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2022.02.11

東京・葛飾区に巨大な城が?上杉や北条が取り合った葛西城の物語

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もし「東京の城といえば?」と問われたら、何と答えますか? たいていの人は「江戸城」と答えるでしょう。現在の皇居を含む、日本最大の城跡です。「では、江戸城以外では?」と重ねて問われたら、どうでしょう。「他にもあるの?」というリアクションをする人が多いかもしれません。そもそも世界有数の大都市東京と、昔の城跡のイメージは結びつきにくいものです。しかし実際のところ東京には、23区内に約100、多摩地域を含めた東京都全体では約200もの中世の城がありました。ちょっと驚きませんか?

え、東京に江戸城以外のお城が? シンデ○ラ城ではないですよね?笑


たとえば八王子市の滝山城や八王子城、町田市の沢山(さわやま)城など、多摩地域には当時の姿をよく留める山城や丘城の跡がいくつもありますし、23区内でも世田谷区の世田谷城や、練馬区の石神井(しゃくじい)城などは、土塁や堀などが比較的わかりやすいかたちで現存しています。

さて、それら都内の城の中で、戦国時代に山内上杉(やまのうちうえすぎ)氏、北条(ほうじょう)氏、越後長尾(えちごながお)氏らが争奪戦を演じ、古河公方(こがくぼう)が元服式を行い、小田原征伐の際には徳川(とくがわ)勢と戦った末、攻略された城がありました。さらに江戸時代には、徳川将軍が鷹狩の際に用いる御殿も築かれています。

それが、今回取り上げる葛飾区の「葛西(かさい)城」です。

数ある都内の城跡の中でも、エピソードの多さでは屈指の葛西城ですが、決して知名度が高いとはいえません。実はそれには残念な理由がありました……。本記事では、葛西城にまつわる人物や戦国期の葛西城の役割、そして東京の城の楽しみ方も含めて、知られざる葛西城を紹介します

今回の記事、ボリュームがすごいのでブックマークをおすすめします!

なぜ葛西城跡はあまり知られていないのか

「環七」脇の2つの小公園

東京23区内を環状にめぐる、環状七号線。通称「環七(かんなな)」は、大田区平和島から江戸川区臨海町まで、9つの区をつなぐ幹線道路として知られます。環七は葛飾区内を南北に走り、青戸(あおと)で水戸街道(国道6号)と交差しますが、その交差点を少し南に下った環七の両サイドに、小さな公園があります。近所の子どもたちが遊ぶ公園の名は、西側が御殿山(ごてんやま)公園、東側が葛西城址公園。そう、ここが葛西城の主郭(しゅかく、中心部)跡なのです。京成電鉄青砥(あおと)駅から、北へ1km弱のところです。

葛西城址公園

道路を挟んで両側に公園がある理由は、環七が城跡の中心部を貫いてしまっているからでした。そして交通量の多い車道周辺はもちろん、公園内にも城の遺構はまったく見ることができず、公園に建つ石碑のみが、城があったことを物語っているのです。

御殿山公園より環状七号線と葛西城址公園を望む

研究者たちも知らなかった葛西城

それにしてもなぜ、城跡の中心部に幹線道路が通るようなことになってしまったのでしょうか。葛西城跡の本格的な発掘調査が行われたのは昭和47年(1972)以降、環七の建設工事に伴う事前調査のことでした。当時、この地には弥生時代後期の遺跡や、江戸時代に徳川将軍の御殿があったという伝承は認識されていたものの、中世の葛西城については、低地に築かれた平城(ひらじろ)ということもあって、場所の特定が十分にできていなかったのです。そのため、発掘が進んで膨大な量の遺物が出土し、ここに葛西城があったことが裏づけられると、研究者たちは驚愕しました。そして彼らは急きょ、城の中心部を道路が貫かないよう計画の変更を施工者に訴えたのですが、遺跡の重要性が認められず、城跡を環七が分断することになったのです。

つまり葛西城が一般にあまり知られていないのは、環七建設が行われる昭和40年代まで、その位置が研究者の間ですら十分に認識されていなかったことに加え、中心部が幹線道路によって壊されてしまい、周辺の地表にもそれらしい遺構を何も見ることができない城跡だから、といえるでしょう。とはいえ、遺構が壊されたのは環七が通っている部分のみで、遺跡の大半は周辺の住宅地の地中に眠っています。また、その後の研究で、戦国史における葛西城の役割の重要性も明らかになってきており、今も少しずつ発掘調査が続けられているのです。

御殿山公園

さらに、現在2つの公園になっている部分は、主郭東側の一部にすぎません。葛西城全体の規模は、かなり大きなものであったと考えられています。青砥駅の北、中川の西岸に面して東京慈恵会医科大学葛飾医療センターの建物がありますが、一説に葛西城の南端はこの付近といわれます(遺構は未検出)。一方、北端は水戸街道を北に越えた先の古刹(こさつ)、宝持院(ほうじいん)付近とされます。単純に距離を測ると、宝持院から慈恵医大まで900m近くありますので、城域のおよその規模を想像できるでしょう。そして東は中川(かつては葛西川)を天然の堀とし、西は一面に広がる湿地帯で守られていました。

