2020年大河ドラマ主人公・明智光秀とは何者なのか? 謎に包まれた前半生に迫る

2020年大河ドラマ主人公・明智光秀とは何者なのか? 謎に包まれた前半生に迫る

目次

来年、2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公は、長谷川博己演じる戦国武将の明智光秀(あけちみつひで)。本能寺の変で主君の織田信長(おだのぶなが)を討ったことはあまりにも有名だが、教養があり、指揮官としても優れた武将で、羽柴秀吉(はしばひでよし)と並ぶ織田家の出世頭であった。しかし一方で、非常に謎の多い人物でもある。素性を含め、織田家につかえるまでの前半生がよくわからず、本能寺の変の動機もわかっていない。さらに彼の死についても、さまざまな伝承がある。はたして光秀とは何者なのか。今回は前半生に絞って、彼の出自(しゅつじ)や織田家につかえるまでの行動を、推測もまじえて探ってみよう。

東京日本橋の麒麟像

明智光秀は美濃の名族・土岐氏の一族なのか

五月雨

本能寺の変の直前に詠んだ句

「ときは今 あめが下しる 五月哉(さつきかな)」
天正10年(1582)5月28日、本能寺の変の3日前。明智光秀は山城国(現、京都府)の愛宕(あたご)神社にて、戦勝を祈願する連歌会を開いた。光秀が詠(よ)んだ発句(ほっく、巻頭の第一句)が冒頭の句である。普通に読めば、「今はまさに雨がしたたる五月である」という何でもない意味だが、この句には別の意味が隠されていると古来語られてきた。

つまり「とき=土岐」、「あめが下しる=天が下知る」の意味が込められていて、「今まさに、土岐氏の一族である明智が、天下を統(す)べる五月である」と、自ら天下を取る意志を詠んだものと解釈できるという。その真偽はともかく、明智光秀は土岐氏の一族であると信じられてきたからこそ、こうした解釈も生まれるわけなのだが、実際はどうなのだろうか。

水色桔梗の旗

美濃の源氏・土岐氏とは

そもそも土岐氏は摂津源氏の流れで、鎌倉時代に源光衡(みなもとのみつひら)が美濃国(現、岐阜県)土岐郡に土着して土岐氏を称するようになったという。光衡が戦いの際、兜に桔梗(ききょう)の花を差していたことに由来して、家紋は水色桔梗。この家紋は明智光秀も用いている。

室町時代に入ると、土岐氏は足利(あしかが)将軍より美濃の守護職(しゅごしき)に任じられた。室町幕府において重んじられる家柄であったが、土岐頼芸(よりあき、よりなりとも)が天文11年(1542)に、配下の斎藤利政(さいとうとしまさ、道三〈どうさん〉)に美濃から追放されて没落する。なお土岐氏の一族には明智氏、妻木(つまき)氏、浅野(あさの)氏、石谷(いしがい)氏などがおり、光秀が明智氏の血筋であるならば、確かに土岐氏の流れをくむことになる。

室町幕府奉公衆を務めた明智氏

次に土岐氏の支流・明智氏について見てみよう。系図集の『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』によると、土岐氏の祖である光衡から3代後の頼貞(よりさだ)の次男の子が「明地」姓を称したという。明地は後に明知、そして明智と書かれるようになった。系図上の異説もあるが、土岐氏から派生した一族に明智氏がいたことは間違いない。

明智氏は複数の者が、室町幕府の奉公衆(ほうこうしゅう)を務めていることが、奉公衆の名簿から確認できる。奉公衆とは京都の足利将軍の直臣であり、平時には御所内の諸役、将軍外出の際の供をし、合戦の際には将軍の親衛隊となる直属部隊である。将軍の直臣という意味で、奉公衆の格式は守護に匹敵するものであったという。

つまり明智氏は室町時代、本家の美濃守護土岐氏と遜色(そんしょく)ない格式であり、誇り高き一族だったのではないかと想像できる。この明智氏の末裔(まつえい)が光秀である、となれば話は早いのだが、残念ながらそうはいかない。なぜなら、光秀の父親が誰なのか、はっきりしないからだ。諸系図が示す父親の名はまちまちで、いずれも一次史料(同時代史料)で存在の裏づけがとれないのである。

