初節句に込める祈りと、5月5日の由来をたどって
そもそも初節句とは、子供が生まれて初めて迎える節句のこと。女児の場合は3月3日の上巳の節句(ひな祭り)、男児の場合は5月5日の端午の節句に行われる。
節句の起源はその昔、宮中で天皇が臨席した節会(せちえ)と呼ばれる宴会にあり、元日、白馬、踏歌、端午、豊明など1年間にいくつもの行事があった。
これらは長い歴史の中で中断されてしまうことも多かったが、民間で続けられて残るものが出てきた。そして時代が安定する江戸の頃になると、各地で増えてしまった数々の行事を全国で統一するために幕府によって、人日、上巳、端午、七夕、重陽の五節句が制定されることになる。しかし、これも明治6年に太陽暦に変わったときに廃止されてしまうが、ご存じのとおり民間行事としては今も全国的に続けられているものだ。
厄除けの草から「勝負」の菖蒲へ。節句が男児の祝日に変わるまで
さて、男の子の健やかな成長を祈る5月5日だが、元は厄除けの行事に由来していることをご存じだろうか。多くの日本の行事は大陸や半島からの影響を受けており、端午に関しても同様である。
災厄が多く、古来から5月は悪月と考えられていた。また奇数の同じ数字が重なる日は、それがさらに極まるものとして、5月5日は悪月の悪日として特に注意すべき日となった。端午とは月の初めを意味する‘端’と、‘午’の日(ちなみに旧暦5月は午の月でもある)が組み合わさったものでそれまでは必ずしも5月に限定されたというわけではなかったらしいが、漢代になると5月5日のことを特定して端午と呼ぶようになった。
漢代といっても時代の幅が広いので、ざっくり言うならば今からかなり昔にすでに端午にまつわる思想は確立していたと言えるだろう。大陸ではこの日、薬草を摘んだり、蓬の人形を門戸にかけたり、蘭の湯に浸かったりと、道教的な薬草の知識が取り入れられた厄除けが広く行われていた。
日本では飛鳥時代になると遣隋使が大陸に渡り、これらの習慣を持ち帰った。国内で5月5日に初めて行われた行事としては、薬草狩りの儀がある。
これは高句麗王室の鹿を狩る行事と中国の薬草を摘む行事が習合して、推古天皇の611年に宮廷行事として行われた。雅な衣をまとった男女が薬草や鹿の角を求めて奈良県の菟田野(うだの)で薬草狩りをする姿はさぞ美しいものであったろう。こうして端午に摘んだ草は特別な効能があると重宝された。
また平安の頃には、宮中で行われた五日節会において、菖蒲蔓(あやめのかずら)をかけた天皇が武徳殿に行幸し、菖蒲と蓬が机にのせられた菖蒲机が献上され、さらに薬玉が臣下に下賜された。
周知のように5月の行事に菖蒲は欠かせない。5月5日が近づけばスーパーに菖蒲が並び、菖蒲を入れた湯船に浸かるということは我が家でも行っているし、また菖蒲を酒に浸して飲んだり、屋根にかけたり、枕の下に敷いて寝たり、地面を打って音の大きさを競ったりとその使い方は豊富だ。
鎌倉時代の武士の世の中になると、菖蒲は音通で「勝負」として好まれ、次第に男の子の健やかな成長を祈る日へと変化する。屋外には、武者絵と家紋の入ったのぼりを掲げた。のぼりとは、戦いの時に敵陣と自らを区別するように掲げられたものだ。これがのちに、鯉を模ったのぼりに変化する。
鯉のぼりは、中国の故事「登竜門」にまつわるもので、鯉が滝を登って龍になることに肖って立身出世を願うものとなり、さらに明治以降は一番上に五色の吹き流しをつけることで災難を避ける意味も加わった。
また、屋内には武具や武者人形が飾られた。これは邪気除けとして真菰の馬に蓬の人形を乗せ、鎧や槍を添えたものを門戸に飾る習慣に由来する。これらの人形は子供の身代わりになってくれるとして、端午の節句に欠かせないものとなっている。
粽の由来を紐解く。屈原の伝説と、日本への伝来
さて、この日は粽(ちまき)を食べる習慣があるが、端午と粽にはどのような関係があるのだろうか。
よく知られているのは紀元前3世紀の古代中国の屈原の逸話だ。詩人で王の側近として活躍した屈原は、政治的混乱さなかの失意の中で5月5日に川に身を投げた。これを嘆いた人たちが竹筒に米を入れて弔ったが、のちに三閭大夫と名乗る人物が現れて、そのままでは鮫竜(こうりゅう)に食べられてしまうので、楝(おうち)の葉に包んで5色の糸で巻いたものにして欲しいと要望があり、それが粽の起源となったようだ。
そもそも粽とは、植物の葉でもち米などを包み、糸や植物でとじられて、茹でたり蒸したりと調理されたもののことを指す。果たして屈原の頃から本当に粽が食べられていたか真偽は定かではないが、6世紀の東アジアの食文化を記した最古の料理書『斉民要術』に登場することが確認される。
日本で初めて文献に粽が現れるのは、9世紀後半の『宇多天皇御記』に「五月五日五色粽」とあり、その頃には日本に入ってきていたことがわかる。また、10世紀前半の『延喜式』に粽の材料として挙げられているのは、もち米・ささげ・かちぐり・甘づら・枇杷・筍。食感はもちもちとしゃきしゃき、そして味わいは甘みのある今でいうおこわのようなものだったのではないかと想像する。
しかし、なぜこの食べ物を粽と呼ぶのだろうか。ヒントは、私たちに身近な6月30日の夏越の祓にある。この頃に神社を訪れると、茅の輪という大きな輪っかの内外を右に左にくるくると歩くことになるが、この茅とは、植物の茅(ちがや)のことである。茅は邪気を払う植物であり、この葉で包まれていたことから「茅で巻かれたもの」すなわち、ちまきとなった。
「笹の粽」のルーツは、16世紀の京都にあり
しかし実際のところ、粽といえば笹で包まれているイメージが強いが、これは16世紀に餅屋として創業した京都の川端道喜が笹に変えたことがきっかけである。道喜は御粽司を名乗ることを許されている唯一の店であるが、それは応仁の乱で困窮した宮中に御朝物と呼ばれる、おはぎの原型となる食べ物を3世紀以上もの長きに渡って届け続けたことによる。
道喜の粽には、水仙粽と羊羹粽の2種類があり、いずれも米ではなく葛を使っていることに特徴がある。葛を使うようになったのも、やはり宮中との関わりで、吉野の葛を下賜されたためと言われている。米が原料の粽と比べ、柔らかい口当たりが夢心地だ。そして何より、イグサで5本1組に円錐形に美しく束ねられた粽は、口だけでなく目にもご馳走である。
家族で祝う節句、祈りがつなぐ健やかな日々
無病息災の目的で始まった、端午の行事。男の子の初めての節句を祝うようになったこの日は、大陸の思想が日本の民間風俗と相俟って今の形に落ち着いた。実は初節句を迎えた日、息子は体調を崩していたが、家族の祈りが届いたのか、幸いそれ以降深刻な風邪をひくこともなく元気に育ってくれている。
撮影(1-4枚目)/渞 忠之