東京慈恵会医科大学葛飾医療センター(左)と中川

葛飾区はかつて海だった

では、葛西城とは具体的にどんな城であったのでしょうか。その話に入る前に、まず葛飾区の青戸周辺が、かつてどんなところだったのか、簡単に紹介しておきましょう。

葛飾区は東京都の北東部に位置し、周囲を河川で囲まれています。東は江戸川を隔てて千葉県に、北は複数の河川を境に埼玉県や足立区と接し、南西は墨田区、南東は江戸川区です。そして葛飾区のほぼ中央に、青戸があります。ちなみにコミック『こちら葛飾区亀有公園前派出所』で知られる「亀有」は青戸の北隣、また寅さんでおなじみの映画『男はつらいよ』の舞台「柴又」は、青戸より東になります。

さて、東京23区はおおむね、西の「武蔵野台地」と東の「東京低地」に分けることができますが、葛飾区は江東、墨田、江戸川、荒川などの区とともに、東京低地に属します。低地一帯は6,000年前頃までは海で、当時は栃木県のあたりにまで海が入り込んでいました。やがて3,000年前頃から地盤の隆起や、河川によって土砂が運ばれて陸地が広がり、1,800年ほど前の弥生時代の終わり頃には、葛飾区や江戸川区でも集落が営まれるようになりました。葛西城跡周辺からも、弥生時代末~古墳時代前期の土器が出土しています。城跡周辺一帯は、低地の中の微高地でした。

1800年前にも寅さんのような人がいたのでしょうか(いてほしい)

葛西城があった青戸は、どんな場所なのか

なぜ「葛西」城なのか?

ところで葛西と聞くと、葛西臨海公園や地下鉄の葛西駅を思い浮かべる人も多いかもしれません。東京ディズニーランドのある千葉県浦安市に近い、江戸川区南部の地域です。葛飾区青戸からはかなり離れていますが、なぜ「葛西」城なのでしょうか?

奈良時代、この付近(葛飾区、江戸川区周辺)は下総国(しもうさのくに)葛飾郡でした。葛飾という地名は、古代からあったのです。葛飾郡は太日(ふとい)川(現在の江戸川)の両岸に広がる地域で、東京都、埼玉県、千葉県、茨城県にまたがる南北に長い郡でした。その後、北部を除く太日川の東を葛東(かっとう)、西を葛西(かさい)と呼ぶようになります。具体的にかつての葛西は、葛飾、江戸川両区全域と墨田区、江東区の一部を含む地域を指しました。つまり現在葛西と呼ばれる地域よりもずっと広範囲で、葛飾区も葛西に含まれていたのです。葛西城の名は、これに由来します。

青「戸」の意味とは?

次に「青戸」という地名に注目してみましょう。葛飾区周辺の地名には、奥戸(おくど、葛飾区)、亀戸(かめいど、江東区)、今戸(いまど、台東区)、花川戸(はなかわど、台東区)など、「戸」のつく地名が散見されます。それは、なぜなのか?

実は「戸」とは、津(港)が転訛(てんか)したもので、そこが港であったことを意味する言葉なのです。現在も亀戸は旧中川などの複数の河川に、今戸と花川戸は隅田川、奥戸と青戸は中川に面しています。つまり、人や物資を運ぶ水運上の拠点を示す地名と考えてよいでしょう。青戸はそんな港の一つでした。また、もともとは「大戸(おおと)」と呼ばれていたものが青戸に変化したともいわれますので、大きな港であったようです。ちなみに、「戸」がつく地名の一つに「江戸」もあります。江は河口を意味する言葉ですから、江戸とは「河口の港」を意味する地名なのです。

戸ってそういう意味だったんだ!!


葛飾区奥戸付近

水戸街道、鎌倉街道、そして東海道

また港に人や物資を運び、あるいは陸揚げした物資を移動させるには、陸上交通の整備も必要になります。その点、青戸はどうだったのでしょうか。先ほど、現在の青戸で環七と水戸街道が交差し、その交差点より少し南に葛西城の主郭にあたる2つの公園があると紹介しました。実は葛西城の北を東西に走る(正確には南西から北東に走る)水戸街道は、古くから存在する幹線道路なのです。

現在の水戸街道は、東京と茨城県の水戸市を結ぶ国道6号のうちの、墨田区の言問(こととい)橋から葛飾区の新葛飾橋までの約9kmの区間を指しますが、江戸時代に定められた本来の水戸街道は、江戸の千住(せんじゅ)宿と水戸の城下を結ぶ脇(わき)街道でした。さかのぼって中世には、「鎌倉街道下道(しもつみち)」と呼ばれています。そして古代においては、武蔵国から下総(しもうさ)国府(現、市川市)を経て、常陸(ひたち)国府(現、石岡市)に至る「東海道」でもあったのです。

