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2021.12.10

美少年率いる平家軍!『平家物語』富士川の戦いを解説

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教科書で読む『平家物語』をおさらいしてみましょう! まずは『富士川』。水鳥の羽音で逃げ出したというシーン、覚えている人も多いのではないでしょうか。源平合戦と呼ばれる一連の戦の1つ、富士川の戦いのシーンを紹介します!

背景

まずは富士川の戦いに至るまで。源頼朝は治承4(1180)年8月に、伊豆で打倒平家を掲げて挙兵しました。しかし思うように味方と合流できず、一度は平家に敗けてしまい、伊豆半島から房総半島に逃げました。

そこから陸路で先祖伝来の屋敷がある鎌倉に向かいます。途中で房総半島や武蔵国、相模国の武士たちを味方につけました。そして鎌倉で武士の都市作りを始めました。

平家の出陣

そんな中、頼朝が生き延びて鎌倉で都市づくりをしていると知った平家は、9月16日に軍勢を差し向けました。

総大将は、平清盛の孫である平維盛(たいらの これもり)です。数え年で13歳。容姿は絵でも文章でも表現できないほどの美しい少年です。

平家嫌いの九条兼実にすら、その美貌を褒められた維盛! 『ますらお(全8巻、続編あり)』は維盛が主人公のライバルとして登場する漫画です。


ますらお 秘本義経記(1) (少年サンデーコミックススペシャル)

副大将は、平忠度(たいらの ただのり)。平清盛の弟です。武人として優れているだけでなく、歌人としても有名で、自選和歌集の『平忠度朝臣 (あそん) 集』を作ったほどです。

平忠度は、劇中で非常に美しい和歌が詠まれる能『忠度』の主役。そして、こんな言葉まで……。クイズ!「薩摩守」ってなに?ヒントはかっこ悪いあの行動!

一行は決死の覚悟で東へと進みます。特に生まれも育ちもお坊ちゃんな維盛にとっては何日も野宿するなんて、初めての経験でしょう。大変な思いをしながら10月16日に富士川に辿り着きました。といっても7万騎の大軍だったので、先頭が富士川についても後ろの方はまだ宇津谷(うつのや)峠にいました。

当時の富士川河口付近は広大な湿地帯で、川も現在より東側に流れていました(国土地理院地図で作成)

そこで維盛は、指揮官の藤原忠清(ふじわらの ただきよ)を呼んで今後の事を相談しました。維盛はさっさと坂東に突入してサクッと戦って帰ろうとしていたのですが、忠清はここで後ろの部隊が到着するまで待とうと進言します。

戦経験が豊富な忠清の言う事を、維盛は素直に聞きました。よい子ですね。

鎌倉軍も出陣!

そして頼朝もまた、平家の軍を迎え討つために、自らが総大将となって出陣しました。その数なんと20万騎! これが10月16日の事です。

三島を過ぎて、黄瀬川(きせがわ)に着いた頃、平家軍にも鎌倉軍の様子が伝わりました。忠清は集まった兵の数の多さに、「もう少し早く辿り着くことができたら、東国の平家の家人たちが頼朝に側に寝返る事もなかったろうに」と悔しがりました。

一方、維盛は東国を良く知るという部下の斎藤実盛(さいとう さねもり)に尋ねました。

「ねぇ、実盛。お前ぐらいの弓の名手は、東国にどれくらいいるの?」

すると実盛は大声で笑って言います。

「と、おっしゃいますと、維盛様は私ごときを東国人並みの弓の名手だと思ってらっしゃるのですか! 私の使う矢は13束(1束=拳1つ分)。このぐらいの矢を使う者なら、東国にはいくらでもいます。東国で弓を使うと言えば15束の矢、弓も5・6人がかりで弦を張るほど。射れば鎧を2・3領も重ねても貫通します。

有力な武士1人の名があれば、どんなに少なくても500騎以下の事はありません。馬に乗ったら落ちる事も倒れる事もなく、合戦になれば親が討たれようと、子が討たれようと、その屍を乗り越えて戦い続けます」

褒めているんだけれど、どこか褒めていない気配が漂っているような……?

これを聞いて、維盛はすっかり怯えてしまいました。西国の人々は、戦場で親が討死すればすぐに供養をし、弔中を過ぎてから再び向かうものです。また、子が討たれたとあれば悲しみ嘆き、戦線離脱してしまいます。

そもそも、戦だって春は田植えをしてから、秋は収穫の後に行うものですし、夏は暑いし冬は寒いので戦には出ません。なのに実盛が言うには、坂東武者は全くそんな事はなく、いつでも出撃可能なのだそうです。

う~ん、遥かな時を越えて、現代人にぐさっと刺さってくるような。

実盛は「別に、維盛様を怯えさせようとしているのではありませんよ」というのですが、蝶よ花よと育てられた平家のお坊ちゃんはすっかり真っ青になっていて、それを聞いていた周りの兵たちも震えていました。

騒然! 坂東武者がやってきた!