光秀の父親は誰なのか

諸説ある光秀の父親

光秀の父親の名については、主なものだけでも3つある。
・光綱(みつつな)……「明智系図」(『系図纂要』所収)、「明智氏一族宮城家相伝系図書(みやぎけそうでんけいずがき)」(『大日本史料』第十一編之一所収)、及び『明智軍記』
・光隆(みつたか)……「明智系図」(『続群書類従〈ぞくぐんしょるいじゅう〉』所収)、「明智系図」(『鈴木叢書』所収)
・光国(みつくに)……「土岐系図」(『続群書類従』所収)

このうち「明智氏一族宮城家相伝系図書」には、光綱についての注記に「本名光隆」とあるので、光綱と光隆が同一人物で、改名したとも考えられる。しかしながら、これらの系図は江戸時代に作成されたものであり、鵜呑みにはできない。一般に系図の創作・改ざんは珍しいことではなく、一次史料で光秀の父が光綱=光隆であると証明できる裏づけはない。それだけでなく、明智光綱=光隆がはたして実在の人物なのかすら、疑われているのである。

父親は刀鍛冶説も

系図以外に伝わる父親の説としては、幕府奉公衆を務める進士(しんじ)氏の一族、信周(のぶちか)とするもの、また若狭(現、福井県南部)の刀工・藤原冬廣(ふじわらふゆひろ)とするものもある。いずれにしても確証はなく、現段階で光秀の父親を特定するのは難しい。従って、光秀が土岐氏の支流明智氏の一族であることも、証明できないのが実情なのだ。

光秀の出生地はどこか

恵那市龍護寺の出生地碑

美濃にある2つの明智城

父親がわからないのであれば、出生地から光秀の素性を探ることはできるだろうか。光秀が土岐氏の支流明智氏の一族だとすれば、当然ながらゆかりの地は美濃、現在の岐阜県ということになる。ところが岐阜県には、明智城が2つ存在し、どちらも光秀出生地と伝わっているからややこしい。それぞれを見てみよう。

・明知(あけち)城(岐阜県恵那市明智町城山)
宝治元年(1247)、明知遠山(とおやま)氏の祖とされる遠山景重(かげしげ)が築いたとされ、以来、恵那地方に勢力を広げた遠山氏の重要な城であった。城内には「光秀産湯の井」と称する井戸や、「光秀学問所」の跡に建てられたという天神神社などがあり、近くの龍護寺には光秀の供養塔や、光秀の直垂(ひたたれ)とされるものが伝わっている。

・明智城(岐阜県可児市広見・瀬田)
現在、明智の地名は残っていないが、かつて明智荘という荘園があった。康永元年(1342)、土岐光衡の流れをくむ明智二郎頼兼(よりかね)が城を築き、明智城、または長山(ながやま)城と呼ばれたという。城址北麓の天竜寺には、光秀の巨大な位牌(いはい)と明智氏歴代の墓所がある。

恵那市の明知城はあくまで遠山氏の城であり、遠山氏は土岐氏の流れではないため、光秀との関係は薄いように思われるが、実は戦国時代の明知遠山氏の当主である遠山景行(かげゆき)を、明智光秀の叔父にあたる明智光安(みつやす)と同一人物とする説がある。明智光安が遠山氏に養子に入ったとするものだが、すると光秀は叔父の養子先で生まれたということだろうか。特別な事情がない限り、常識的には考えにくいように感じる。

可児市の明智城跡

一方の可児市の明智城は、土岐明智氏の城であり、光秀が土岐氏の支流明智氏の出身だとすれば、ここで生まれた可能性は高いだろう。しかし光秀自身が土岐明智氏と断定できない以上、所詮、それも仮定の話にすぎない。光秀の生い立ち、若い頃のエピソードは『明智軍記』などにも記されてはいるのだが、それについては後述する。

その他の出生地の説

2つの明智城の他にも、光秀出生地の伝承はある。主な説を紹介しよう。

・多羅(たら)城(岐阜県大垣市上石津多羅)
父親説で紹介した進士信周(しんじのぶちか)に関わる説で、「明智氏一族宮城家相伝系図書」などに記されている。それによると、光秀は享禄元年(1528)に美濃国石津郡の多羅で生まれ、父は進士信周、母は明智光綱の妹であったという。しかし明智家当主の光綱が病弱で、40歳を過ぎても子に恵まれなかった。そこで光綱の父で隠居していた光継(みつつぐ)は、外孫の光秀を光綱の養子に迎え、明智の家督を継がせることにしたのだという。