つまり青戸は、南北に流れる河川の津であり、その北を幹線道路が東西に走る、まさに交通の要衝、結節点であったといえるでしょう。その青戸に築かれた葛西地域を代表する城が、葛西城でした。

環七と水戸街道、葛西城址公園の位置関係(国土地理院の航空写真を元に作成)

葛西城はいつ、誰が築いたのか

葛西一帯を支配した葛西氏

では、葛西城はいつ、誰によって築かれたのでしょうか。正確なところはわかりませんが、室町時代後期に関東で起きた大規模な争乱「享徳(きょうとく)の乱」の際に、山内(やまのうち)上杉氏によって築かれたという見方が、現在の研究では主流です。享徳の乱と上杉氏については改めて後述しますが、その前に、築城者について別の2つの伝承があることを紹介しておきましょう。まずその1つが葛西氏です。

平安時代の末頃、葛西一帯を領したのが桓武平氏(かんむへいし)の血筋の秩父(ちちぶ)氏の一族、豊島(としま)氏です。豊島清元(きよもと)の息子清重(きよしげ)は、父より葛西の所領を受け継いで、葛西三郎清重と名乗ります。葛西清重は源頼朝(みなもとのよりとも)を支えて数々の武功を立てたため、頼朝より奥州の胆沢(いざわ)郡、磐井(いわい)郡(いずれも現在の岩手県内)、牡鹿(おじか)郡(現在の宮城県内)他を与えられました。葛西氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて葛西を拠点としますが、室町時代に本拠を奥州に移し、戦国時代には東北地方で勢力を保つことになります。

伝葛西清重墓

この葛西氏が葛西城を築いたのではないかという見方がありますが、裏づけはありません。しかし葛西氏は、葛西一帯を伊勢神宮に寄進して荘園(しょうえん)とし(「葛西御厨〈みくりや〉」と呼ばれました)、国から課せられる負担を免れつつ、平安時代末期から200年余り葛西の地を支配しています。交通や物流の要所である青戸に、拠点となる何らかの施設を置いていた可能性はあったかもしれません。なお葛西清重の館跡と伝わる西光寺(さいこうじ)が、葛西城跡北の水戸街道を南西に3km余り進んだ綾瀬(あやせ)川の東岸、葛飾区四つ木に所在しています。

青砥藤綱の館跡なのか?

2つ目の伝承は、青砥藤綱(あおとふじつな)です。現在、葛西城跡の御殿山公園には「青砥藤綱城跡」という石碑が建っており、訪れた人は葛西城の別名が青砥藤綱城であると思われるかもしれません。これは江戸時代の地誌『新編武蔵国風土記稿』巻23に、葛西城が築かれる前に青砥藤綱の館があったという地元の伝承が紹介されていることに由来します。

青砥藤綱城跡碑

青砥藤綱は『太平記』などに登場する人物で、鎌倉幕府の評定衆(ひょうじょうしゅう)を務めたといわれます。公正な裁判を行って民衆を救ったとされ、江戸時代には文学や歌舞伎でも取り上げられる、人気者でした。しかしその存在を裏づける同時代史料は確認されておらず、今ではその実在が疑問視されています。おそらく青戸という地名から後世、青砥藤綱と結びつけられ、館の伝説が生まれたのでしょう。青砥藤綱と葛西城は、無関係と考えてよいようです。なお京成電鉄の駅名が「青砥」なのは、藤綱の伝説に由来しています。

京成電鉄はもしかして歴史好き?

上杉方の最前線の城だった

鎌倉公方と関東管領

では、葛西城の歴史に踏み込んでいくことにしましょう。まずは時代背景から簡単に説明します。

室町時代に葛西氏が東北地方に移った後、葛西は関東管領(かんとうかんれい)の上杉氏の勢力下に置かれました。関東管領とは、鎌倉にいて関東10ヵ国を統治する鎌倉公方(くぼう)の補佐役です。

源頼朝が幕府を開いて以来、鎌倉は関東武士たちの中心地でした。それは鎌倉幕府が滅んだ後の室町時代でも変わらず、足利(あしかが)将軍は京都に幕府を開く一方、鎌倉に「鎌倉府」を置いて、その長官である鎌倉公方に関東の統治を委ねたのです。鎌倉公方には、足利将軍の一族が任じられました。しかし将軍の血筋であるだけに、鎌倉公方は「関東の将軍」として、次第に京都の将軍と競合するようになり、幕府を脅かす存在となります。

これに対し関東管領の上杉氏は、公方を諫(いさ)めるブレーキ役でした。そもそも関東管領は鎌倉公方の補佐役とはいえ、公方自身が任じるものではなく、京都の将軍が任じる役職なのです。やがて鎌倉公方と関東管領はたびたび対立することになり、京都の幕府は関東管領を支持するという構図が生まれていきました。

