自刃の朝に訪れた一瞬の静寂
さらぬだに 打ぬる程も夏の夜の 夢路をさそふ 郭公かな
[現代語訳]
寝る間もないほど短い夏の夜、夢路(死の世界の意味)へと誘いかけるように、ホトトギスが鳴いている
天正11(1583)年4月24日夜明け頃、落城間近の北ノ庄城(福井県福井市)でお市の方が詠んだ辞世といわれます。句には「郭公(カッコウ)」とありますが、これは「ホトトギス」のことです

このとき、北ノ庄城は羽柴秀吉の軍勢に囲まれていました。その数1万8000。「もはやこれまで…」と覚悟を決めたお市とその夫・柴田勝家は、4月23日夜に家臣や侍女80人ほどを集め、城内で最後の酒宴を開いたといいます。
夜も更けてくると、ひとりふたりと酒宴から去り、勝家とお市も寝室に入りました。勝家はお市にこう語りました。
「(あなたは)信長公の妹だから、秀吉も憐れみの気持ちを持って接してくれるはずだ。敵陣に案内し送り届けるので、どうか落ち延びてほしい」
お市は答えました。
「寄り添うと契ったからには、冥土黄泉(めいどよみ)までついて行きます。一緒に自害することを望んでいます」
その後、ふたりして少し寝入ったところにホトトギスが鳴き、お市は冒頭の句を詠みました。戦場の夜明けに訪れた静寂のなか、ホトトギスのさえずりが響く――戦いの非情さと鳥の鳴き声の優美さが交錯した、不思議な一瞬だったでしょう。
勝家はお市の辞世に、次のような返歌を詠みました。
夏の夜の 夢路はかなき跡の名を 雲井にあげよ山郭公
[現代語訳]
夏の夜の夢路のようにはかない人生だったが、せめて生きた証し(跡)と、この名を、ホトトギスよ空高い雲のある辺りまで響き渡らせてくれ
賤ヶ岳の戦いと北ノ庄城落城を克明に“描いた”『柴田合戦記』
上記の辞世および辞世を詠んだ状況は、賤ヶ岳の戦いと北ノ庄城落城の模様を記した『柴田合戦記』(別名『柴田退治記』)に所収されています。

賤ヶ岳の戦いは天正11年4月20日〜21日、近江国・賤ヶ岳(滋賀県長浜市)で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の軍事衝突です。
前年6月、本能寺の変で横死した織田信長の後継者として、織田家重臣たちは幼い若君・三法師を擁立すると、清須会議で決定していました。しかしその後、三法師の叔父にあたる信長の三男・信孝と柴田勝家が組み、二男・信雄(のぶかつ)と連携した秀吉と対立。戦いに突入することになります。
勝家は雪深い北ノ庄城にいたため、冬季は出陣できませんでした。その間、秀吉は賤ヶ岳近辺に砦を築くなど準備を進めました。また、いざ戦闘が始まると前田利家ら勝家陣営の有力諸将が相次いで秀吉に寝返るなど(または降伏とも)、戦況は柴田不利に傾き、勝家は北ノ庄城へ撤退し3000の兵と共に籠城します。
4月23日、秀吉は城を囲みました。軍勢は前述の通り1万8000。1万8000対3000では、もはや勝家に勝ち目はありませんでした。
『柴田合戦記』には創作や脚色が多く含まれている
『柴田合戦記』はこうした戦いの推移を、秀吉の御伽衆(側近の話し相手)だった大村由己(おおむら・ゆうこ)が記録したものです。最古の写本の奥書(巻末に記された日付など)に「天正十一年十一月」とあるため、賤ヶ岳の戦いと同年、由己によって執筆されたと推測できます。
ただし、由己は右筆(ゆうひつ/文官のこと)も兼ねていますから、秀吉に有利な事柄を書き連ねる傾向にあります。事実、『兼見卿記(かねみきょうき)』の著者で知られる同時代の公卿・吉田兼見(よしだ・かねみ)が『柴田合戦記』を、「『太平記』のような軍記物語」と評していることから、随所にフィクションが記載されていると見て良いでしょう。
実際、冒頭の辞世と返歌にしても、いったい「誰が聞き」「誰が記録した」のか不明です。秀吉の配下の者がその場にいたのか、あるいはそこにいた者が生き延びて由己に話して聞かせたのか――など、判然としないことが多くあります。
つまり辞世と返歌などは、実際にその場で詠まれたものなのか確認できず、由己による創作である可能性も否定できないのです。
お市と勝家の夫婦像は『柴田合戦記』をきっかけに生まれたか
しかしNHK大河ドラマなどは、お市が勝家と自害することを望む『柴田合戦記』をもとに仲むつまじい夫婦だったと描き出します。