進士信周という人物の詳細は不明だが、進士氏は室町幕府の奉公衆を務めており、同じく奉公衆であった明智氏とつながりがあってもおかしくはない。光秀の家臣にも、譜代衆として進士作左衛門(さくざえもん)の名がある。なお石津郡の多羅城の正確な場所は、特定されていない。

・近江国多賀(滋賀県犬上郡多賀町佐目)
最近、話題になった新説で、出生地は岐阜県ではなく、滋賀県の多賀町だとする。滋賀県教育委員会文化財保護課によると、江戸時代前期に記された『淡海温故録(おうみおんころく)』に、「左目(さめ、現在の多賀町佐目)には美濃が本国だが、土岐氏に背いて浪人し、近江の六角(ろっかく)氏を頼った明智氏が移り住み、移住して2~3代後に明智十兵衛光秀が生まれた」と記されているという。

実際、佐目地区には現在も「十兵衛屋敷跡」をはじめ、光秀にまつわる伝承が残されており、新たな出生地候補として名乗りを上げている。はたして「明智氏が土岐氏に背いて美濃を離れた」という記述の裏づけがとれるのかが、この説のポイントとなりそうだ。

さらに出生地説は、岐阜県山県(やまがた)市中洞(なかほら)にもある。伝承では土岐元頼(もとより)と同地の豪族・中洞源左衛門(げんざえもん)の娘との間に生まれたのが光秀であるという。しかし、そうであれば光秀は明智との血のつながりはないことになる。また土岐元頼は明応5年(1496)に敗死しているが、光秀の誕生はそれより後とされているので、つじつまが合わない。ただ、同地には光秀が山崎の合戦後に死んでおらず、身を潜めていたという伝承もあり、光秀の墓も存在する。なぜこうした伝承が存在するのか、興味深い土地である。

このように出生地も諸説ふんぷんという状況である。「土岐明智の血筋であるのかも、出生地もはっきりしないということでは、結局、何もわからないではないか」と思われるだろうが、全くその通りといわざるを得ない。しかし、「それでは、これまで小説やドラマで描かれてきた光秀の前半生は何だったのか」と思われる方もいるかもしれない。従来、光秀の通説として知られてきた生い立ちや、若い頃のエピソードは、実は『明智軍記』などの軍記物を下敷きとして語られてきたものなのだ。次に、それについて見てみよう。

「悪書」と呼ばれる『明智軍記』が描いた光秀

作者不詳の『明智軍記』

『明智軍記』とは、光秀の死後100年以上経った江戸時代中期の元禄6年から同15年(1693~1702)頃に書かれたという、光秀を主人公とする軍記物である。作者は不詳で、全10巻から成る。その記述には誤りが多く、戦国史研究の権威として知られた高柳光壽(たかやなぎみつとし)から「誤謬(ごびゅう)充満の悪書」と評された。一方で、光秀を中心にした軍記物が乏しい中では貴重な存在であるともいえ、同書でしか知りえない情報も少なくないとする研究者もいる。では、『明智軍記』には光秀の前半生はどう描かれているのか。

光秀は享禄元年(1528)生まれか

「逆順二門無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来って一元に帰す」
これは『明智軍記』巻第十に載る、光秀の辞世とされるものである。本能寺の変を起こし、山崎合戦に敗れた天正10年(1582)に55歳であれば、光秀の生年は逆算して享禄元年(1528)ということになる。

明智十兵衛光秀は、明智城城主光綱の子に生まれた。光綱は光秀が若年の頃に他界したため、光綱の弟(光秀にとって叔父)の光安(みつやす)が光秀の後見役を務める。当時の明智家は、土岐氏に代わって美濃国主となった斎藤道三(さいとうどうさん)に仕えていた。なお、『美濃国諸旧記』には、斎藤道三の室である小見(おみ)の方は明智光綱の妹(光秀の叔母)とあり、事実であれば小見の方が生んだ濃姫(のうひめ)と光秀はいとこになる。