関東の戦国時代の始まり「享徳の乱」

永享(えいきょう)9年(1437)、京都の第6代将軍足利義教(よしのり)の命令により、関東管領の上杉憲実(のりざね)が、将軍に反抗的な第4代鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)を討伐する「永享の乱」が起こります。その後、第5代鎌倉公方には、討伐された持氏の息子成氏(しげうじ)が就任しますが、当然ながら成氏は父親を討った上杉氏を嫌い、関東管領を継承する山内(やまのうち)上杉氏や、その一族の扇谷(おうぎがやつ)上杉氏と対立を深めました。

そして享徳(きょうとく)3年(1454)、成氏が関東管領の山内上杉憲忠(のりただ)を討ったことから、鎌倉公方と関東管領・京都の幕府が、関東の諸武士団を巻き込んで全面衝突する「享徳の乱」が勃発します。京都では応仁(おうにん)元年(1467)より、将軍後継者争いをきっかけに11年間続く「応仁の乱」が起こり、これが一般に戦国時代の始まりともいわれますが、関東の享徳の乱は応仁の乱より13年も前に始まり、しかも応仁の乱終結後もまだ続いて、30年近くにも及んだ大乱でした。そのため関東の戦国時代の始まりは、享徳の乱からといわれます。

「境目の城」葛西城

攻防が続く中、各地を転戦する鎌倉公方の足利成氏は、鎌倉を捨てて支持勢力の多い下総国の古河(こが、現、茨城県古河市)に拠点を移しました。このため以後、成氏は「古河公方」と呼ばれることになります。そして古河公方は、現在の茨城県、栃木県、千葉県などの武士団の後押しを受けました。一方、関東管領の山内上杉氏と一族の扇谷上杉氏は神奈川県、群馬県、埼玉県、東京都、及び静岡県の一部の武士団を従え、旧利根(とね)川を挟んで公方勢力とにらみあうことになります。

この時、上杉勢力の前線基地として、旧利根川下流の隅田川西岸に扇谷上杉氏の家宰(かさい)・太田道灌(おおたどうかん)が築いたのが、江戸城でした。そして江戸城よりもさらに東、旧利根川を越えた先の中川西岸に上杉方によって築かれたのが、葛西城だったと考えられています。つまり葛西城は、両勢力がぶつかりあう最前線を押さえるための、まさに「境目(さかいめ)の城」でした。

TOKYOがそんな大合戦の舞台だったとは…


上杉氏から北条氏へ

古河公方を牽制する城

上杉氏によって築かれた葛西城の詳細は、実はよくわかっていません。というのも、その後、葛西城を奪った北条氏によって、大規模な改修が行われているからです。ただ前述したように、中川西岸の自然堤防の微高地に築かれた平城であり、東は中川を天然の堀とし、西には湿地帯が広がって、曲輪(くるわ)の周囲には水堀をめぐらせていました。発掘調査では、北条氏時代の堀によって断ち切られた幅4~6m程度の古い堀跡が確認されており、上杉氏時代のものと考えられています。

上杉氏は葛西城に、武蔵守護代大石(おおいし)氏の一族・大石石見守(いわみのかみ)を入れて城主とし、江戸城の太田道灌とともに、北方の古河公方・足利成氏を牽制(けんせい)させました。寛正2年(1461)には古河公方らが葛西城を攻めた記録もあり、激しい攻防の舞台になっていたことがわかります。その後、一時期扇谷上杉方の千葉自胤(ちばよりたね)が在城したこともありましたが、再び大石氏が扇谷上杉の勢力下で城主となって、「境目の城」を守りました。

葛西城が落ちれば当国滅亡

30年近く続いた享徳の乱は文明14年(1483)、古河公方と京都の幕府が和睦することで、ようやく終結します。しかし3年後、享徳の乱で最も活躍した太田道灌が主君の扇谷上杉定正(さだまさ)に謀殺され、さらにその翌年より、山内上杉氏と扇谷上杉氏の内紛「長享(ちょうきょう)の乱」が始まると、関東は再び乱れました。その隙をついて相模(現、神奈川県)より進出したのが、北条氏です。

大永4年(1524)、関東進出をうかがう小田原の北条氏綱(うじつな)は江戸城を攻略、さらに葛西城をねらいました。この危機に葛西城の上杉家家臣は、越後(現、新潟県)の長尾為景(ながおためかげ)に援軍を要請しますが、その書状には「葛西城が落ちれば当国滅亡」と、切迫感を伝える内容が記されています。上杉方にとって、いかに葛西城が重要な城であったかがわかるでしょう。

翌大永5年(1525)、攻め寄せた北条軍を葛西城は退けました。平城ながら、葛西城の守りが堅固であったことがうかがえます。しかしその後も北条方は着々と武蔵・下総方面への侵攻を進め、天文6年(1537)には扇谷上杉氏の本拠である河越(かわごえ)城(現、埼玉県川越市)を攻略。 これによって上杉氏は武蔵国での勢力基盤を失い、下総に取り残された孤城の葛西城は天文7年(1538)2月、ついに北条勢に攻め落とされました。以後、葛西城は北条氏の持ち城となるのです。

