「画鬼」と呼ばれた男、河鍋暁斎
想像してみてください。小春日和の夜、谷中の瑞輪寺(上野駅と日暮里駅のちょうど中間に位置する)の墓地に鬼や幽霊、骸骨、動物たちが大挙して現れ、ある墓の周りに集まって埋葬された人物を讃え、酒を酌み交わす光景を。その墓の主こそ、今回私が取り上げたい人物であり、「画鬼」と呼ばれた男、河鍋暁斎(1831-1889)です。
そんなおどろおどろしい光景を、暁斎はきっと喜んだでしょう。彼は酒が好きで、絵を描きながら人々と酒を酌み交わし、それがまた彼の創造力の源泉でもあったといいます。
デンマーク人キュレーターが暁斎に注目する理由
日本が新たな一歩を踏み出した明治という時代の画家の中で、私にとって河鍋暁斎は最も魅力的でユニークな画家です。彼は自然界と超自然界の風刺画を得意としました。烏や虎、象、鬼、蛙の曲芸、天狗、七福神、幽霊、踊る骸骨、閻魔など、ありとあらゆるものを描いています。
暁斎が惹かれたものは、ユーモラスなもの、そしてなにか恐ろしげなものたちでした。その傾向は彼がまだ幼い頃からすでに見受けられていたようで、9歳のとき、神田川の岸辺に流れ着いた生首を彼は自ら引き上げ、家に持ち帰ってスケッチしたと言われます。
暁斎は非常に多作な画家でもあり、生涯に何千点もの絵画、版画、素描を制作しました。7歳のとき、庶民的で反アカデミズム的な浮世絵師、歌川国芳(1797-1861)に弟子入りし、その後10歳で狩野派に師事してアカデミックな絵画を学びます。
当時(そしておそらく今も)西洋で最も知られた日本人絵師の一人である葛飾北斎(1760-1849)は、日本が外国からの訪問者に門戸を開く頃にはすでに鬼籍に入っていました。一方、北斎が亡くなった時まだ40歳だった暁斎は、明治の日本を訪れた外国人とも面会した記録が残っています。
その中には、画家のモーティマー・メンペス、イギリスの外科医ウィリアム・アンダーソン(彼は暁斎に直接作品を注文し、1881年に日本美術コレクションの一部として大英博物館に売却した)、フランスの実業家でパリのギメ美術館の創設者エミール・ギメなどがいました。ギメは1876年、画家フェリックス・レガメとアジアを旅行中に東京の暁斎宅を訪れ、親交を深めています。
そうした影響もあってか、暁斎は19世紀後半に開催されたいくつかの万国博覧会——ウィーン(1873年)、フィラデルフィア(1876年)、パリ(1878年)に作品を出品しています。また、西洋人を弟子に迎えてもいました。
ジョサイア・コンドルと暁斎の関係
ところで、「日本近代建築の父」と呼ばれるジョサイア・コンドル(1852-1920)は、日本初の国立博物館や、欧米人と日本の高級官僚が会合し交流する場であった鹿鳴館(1941年に取り壊された)など、明治時代に60を超える公式建築を手がけた建築家です。
彼は、西洋が持つありとあらゆる文化が流行した明治時代に、日本政府に雇われた外国人で、親日家でもありました。1877年に工部大学校(現・東京大学工学部)で建築を教えるために来日し、その後日本の建築を担っていく第1期生たちの多くに西洋建築学を教えました。
残念ながら、コンドルが手掛けた国立博物館は1923年の関東大震災で倒壊してしまいましたが、1881年には第2回内国勧業博覧会が開催され、そこには暁斎も参加し、冬烏を描いた絵で最優秀賞を受賞しています。コンドルと暁斎の二人が初めて出会ったのは、おそらくこの場所だっただろうと私は考えています。
当時20代だったコンドルは暁斎に何度も弟子入りを願い出て、暁斎はついにそれを受け入れます。二人の関係は深まり、コンドルは彼の弟子というだけでなく、親しい友人であり、パトロンともなりました。暁斎の作品の多くはコンドルのコレクションとなり、コンドルの娘ヘレン・愛子(1883-1974)に受け継がれたのです。
コンドルの娘・愛子、デンマークへ渡る
ヘレン・愛子は、東京でスウェーデン総領事を務めていたウィリアム・レナート・グルート(1881-1949)と1906年に結婚。その後子供たちとともに、私の母国であるデンマークに移住しました。そのとき、コンドルから受け継がれた暁斎コレクションの大部分も、一緒にデンマークへと渡りました。1942年6月には、当時デンマークの大手オークションハウスであったヴィンケル・オグ・マグヌッセンにおいて、そのコレクションの中から375点以上が売却されています。売却された中には、1885年以降に描かれた暁斎の有名な《地獄太夫図》(3つのバージョンがある)や、1882年の《鍾馗と二匹の鬼》も含まれていました。
暁斎の死に水を取ったコンドル
歌川国芳と狩野派という、相反する二つの流派で修業を積んだ暁斎の作品には、伝統的な日本美術からの影響と大衆文化の影響、そのいずれもをはっきりと見て取ることができます。日本が江戸時代という封建社会から、西洋の政治や経済、軍事システムを取り入れた近代国家へと変貌を遂げたこの時代にあって、河鍋暁斎は技法だけでなく、モチーフの選択においても、新旧のバランスを取りながらその才能を遺憾なく発揮しました。
1889年4月26日、その暁斎が亡くなったとき、枕元にいた人物の一人がジョサイア・コンドルその人でした。彼はその後、暁斎の生涯と作品に関する最も重要な資料の一つを著すことになります。それが1911年に出版された『暁斎の絵画と習作』でした。
4月13日から6月9日まで、静嘉堂文庫完成100周年記念特別展「画鬼 河鍋暁斎×鬼才 松浦武四郎『地獄極楽めぐり図』からリアル武四郎涅槃図まで」として、暁斎の作品を鑑賞することができる。