激動の天正10年の総決算
天正10(1582)年は激動の年でした。以下に主な出来事を3つ挙げますが、これだけ見ても歴史のターニングポイントだったとわかるでしょう。
・3月11日 武田氏滅亡/天目山の戦いで武田勝頼が織田軍に敗れる。
・6月2日 本能寺の変/明智光秀が織田信長を急襲し討ち果たす(信長嫡男・信忠も京で討たれる)。
・6月13日 山崎の戦い/中国地方から大返ししてきた羽柴秀吉が明智光秀を破る。
織田は難敵で目障りな存在だった武田をようやく滅ぼしたものの、3か月後には信長が本能寺で死去し、信長を殺した光秀がすぐさま秀吉によって討伐され、光秀の天下はわずか11日で終わるという目まぐるしさでした。
山崎の戦いの後、織田家中には重要な宿題が残りました。カリスマともいえる強大な権勢を誇った信長がこの世から消えたのですから、早急に後継者を決め、新体制で織田政権を運営していかねばなりませんでした。
その後継者問題と、織田有力家臣たちの所領再配分を話し合うため、主だった宿老たちが6月27日、清須城(愛知県清須市)に集結しました。これが清須会議です。

三法師が後継者となることは会議の前から決まっていた
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の時代考証を務める歴史家・柴裕之氏によると「清須会議」という名称は後世に生まれたもので、「秀吉書状には『清須にて談合』と記されている」そうです(『清須会議 秀吉天下取りへの調略戦』戎光祥出版)。
出席者は羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興の4人。信長の次男・信雄(のぶかつ)、三男・信孝(のぶたか)の両名も清須城にいたという説がありますが、同じく秀吉書状にはふたりは会議で取り決めた内容の報告を受け、そのうえで承認したとあるため、会議には参加していないと見られるそうです。

なぜ会議の場が清須城だったのか――これは織田家の3歳の若君・三法師がいたからです。
三法師は6月2日に京で死んだ信長の長男・信忠の子、すなわち信長の嫡孫です。織田家にとって最も重要な存在でした。というのも、信忠は天正3(1575)年に織田の家督を相続し、正式な当主となっていますから、信忠が没すれば必然的に三法師が繰り上がるわけです。つまり本能寺の変が勃発した時点で三法師が織田の後継者であることは、会議を開くまでもなく既定事項だった、と柴氏は述べています。
秀吉vs.勝家という対立構図を描いた『川角太閤記』
ところがこれまでの大河ドラマなどでは、信雄(信長次男)と信孝(三男)が家督(後継者)を巡って争っており、柴田勝家は信孝を推していた――そこに突然、「三法師様こそ正統」と秀吉が割って入ってきた、と描かれました。
しかし前述の通り、三法師が跡目となるのは決まっていたのですから、「秀吉が三法師を担いだ」は後世に創作された話だったことになります。では、いつ作られた話なのか――実は元和7〜寛永2(1621〜1625)年に成立した、秀吉を讃美する傾向が強い伝記『川角太閤記』(かわすみたいこうき)に載っています。以下は『川角太閤記 2巻』に載っている一文です。
[原文]
勝家被申出けるは三七様(織田信孝)可然からんと存候
筑前守殿(羽柴秀吉)勝家御見合は御尤かと存候其子細は城之助様(織田信忠様)の若君(三法師)、御座候上は吉法様(三法師)を御取可被成事御尤かと存候
只今は御幼少たりとは申ながら御一門中勝家扠其外於同心仕は御幼少なるはくるしからずなし
[書き下し]
柴田勝家は「三七様が後継者にふさわしい。年齢の頃合いといい、見識や機転の利き方といい、申し分ない」と発言した。
それに対し羽柴秀吉は「ご意見はごもっとも。信孝様は少しの欠点もありません。しかしながら城之助様の若君がいらっしゃるうえは、吉法様を跡継ぎになさるのが当然と存じます。今はまだ御幼少ですが御一門、勝家殿、そしてその他同心する者たちにとって、主君が幼いことは少しも困ったことではありません」
秀吉の意見に丹羽長秀と池田恒興が同意し、勝家も渋々ながら従った――そしてその後、秀吉が三法師を抱いて皆の前に現れると、宿老たちは三法師に忠誠を尽くしているようで、奇しくも秀吉に頭を下げる格好にならざるを得なかった――『川角太閤記』が記す顛末は、私たちが知る清須会議そのものです。
しかしこの場面も江戸時代初期に創作された“秀吉びいきの伝記”と考えられ、本当に起きたのか、疑ってしまいます。事実はここまで劇的だったとはいえないのではないでしょうか。
信雄と信孝の兄弟仲は悪い
三法師が織田の家督を継ぐことは会議以前に決まっていた――このことを補完する史料に、奈良・興福寺の塔頭(たっちゅう)・多聞院の僧侶たちが残した日記『多聞院日記』があります。
そこには羽柴・柴田・丹羽・池田の4人が「三法師に家督を継承させると決定」したうえで、あえて三法師の名代(みょうだい/代理)を立てず、4人プラス堀秀政(ほり・ひでまさ)を三法師の傅役(もりやく/世話係)に任命し、5人の合議制で政権を運営することになったと記しています。
実をいうと、信雄と信孝はこの「三法師の名代」をどちらが務めるかで、争っていたらしいのです。名代に就けば織田家の実質的な最高権力者ですからね。しかし、宿老たちは2人とも名代から外す決定を下しました。理由は下記が考えられます。
信雄と信孝は異母兄弟でした。信雄の母は兄の信忠と同じですから、信長→信忠(兄)→信雄(弟)という正統な血統を持つ人物です。ところが過去に戦で失態を起こし、信長に咎められていました。血筋は申し分ないが、幼い当主の名代とするには心許なかったのでしょう。
一方の信孝は、秀吉と共に明智光秀と戦った山崎の戦いで便宜上の総大将を務め、逆賊を討伐した功績がありました。ただし側室が産んだ子で、当時の慣習でいえば信雄より格下――血統が劣っていたわけです。