古河公方を取り込む北条氏

第一次国府台合戦

しかし北条氏の葛西城奪取は、思わぬところに波紋を及ぼします。当時、下総国小弓(おゆみ)城(現、千葉県千葉市)には、古河公方の血を引く足利義明(よしあき)が在城し、上総武田(かずさたけだ)氏や里見(さとみ)氏ら周辺勢力の支援を得て、「小弓公方」を称していました。自分こそが正統な古河公方と主張する義明は、上杉氏と連携して第4代古河公方足利晴氏(はるうじ)の拠る古河御所を攻め落とし、さらには鎌倉の占領を目指していたともいわれます。そんな義明にとって、上杉方の江戸城、河越城、葛西城を攻略し、武蔵・下総に進出してきた北条氏は目ざわりでした。一方、義明に対抗する必要から、古河公方足利晴氏は北条氏綱と手を結びます。

そして北条氏が葛西城を落とした半年後の天文7年10月、小弓公方足利義明は、里見氏らとともに1万の軍勢で下総国府台(こうのだい)城(現、千葉県市川市)に入りました。一説に義明のねらいは、中川・太日川(現、江戸川)を挟んで国府台城の西5km弱の位置にある葛西城を奪うことであったともいわれます(関宿〈せきやど〉城〈現、千葉県野田市〉をねらったという説もあります)。いずれにせよ葛西城は、北条軍の最前線となりました。

江戸川(かつての太日川)と、川に沿った台地上の国府台城跡(右、市川市)

戦いは、太日川を渡河した北条軍を小弓公方勢が相模台付近で迎え撃ちます。乱戦の中、陣頭で戦う足利義明が討死したため、里見勢は退却、北条氏綱の勝利となりました。この戦いによって小弓公方は滅び、北条氏は下総で勢力を拡大、葛西城も完全に北条配下の城となりました。

いけいけ北条!(鎌倉殿の13人の見すぎ)

「足利御一家」と河越夜戦

また第一次国府台合戦は北条氏に、権威面での上昇をもたらします。すなわち古河公方の取り込みでした。合戦翌年の天文8年(1539)、北条氏綱は自分の娘を古河公方足利晴氏の室とし、4年後に梅千代王丸(うめちよおうまる)が誕生。これによって北条氏は「足利御一家」の地位を獲得しました。晴氏には長男藤氏(ふじうじ)がいましたが、もし長男をさしおいて梅千代王丸が家督を継ぐようなことになれば、北条氏綱は公方の外祖父となり、北条の関東支配の大義名分を得るのです。

晴氏はそれを嫌い、あくまでも古河公方の勢力回復を目指しました。そして氏綱が没してから5年後の天文15年(1546)、北条氏と手を切って、関東管領山内上杉憲政(のりまさ)や扇谷上杉氏らとともに北条氏の武蔵国の要衝・河越城を大軍で囲みます。しかし、城の救援に駆けつけた氏綱の息子氏康(うじやす)が夜戦を仕掛け、古河公方・関東管領軍を打ち破りました。史上有名な「河越夜戦」です。これにより扇谷上杉氏は滅亡、足利晴氏もまた、勢力を著しく失いました。

「葛西様」の誕生

古河公方の御座所

天文19年(1550)頃、北条氏康は古河御所の足利晴氏を、息子梅千代王丸とともに葛西城に移すことを画策。2年後、計画は実行に移され、足利晴氏は梅千代王丸とその生母芳春院(ほうしゅんいん、北条氏康妹)とともに葛西城に入りました。これによって葛西城は、「古河公方の御座所(ござしょ)」となったのです。葛西城は古河公方の領土の外、北条の城ですから、そこを古河公方の御座所としたのは、公方の権威と北条氏の一体化を内外に、とりわけ北条氏の敵対勢力に印象づけるねらいがあったのでしょう。

さらに北条氏康は晴氏の隠居と、北条の血を引く梅千代王丸への家督譲渡を晴氏に強(し)いました。これによって11歳の梅千代王丸は、兄の藤氏をさしおいて次代の古河公方に就くことが決まり、北条氏の当初の目論見通りとなったのです。不満を抱いた晴氏は天文23年(1554)、葛西城を出て古河御所に立てこもりますが、すぐに鎮圧され、相模波多野に幽閉されてしまいます。