現在放送中の『豊臣兄弟!』でも、ふたりが食事するシーンで「口に合いませぬか」と、勝家(山口馬木也さん)をいたわるお市(宮﨑あおいさん)が登場しました。武骨な武将と、気遣い上手な姫という関係性は、視聴者に定着しているといえます。実際のお市と勝家は年の差17〜25歳ほどもある、政略結婚によって結ばれた男女で、しかも結婚生活は1年にも満たないのに、互いを深く慈しみ合った――そう見ている人は多いでしょう。
この夫婦像は古来、そもそも『柴田合戦記』を通じて定着していったといえます。つまり『柴田合戦記』は戦国にも純愛があったと人々を魅了する、ラブストーリーの一面を持っているのです。
お市には、三姉妹と共に生き延びる選択もあったはずです。しかし、あえてそうしなかったのは、勝家との間にあった深い愛情に殉じたから――そう考える歴史ファンは、今も少なくありません。
勝家には12人の妾がいた?
『柴田合戦記』は続いて、辞世を交わしたお市と勝家が最期を迎える場面へと進みます。
北ノ庄城を総攻めする前夜、秀吉の陣では勝家の助命が協議されました。しかし秀吉は「庭先で虎を養うようなもの」と一蹴し、容赦ない攻撃を指示します。

城の「乙の丸」(二の丸の意味と思われる)は屍で埋めつくされ、次は「甲の丸」(本丸の意味と思われる)へと侵入してきました。勝家は甲の丸の兵たちが「息を切らしていた」(息絶えた)のを確認すると天守にのぼって梯子を外し、「これより腹を切る。その様子を静かに見届けよ」と叫びました。
天守にはお市をはじめ12人の妾、30人余の女房(世話係)もいました。12人の妾がいたというのに少し驚きを感じますが、それはともかく、勝家は自ら一人ひとりを刺し殺します。お市が何人目だったかは記されていません。
女性全員が絶命するのを見届けると、勝家は自らの腹を切って五臓六腑を掻き出し、配下の者に介錯されました。続いて家臣80人が差し違えたり、自害したりして、柴田は滅びるのです。
秀吉はその後、金沢城に滞在して戦後処理をはかり、同時に越後の上杉景勝が秀吉に臣従の意を示したのを見届け(秀吉と景勝の間には2月に和睦が成立していた)、5月17日に安土城に戻ったと書かれています。
お市の肖像画は茶々の記憶をもとに描かれた
意外なことに『柴田合戦記』はお市の娘たち、すなわち浅井三姉妹が北ノ庄城から脱出し、秀吉のもとで庇護を受けることになった等には、言及していません。ご存知の通り三姉妹の長女・茶々は、秀吉に深く関わっていくことになるのですが……。
その茶々が母のお市の菩提を弔ったのは天正17(1589)年12月でした。お市の七回忌であると同時に、実父・浅井長政の十七回忌にあたります。このとき、お市と長政の肖像画が制作され、高野山に納められました。現在伝わるお市の肖像(高野山持明院所蔵)は、茶々の記憶に残る母の姿を元に、追善供養のため描いたと伝わっています。
すでに茶々は秀吉の側室となっており、同年5月には鶴松を出産していました(鶴松は天正19/1591年死去)。
茶々が義父である勝家を弔っていないのは、浅井長政は信長の命によって滅ぼされたという名分が立ったのに対し、勝家は秀吉に直接逆らった謀叛人ゆえ、法要を営むなど、もっての他だったのでしょう。
お市が没し、茶々が生き残り、新たな時代へ
いずれにせよ『柴田合戦記』は、史実と創作が交錯する軍記物語でありながらお市と勝家の悲劇的な夫婦像を後世に伝えるなど、歴史的意義は小さくありません。その一方で茶々を取り上げるのを、あえて避けているようにも見えます。
このことは『柴田合戦記』が執筆された天正11年末の時点で、茶々の存在が秀吉に大きな影響を与えることに著者の大村由己が気づいており、あえて深く触れなかった――そんなふうにも見えます。
秀吉が豊臣姓を名乗り、茶々を側室に迎えると、時代は新たなうねりへと突入していきます。
アイキャッチ画像: 『太平記拾遺四十五 勝家の室於市之方』東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
参考資料:
草刈貴裕訳・著『現代語で読む豊臣秀吉軍記[天正記]』/戎光祥出版
黒田基樹『お市の方の生涯「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像』/朝日新書