「帯に短し襷に長し」とでもいうのか、どちらも決め手に欠けていたのでしょう。それゆえ名代に起用できなかった、というのが真相ではないでしょうか。
清須会議は「秀吉の思うがまま」
柴裕之氏によると、4人の宿老プラス傅役の堀秀政と、信雄および信孝、そして徳川家康が連携して政権に当たるという誓約が、会議後に交わされたといいます。
その一方で、この合議・連携という仕組みを「羽柴の思うがままの結果」と『多聞院日記』は記しており、秀吉に有利な決定だったことを、ほのめかしています。
例えば領地の再配分を見ると、山城(京都府南部)・丹波(京都府中部・兵庫県北東部など)・河内東部(大阪府東部)など、秀吉は畿内の要衝をすべて手中に収めています。これらの一部はもともと明智光秀の領地でしたから、光秀を破った功績が決め手となったのでしょう。
加えて丹羽長秀と池田恒興は、山崎の戦いで秀吉と行動を共にしていました。秀吉の強いリーダーシップと行動力を身をもって実感しており、もはや一目置かざるを得なかったのかもしれません。
その半面、柴田勝家にとっては秀吉への敗北を意味していました。
勝家とお市の結婚には秀吉も納得していた
ただし勝家は、会議の“付帯事項”として信長の妹・お市の方を娶ります。

この結婚はどういう経緯で決定したのでしょう。
大河ドラマなどでは会議で旗色悪しと見た織田信孝が叔母のお市に、勝家の味方になってくれるよう頼み込んだとか、このままでは秀吉にこの身を奪われかねない危機を察したお市が、勝家と共同戦線を張るべく嫁いだなど、さまざまな形で描かれてきました。こうした描き方は、ふたりの婚儀が秀吉の歓迎する事態ではなかったことを示唆しています。
しかし真相は――どうも秀吉は、お市と勝家が夫婦になるのを、勝家本人と申し合わせていたらしいのです。実際、そのように読める勝家の書状(写し)が現存します。
[原文]
一つ、羽筑(羽柴秀吉)と申し合わす筋目、相違無き事
付けたり縁辺(えんぺん)の儀、弥其の分に候
[書き下し文]
秀吉と申し合わせた筋目(約束事)に相違はない。縁辺の儀(おそらくこの言葉が結婚を指す)も予定通り。
『豊臣兄弟!』のもうひとりの時代考証担当である黒田基樹氏は自著『お市の方の生涯』(朝日新書)で、推測と断ったうえで「秀吉は信長五男の秀勝を養嗣子としており、丹羽長秀の妻は信長の庶兄・信広の娘で、嫡男の長重は信長の娘と結婚している。織田一族と姻戚関係を有していなかったのは勝家だけ」――それゆえ宿老たちが配慮し、お市との婚儀に合意したのではないか、と分析しています。
秀吉が恋焦がれていたお市を勝家が掻っ攫った(かっさらった)などという話は、男女の三角関係を連想させる劇的な展開ですが、時は戦国時代――婚姻はあくまで政略です。
そして、この政略結婚によって、お市と勝家は悲劇的な結末を迎えます。特にお市にとっては、嫁いだ先が2度に渡って滅びることになるのですから、何ともやるせないですね。
アイキャッチ画像: 清須会議の終盤に三法師を抱いて登場した秀吉。『絵本太閤記4編巻1』国立国会図書館所蔵
参考資料:
柴裕之『清須会議 秀吉天下取りへの調略戦』/戎光祥出版
黒田基樹『お市の方の生涯「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像』/朝日新書

