざわ)城から、国府の多賀(たが)城へ帰る途中、阿久利(あくり/あくと)川で野営をしていた。そこに頼義公の部下である藤原光貞(ふじわらの みつさだ)が何者かに襲われたという報告が入る。

運よく助かった光貞に犯人の心当たりを訪ねるとこう答えた。

「安倍頼時の長男・貞任(さだとう)が、私の妹を妻にしたいと願い出ていた。けれど俘囚になど嫁にやれんといって拒絶しました。それを恨んだのに違いありません」

う~ん。京から目線だなぁ……。オレたち坂東武者も京の連中には東夷(あずまえびす)と蔑まれた身。安倍頼時・貞任の肩を持ちたくなるが……。


頼義公は光貞の主張を鵜呑みにして、検証しないまま貞任を呼び出して処罰しようとした。当然、頼時は息子を守るため、出頭を拒絶。頼義公と安倍氏の仲は決裂してしまったのだ。

いろいろとキナ臭い事件だが、当時から陰謀論がささやかれていたらしい。

黄海の戦い

頼義公は、安倍氏の勢力だった津軽の俘囚を味方につけることに成功。これに慌てた安倍頼時は津軽に向かうが、攻撃を受けて討死してしまう。頼時の後を継いだ貞任との戦が激化する。

そして天喜5(1057)年の冬、黄海(きのみ=現・岩手県一関市藤沢町)での戦いが起こる。東北の冬の戦……。地の利がある安倍氏に軍配が上がったことは想像に難くないだろう。頼義公は案の定惨敗してしまった。

命からがら逃げ切った頼義公は、関東、東海、畿内の武士に呼びかけて、兵力増強をはかった。しかし康平5(1062)年の春。ついに頼義公の陸奥守としての任期が切れてしまい、戦の途中ではあるが京へと帰ることとなった。

頼義公再び

しかし頼義公には従っていた俘囚たちは、後任の陸奥守に従わなかった。「東北の内乱を終結させるんだ!」とやる気満々だったんだが、何もすることができずに京に返るハメになり、再び頼義公が陸奥守となる。

再び東北に戻ってきた頼義公は、いままで中立を保ってきた出羽国(秋田県)の俘囚の豪族、清原光頼(きよはら みつより)を味方につけた! 光頼は弟の武則(たけのり)を総大将として軍勢を頼義公に派遣した。これにより形勢は一気に逆転! 頼義公側の有利となる。

戦の終結

康平5(1062)年9月。安倍氏の拠点の城が陥落し、深手を負った安倍貞任は頼義公の前に引き出された。その時貞任は頼義公を一瞥し、何も言わずに息を引き取ったという。

他の安倍氏の一族も伊予や大宰府に流され、奥州の安倍一族は滅亡した。そして頼義公に協力した清原武則は鎮守府(ちんじゅふ)将軍という役職を与えられ、清原氏は東北地方の覇者として君臨する。

そして頼義公も陸奥守から伊予守となって京へと帰っていくのだった。

鎌倉の楯

前回の「平忠常の乱」でも紹介したが、この時、頼義公は「鎌倉の楯(たて)」と呼ばれる屋敷を貰っている。元々は平直方(たいらの なおかた)の屋敷だったが、娘婿である頼義公をとても気に入り、この鎌倉の楯を譲ったらしい。頼朝様が鎌倉に幕府を開いたのは、この先祖伝来の屋敷があったからなのだ。

ちなみに北条氏は平直方の子孫を自称しているが……。まぁ、「自称」であることで察してほしい。

その後の関東・東北

この戦では坂東武者の先祖たちも参戦していてな。頼義公の下で活躍した東国の武士の1人は、三浦半島に領地をもらい、三浦一族の先祖となった……とされている。

これで、東北地方に平和が訪れた……というわけではない!! この戦で活躍した者たちの子世代で、新たな火種が東北地方で勃発する!! というわけで、次回に続く!!

アイキャッチ画像:東京国立博物館蔵『前九年合戦絵巻』 「ColBase」をもとに作成

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「鎌倉殿の13人」13人って誰のこと? 人物一覧

「鎌倉殿」とは鎌倉幕府将軍のこと。「鎌倉殿の十三人」は、鎌倉幕府の二代将軍・源頼家を支えた十三人の御家人の物語です。和樂webによる各人物の解説記事はこちら!

1. 伊豆の若武者「北条義時」(小栗旬)
2. 義時の父「北条時政」(坂東彌十郎)
3. 御家人筆頭「梶原景時」(中村獅童)
4. 頼朝の側近「比企能員」(佐藤二朗)
5. 頼朝の従者「安達盛長」(野添義弘)
6. 鎌倉幕府 軍事長官「和田義盛」(横田栄司)
7. 鎌倉幕府 行政長官「大江広元」(栗原英雄)
8. 鎌倉幕府 司法長官「三善康信」(小林隆)
9. 三浦党の惣領「三浦義澄」(佐藤B作)
10. 朝廷・坂東の事情通「中原親能」(川島潤哉)
11. 頼朝の親戚「二階堂行政」(野仲イサオ)
12. 文武両道「足立遠元」(大野泰広)
13. 下野国の名門武士「八田知家」(市原隼人)

書いた人

承久の乱の時宮方で戦った鎌倉御家人・西面武士。妻は鎌倉一の美女。 いわゆる「歴史上人物なりきりbot」。 当事者目線の鎌倉初期をTwitterで語ったり、話題のゲームをしたり、マンガを読んだり、ご当地グルメに舌鼓を打ったり。 草葉の陰から現代文化を満喫中。