「葛西様」と「公方府」

弘治元年(1555)11月、葛西城で13歳の梅千代王丸の元服式が執り行われました。式には小田原北条氏の当主・氏康が参加し、関東では元服式で最も重要とされる理髪役(髻〈もとどり〉に紫の紐を結ぶ役)を務めています。また北条氏から京都の公家・近衛(このえ)家を通じて、足利13代将軍義輝(よしてる)の「義」の一字を拝領し、梅千代王丸は義氏(よしうじ)と名乗ることになりました。第5代古河公方・足利義氏は永禄元年(1558)4月頃まで、およそ7年を葛西城で過ごしており、その間の葛西城は古河公方の御座所であり、義氏は「葛西様」と呼ばれています。また、奉公衆ら公方の家臣らも詰めた葛西城は、「公方府」というべき役割を果たしていたといえるのです。

その後、義氏は永禄元年に葛西城を出ると、北方の関宿城や古河御所(古河城)に入り、葛西城に戻ることはありませんでした。これは北関東への勢力拡大を進める北条氏の政略と、密接に関わっていたとされます。一方の葛西城は、江戸城に詰める江戸衆筆頭の遠山(とおやま)氏の管理下に置かれ、太日川(現、江戸川)より東の反北条勢力に目を光らせることになりました。ところが義氏が去ってから2年後、葛西城は思わぬかたちで戦火に巻き込まれるのです。

関東の覇権争い

「越後の龍」の南下

北条氏によって関東を追われた関東管領山内上杉憲政は、越後の長尾景虎(かげとら)を頼りました。そして景虎を養子とし、「越後の龍」と呼ばれる景虎の力を借りて、巻き返しを図ります。永禄3年(1560)、上杉憲政を奉じて上野国(こうずけのくに、現、群馬県)に入った景虎は、瞬く間に憲政の旧領を回復すると、厩橋(まやばし)城(現、群馬県前橋市)から関東の諸将に参集を呼びかけました。これに、それまで北条氏に従っていた多くの関東武士が応じ、翌永禄4年(1561)、景虎が北条氏の小田原城攻撃と、鎌倉にて関東管領就任式を行なうため南下する際には、従う軍勢は11万を超えていたといわれます。この大津波の前に北条方はなす術もなく、葛西城も落城しました。

上杉謙信の「毘」の旗

しかし、北条氏と同盟関係にあった甲斐の武田信玄(たけだしんげん)が信濃で攻勢に出ると、景虎は小田原城攻囲を切り上げ、鎌倉の鶴岡八幡宮で山内上杉家の家督継承、及び関東管領の就任式を執り行うと、急ぎ越後へと帰ります。ちなみに以後、景虎は上杉政虎(まさとら、ほどなく輝虎〈てるとら〉に改名、法号は謙信〈けんしん〉)と名乗り、この直後に信濃川中島で武田信玄と激突しました。一方、景虎が去ると、北条氏は攻勢に転じて再び関東を席捲(せっけん)し、永禄5年(1561)4月、葛西城は北条家の太田康資(おおたやすすけ) の活躍によって奪還されます。

第二次国府台合戦と葛西城の役割の変化

太田康資はかの太田道灌の曾孫で、武勇に優れていました。ところが北条家からは彼が満足できる恩賞は与えられず(康資は葛西城主を望んでいたとも)、また待遇も3人の江戸城代の中の末席で、江戸城を築いた道灌の子孫としては納得できなかったようです。その後、康資は上杉輝虎方の同族で岩付(いわつき)城(現、さいたま市)主の太田資正(すけまさ)と通じ、北条家から離反。これに対して北条氏が岩付城を攻めたため、同じく上杉方の、安房(あわ、現、千葉県南部)の里見義弘(さとみよしひろ)が援軍を出し、下総国府台城に入りました。かつて小弓公方足利義明と北条勢が戦った、国府台合戦のあった城です。一方、北条氏の最前線の城は、またも葛西城でした。

永禄7年(1564)1月、戦いは北条家の遠山綱景(つなかげ)、富永直勝(とみながなおかつ)らの手勢が突出して太日川を渡り、国府台城に攻めかかることから始まります。2人は江戸城代だった太田康資の元同僚で、遠山にとって康資は娘婿でもあり、康資離反の責任を感じていました。これに対し、太田勢も加わった里見軍は待ち伏せして反撃、遠山・富永らを討ち取ります。しかし緒戦の勝利に里見軍が気を良くした直後、北条軍本隊が城に夜襲をかけて打ち破り、戦いは北条氏の勝利となりました(第二次国府台合戦)。太田康資らは里見氏とともに、房総方面へと退きます。

左:緒戦で北条軍が敗れた戦場跡(松戸市)、右:国府台城跡(現、里見公園、市川市)

この戦い以降、北条氏が北関東へと版図(はんと)を広げる中で、葛西城は最前線の「境目の城」から、後方の中継・補給基地へと役割が変わっていきました。その後、北条氏の各地での戦いに、葛西城の兵も動員されている記録が残ります。