さて、ここからが教科書にも載っているシーンです。

さるほどに十月二十三日にもなりぬ。
明日は、源平富士川にて矢合(やあはせ)と定めたりけるに、夜に入つて、平家の方より源氏の陣を見渡せば、伊豆、駿河の人民百姓らがいくさに恐れて、あるいは野に入り山に隠れ、あるいは舟にとり乗つて、海、川に浮かび、営みの火のみえけるを、平家の兵ども、

「あなおびただしの源氏の陣の遠火の多さよ。げにもまことに野も山も、海も川も、みな敵(かたき)でありけり。いかがせん。」

とぞ慌てける。

当時の戦も現在の戦争も、一応ルールは存在します。当時の戦はお互いに陣地についたら使者を立てて、「〇月〇日、〇刻に戦闘開始しましょう」と決めてから始まります。その日までに付近の住民たちも避難します。

とても礼儀正しい! 奇襲攻撃なんてルール違反だったんですね。

今回も富士川の合戦では10月23日に戦闘開始すると約束しました。その前夜、付近の住民は山の中や舟で海上へ逃げて行きました。

そのためのかがり火を見た平家軍は「あんなに坂東武者がいる」と勘違いしてしまいます。

「わぁ、すごーい! 山も川も海も、敵でいっぱいじゃないか! えっ。……どうしよう」

こんな時でも、なんだかのほほんとしている雅な平家軍です。

恐怖! 坂東武者が攻めてきた!

その夜の夜半ばかり、富士の沼に、いくらも群れ居たりける水鳥どもが、何にか驚きたりけん、ただ一度にばつと立ちける羽音の、大風いかづちなんどのやうに聞こえければ、平家の兵ども、「すはや源氏の大勢の寄するは。斎藤別当が申しつるやうに、定めてからめ手もまはるらん。取り込められてはかなふまじ。ここをば引いて、尾張川、洲俣を防げや」とて、取る物もとりあへず、われ先にとぞ落ちゆきける。

当時は富士川の周辺は広大な湿地帯だったそうで、大きな沼もありました。夜に寝静まっているはずの水鳥の群れが、突然何かに驚いて、一斉に羽ばたきました。その羽音といったら、嵐や雷のようです。

平家の兵たちは「うわぁ! 鎌倉軍が攻めて来たぞ!」と我先にと逃げ出してしまいました。

幽霊の正体見たり枯れ尾花、というやつですね……。怖がっていると、関係ないものまでが怖く思えてくる。その感覚はとてもよく分かります。

あまりに慌て騒いで、弓取るものは矢を知らず、矢取るものは弓を知らず。人の馬には我乗り、わが馬をば人に乗らる。あるいはつないだる馬に乗って馳すれば、杭をめぐること限りなし。

近き宿々より迎へとつて遊びける遊君遊女ども、あるいは頭蹴割られ、腰踏み折られて、をめき叫ぶ者多かりけり。

あまりに慌てていたので、弓を持った者は矢を忘れ、矢を手に取った者は弓を忘れるしまつ。他人の馬に乗ったり、他人に自分の馬に乗られたり、ある者は杭に繋いだままの馬に乗ってぐるぐる回っている有様。

近くの宿場町から呼び寄せた遊女たちは、頭を蹴られて割られたり、腰を踏み折られたりして、うめき声をあげている者も少なくありません。

まさに阿鼻叫喚の地獄絵図……! 遊女さん可哀想!

明くる二十四日卯の刻に、源氏大勢二十万騎、富士川に押し寄せて、天も響き大地も揺るぐほどに、鬨をぞ三が度、作りける。

翌24日の卯の刻(夜明けごろ)、鎌倉軍20万騎が富士川に押し寄せて、天に響き大地が揺らぐほどに、鬨(とき)の声を三度挙げました。

鎌倉軍、ほぼ戦わずに勝っちゃいましたね!

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優雅な平家が見せた醜態

と、いうのが『平家物語』の『富士川』の内容です。見目麗しい平家の御曹司・維盛くんの描写と、斎藤実盛が語る「野蛮な坂東武者」の対比。ちょっとした勘違いから恐慌状態に陥る平家の軍勢に、文字通り蹂躙される名もない遊女。改めて読むとその描写は生々しいですね……。

『平家物語』はあくまで「物語」ですので、実際の戦場ではどうだったのかは、いまも議論されています。しかし実際に戦では、このように力のない弱い者が犠牲になるものです。これが『平家物語』描く「死」。「あはれ」なのです。

▼平家物語ってなに? そんなあなたはこちら
無数の死を描いた『平家物語』ってそもそもどんな話?3分で解説!

「鎌倉殿の13人」13人って誰のこと? 人物一覧

「鎌倉殿」とは鎌倉幕府将軍のこと。「鎌倉殿の十三人」は、鎌倉幕府の二代将軍・源頼家を支えた十三人の御家人の物語です。和樂webによる各人物の解説記事はこちら!

1. 伊豆の若武者「北条義時」(小栗旬)
2. 義時の父「北条時政」(坂東彌十郎)
3. 御家人筆頭「梶原景時」(中村獅童)
4. 頼朝の側近「比企能員」(佐藤二朗)
5. 頼朝の従者「安達盛長」(野添義弘)
6. 鎌倉幕府 軍事長官「和田義盛」(横田栄司)
7. 鎌倉幕府 行政長官「大江広元」(栗原英雄)
8. 鎌倉幕府 司法長官「三善康信」(小林隆)
9. 三浦党の惣領「三浦義澄」(佐藤B作)
10. 朝廷・坂東の事情通「中原親能」(川島潤哉)
11. 頼朝の親戚「二階堂行政」(野仲イサオ)
12. 文武両道「足立遠元」(大野泰広)
13. 下野国の名門武士「八田知家」(市原隼人)

書いた人

神奈川県横浜市出身。地元の歴史をなんとなく調べていたら、知らぬ間にドップリと沼に漬かっていた。一見ニッチに見えても魅力的な鎌倉の歴史と文化を広めたい。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。