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蔦重AtoZ
M=松平定信の「寛政の改革」が逆風となる
蔦重が版元として躍進したのは、「田沼時代」と呼ばれる、現実的な経済政策が行われていたころでした。それを率いたのが老中(ろうじゅう)・田沼意次(おきつぐ)でしたが、諸事情により失脚(しっきゃく)。
11代将軍家斉(いえなり)が老中に任命した松平定信(まつだいらさだのぶ)は、幕府の権威を高め、農村復興を目ざした「寛政の改革」を断行します。
定信は質素倹約を旨として、江戸の出版物を目の敵にします。
しかし、蔦重は負けません。締めつけられた人々の不満を汲み取って、世相を揶揄し、幕府をからかう内容の黄表紙を刊行してベストセラーを連発したのです。
さらに、寛政2(1790)年に幕府が「出版統制令」を発すると、風俗や言論の統制はいっそう厳しくなっていきます。幕府からの度重なる弾圧にも果敢に挑んだ蔦重でしたが、やがて罰金刑に処されてしまいます。でも、そんなことではめげないのが蔦重(!)。ならばと、歌麿や写楽と組み、趣向を凝らした浮世絵で勝負に出て、新たな境地を開いていくのです。
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松平定信も出版を多数手がけていた
実は松平定信は芸術にもたけていた!
8代将軍吉宗の孫にあたる松平定信は、17歳で白河藩松平家の養子となり、白河藩の家督を継いだ後、老中首座に推挙されて寛政の改革を行なった。
12~13歳のころに狩野派(かのうは)の絵を学び、のちに沈南蘋(しんなんぴん)の画法を学んだと伝わり、10代将軍家治(いえはる)に『柳鷺図』『関羽図』を、光格天皇に『桃鶴図』を献上。
堅物(かたぶつ)イメージの定信は学問はもとより、書画にも通じていたのです。