解明されつつある葛西城

発掘調査から見えてきた姿

さて、北条氏が支配していた頃の葛西城は、どんな姿だったのでしょうか。当時の姿を描いた絵図類は伝わっておらず、江戸時代に築かれた青戸御殿の主郭部の図が存在するのみで、とても城の全体像まではうかがえません。ただし、地元の字名(あざな)として、城に関係するものがいくつか伝わっています。たとえば「大手前」「陣屋」「城ノ前」「御賄(おまかない)屋敷」「御厩(おうまや)屋敷」「四輪」などで、これらを地図に落とすと、おぼろげながらも城の雰囲気が感じられるでしょう。

地元の字名(国土地理院の航空写真を元に作成)

とはいえ、やはり決め手となるのは発掘調査による成果です。昭和47年(1972)から昭和56年(1981)まで、約10年かけて行われた環状7号線建設に伴う事前調査以降、現在まで地道な調査研究が続いています。その結果、見えてきているのは、葛西城は主郭(本丸)を中心にして、複数の曲輪(くるわ)で構成されていること、主郭は葛西城址公園、御殿山公園を含む東西約130m、南北約74mの規模で、周囲を堀が廻っており、堀の幅は最大で約20m、深さは約2mに及ぶこと、主郭南側の堀には敵の側面を攻撃する折れ(横矢掛かり)が確認できること、主郭以外の曲輪は北と東に1つずつ、南には2つの曲輪が確認できること、全体的な曲輪の広がりは、南北約400m、東西約300mの範囲に及ぶこと、などです。特に北条氏によって改修された巨大な堀は、鉄砲を意識したものともいわれ、上杉氏時代の城から、より防御力の高い城へと刷新されたことがうかがえます。

でっか!東京ドームくらいあったのでは?


葛西城の曲輪の位置(葛飾区郷土と天文の博物館令和3年度特別展『戦国時代の漆器』より)

出土品が物語る城内の暮らし

また、発掘調査では多種多様な品々が出土しています。まずは中国製の青花器台(せいかきだい)や青花椀、皿。当時、中国製の高級陶磁器は唐物(からもの)と呼ばれて武将たちに珍重され、座敷を飾りました。それらは富や地位の象徴だったのです。特に葛西城跡出土の青花器台は中国の元の時代の優品で、古河公方の御座所でもあった葛西城にはふさわしい品でしょう。次に瀬戸・美濃焼の天目(てんもく)茶碗や茶入れ、茶臼(うす)。これらは城内で茶の湯が嗜まれていたことを示しています。漆器の椀(わん)も多数出土しており、内側を赤、外側を黒く塗られたものが多く、外の側面に鶴や亀甲などの文様が描かれていました。飯椀や汁椀などに用いられたのでしょう。その他、将棋の駒やサイコロも出土しており、当時の人々が興じた娯楽の一端を知ることができます。

1:青花器台、2:天目茶碗、3:鶴文の漆器、4亀甲文の漆器(写真提供:葛飾区郷土と天文の博物館)

一方で、弾丸や鏃(やじり)などの武器武具の類も出土しており、特に変形した弾丸は、撃たれた後に何かに当たったもので、葛西城が戦いの舞台であったことを物語っています。特異な例としては、主郭正面北側の堀から女性の頭骨が出土していることでした。25歳から45歳前後と推定される女性は斬首されており、その理由も、なぜ首が堀の中にあったのかもわかりません。あるいは敵に内通した疑いなどをかけられたのか、と想像はふくらみますが、真相は不明です。他には植物の種も出土しており、ヒコサンヒメシャラという小田原以西にしか自生しない花でした。北条家の者が持ち込んで植えたのでしょう。葛西城内で故郷の花を愛でていたのは、誰だったのでしょうか。

5:弾丸、6:鏃、7:将棋の駒(写真提供:葛飾区郷土と天文の博物館)、ヒコサンヒメシャラ

葛西城から青戸御殿へ

最後の戦い

第二次国府台合戦以後、北条領の中継・補給基地となった葛西城は、直接の戦火に遭うことなく、葛西川(現、中川)対岸に新たな宿場「葛西新宿(にいじゅく)」を整備し、城下町として発展させていきます。また葛西と栗橋(現、埼玉県久喜市)を結ぶ船の往来や、葛西川に舟橋を架けて陸上交通の便を図り、葛西は小田原から江戸を経て下総に入るルートの要所となりました。しかしそんな葛西城も天正18年(1590)、最後の時を迎えます。豊臣秀吉による小田原征伐でした。

天下統一を進める秀吉は、関東に覇を唱える北条氏を滅ぼすべく、20万もの軍勢で攻め寄せます。秀吉率いる本隊は小田原城を囲み、それとは別に前田利家(まえだとしいえ)・上杉景勝(うえすぎかげかつ)・真田昌幸(さなだまさゆき)らの北国軍と、浅野長吉(あさのながよし)・徳川家臣らの武蔵・両総方面軍が、関東諸方の北条方の城を攻略していきました。葛西城に攻め寄せたのは、武蔵・両総方面軍だったといいます。

4月22日、徳川家臣らの軍勢によってまず江戸城が降伏開城。葛西周辺の村々も豊臣軍に庇護(ひご)を願い出る中、葛西城は戦う姿勢を崩しません。徳川家臣の戸田忠次(とだただつぐ)の家伝には、周辺の城が開城しているのに葛西城が降伏しないので、攻め落としたと記されています。4月29日頃のことでした。敵わぬと知りながらも抗戦を選んだ葛西城の将は、誰だったのでしょうか。それからおよそ3ヵ月後の7月5日、小田原城は降伏開城し、戦国大名としての北条氏は滅びました。葛西城も廃城となり、享徳の乱以来130年余り続いた城の歴史に、幕を閉じたのです。

徳川将軍の御殿

その後、関東に入った徳川家康が江戸城を本拠とし、大改修を施したことはよく知られていますが、葛西城跡にも注目していました。そして家康は、城跡に御殿を設けます。「青戸御殿」と呼ばれるもので、葛西城の主郭をそのまま利用したものでした。主な用途は鷹狩の際の休憩・宿泊所で、家康は慶長10年(1605)に初めて宿泊して以来、葛西で鷹狩を行う際に何度も利用します。それを受けて2代将軍秀忠(ひでただ)、3代将軍家光(いえみつ)も頻繁に葛西で鷹狩を催しました。つまり青戸御殿となった葛西城跡は、徳川将軍ゆかりの地ともいえるのです。

徳川家康の鷹狩像(左、静岡市)、青戸御殿図『新編武蔵国風土記稿』所収(部分、国立国会図書館デジタルコレクションより)

しかし延宝6年(1678)、4代将軍家綱(いえつな)の代に青戸御殿は払い下げとなって取り壊され、その後は耕地となりました。御殿のあった小高い場所のみ、「御殿山」の地名とともに残りましたが、それがかつての葛西城主郭であったことはほとんど忘れ去られて、昭和の発掘調査に至るのです。

大都会の中にすごい歴史を持つ地名があると、ちょっと興奮しますよね。

なぜそこに城があったのか…東京の城の楽しみ方

現在、環七が中心部を貫き、轟音とともに車が行き交う葛西城跡には、こうした歴史がありました。考えようによっては、かつて水陸交通の要衝を押さえた葛西城跡に環七が走るのは、今もこの地の交通上の重要性が失われていないことの証といえるのかもしれません。

最後に東京の城の楽しみ方について、私なりの考えを少し紹介してみたいと思います。
城跡を楽しむ醍醐味は、現地に赴き、縄張(なわばり、城の設計プラン)や、堀・土塁などに施された防御のためのさまざまな工夫を、自分の目で観察し、体感することにあるでしょう。関東の城跡には石垣こそ少ないですが、高度な築城技術の見ごたえのある城跡が数多く存在し、それは冒頭でふれた多摩地域の山城や丘城でも堪能できますので、ぜひ訪れてみることをおすすめします。

一方、東京23区内は都市部ということもあり、開発による地形の変化が大きく、城跡がごく一部しか残らないケースが大半です。痕跡がまったく残らず伝承だけの場合も少なくなく、せっかく訪れても城らしさが感じられないことがままあります。今回取り上げた葛西城跡も、その一つかもしれません。

そうした場合、私は、なぜそこに城があったのかを考えるようにしています。城は、単に造営しやすい場所に築かれているわけではなく、明確な築城目的に則って場所が選ばれています。多くの場合は支配する土地への敵の侵攻を防ぐため、街道や川の渡河点、港など、交通の要所を押さえるためでしょう。あるいは敵を攻めるための進攻拠点として、また他の城との連携のために築かれる場合もあります。そうした築城理由を念頭に置いて、城跡のかつての地形を探ってみると、当時の幹道と思われる尾根道や、今は暗渠になっている川の存在に気づいて、「なるほど」と思うことがよくあります。もちろん常に見つかるわけではありませんし、築城技術を目にした時のような高揚感は少ないかもしれませんが、これも城跡の楽しみ方の一つではないだろうかと思うのです。

縄張や築城技術を堪能するのは、城跡を訪ねる醍醐味です。が、そこで、もう少し視野を広げてみると、築城の戦略的な意味とともに、当時のその土地の姿や、そこに生きた人々の息遣いのような、歴史そのものまで垣間見ることができるかもしれません。ぜひそんな視点も加えつつ、本記事で取り上げた葛西城をはじめ、まずは地元の城跡に出かけてみてはいかがでしょうか。

参考文献
葛飾区郷土と天文の博物館令和3年度特別展『戦国時代の漆器』図録
葛飾区郷土と天文の博物館編『葛西城と古河公方足利義氏』(雄山閣)
谷口 榮『シリーズ遺跡を学ぶ57 東京下町に眠る戦国の城 葛西城』(新泉社)
『日本城郭大系5 埼玉・東京』(新人物往来社)
東京都教育委員会編『東京都の中世城館』(戎光祥出版) 他

協力 葛飾区郷土と天文の博物館

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。