明智城落城

弘治2年(1556)、斎藤道三は息子の義龍(よしたつ)との戦いに敗れ、討たれた。光秀は道三に味方していたため、斎藤義龍の軍勢が明智城にも攻め寄せる。勝ち目はなかったが、この時、叔父の光安が光秀に「命をまっとうし、明智の名を興せ」と告げ、自ら防戦する間に、光秀と光安の息子・弥平次光春(やへいじみつはる)、光安の甥・次郎光忠(じろうみつただ)を城外に脱出させた。明智城は落ち、光安は討死。光秀らは敵の目をかすめて、越前(現、福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)を頼って落ち延びた。時に光秀28歳。

諸国武者修行と鉄砲

朝倉義景のもとで500貫の地を拝領した光秀は、翌弘治3年(1557)から永禄5年(1562)までの足かけ6年、諸国を遍歴して兵法を修行した。北は大崎、南は薩摩まで足をのばしたという(その信憑性は極めて低い)。

永禄5年に越前に戻った光秀は、加賀(現、石川県)の一揆勢と戦う朝倉軍に加わる。この戦いで光秀は、鉄砲の集中運用で一揆勢の度肝を抜き、また的確な進言を行って朝倉義景を大いに驚かせた。光秀の鉄砲の腕前に感嘆した義景が、さらに披露するよう求めたため、光秀は的に向けて鉄炮を百発放ち、ことごとく命中させる。義景は大いに満足し、鉄砲隊100人を光秀に預けた。

越前を去り、信長のもとへ

義景に気に入られた光秀だったが、それを快く思わない朝倉家の家臣が義景に、「光秀は後々、主君をだます野心を抱いている」と讒言(ざんげん)、義景もそれを信じてしまう。また、織田信長によって城を追われた斎藤龍興(たつおき、明智を滅ぼした義龍の息子)が朝倉を頼ってきたため(史実では龍興が朝倉を頼るのは5年後)、光秀は朝倉家を去り、岐阜の織田信長のもとに向かうことを決意する。時に永禄8年(1565)、光秀38歳であった。

以上が、「悪書」とされる軍記物『明智軍記』が描く光秀の前半生のあらましである。

推測と想像で補うしかない光秀の前半生

光秀が史料に登場するのは13年間

明智光秀の名が一次史料で確認できるのは、織田信長に仕えた後の永禄12年(1569)4月14日付、賀茂荘中宛ての木下秀吉(きのしたひでよし)との連署状である。『明智軍記』の光秀の生年に基づけばこの時、年齢は42歳。つまり光秀の生涯が史料で裏づけられるのは、42歳から天正10年に55歳で生涯を閉じるまでのわずか13年間に過ぎないことになる。もちろん生年もこの年齢も確たる裏づけはないので、目安に過ぎない。ちなみに『明智軍記』の生年が正しければ、信長よりも6歳年上だったことになる。

永禄12年以前の光秀については、土岐明智氏との関係も、父親の名も、出生地も特定できず、事実誤認と創作が入り混じった『明智軍記』などに前半生が描かれるのみである。従って、前半生は可能性を推測し、想像で補うことしか現段階ではできない。

朝倉氏の城下・越前一乗谷

足利義昭の足軽だったのか

そんな中、一つの可能性として、光秀は15代将軍となる足利義昭(よしあき)に仕える足軽だったのではと思わせる史料がある。「永禄六年諸役人附」というもので、前半が13代将軍足利義輝(よしてる)に仕える者たち、後半が足利義昭に仕える者たちを列挙している。その後半の足軽衆の中に「明智」と記されているのだ。足軽といってもいわゆる一兵卒のことではなく、直臣として将軍を護衛する役目の者をいう。史料のタイトルには「永禄六年」とあるが、後半部分が記されたのは永禄10年(1567)から翌年のことで、足利義昭が朝倉義景を頼って越前に滞在していた時期にあたる。「明智」が光秀を指すのであれば、彼はこの時期、足利義昭に仕えて越前にいたことになるだろう。なお、同名簿の御供衆(おともしゅう)には、光秀と深い関わりを持つことになる細川藤孝(ほそかわふじたか)の名もある。

織田信長像

光秀が義昭と信長を結びつけた可能性

当時、足利義昭は有力な大名のバックアップを受けて上洛し、将軍に就任することを望んでいた。そこで近江の六角氏、若狭の武田氏を頼ろうとするがうまくいかず、越前の朝倉氏を頼ったのである。しかし朝倉義景も上洛には乗り気でなかった。

ここからは推測になるが、「それならば岐阜の織田信長を頼るべき」と提案したのが、光秀ではなかったか。実は朝倉氏を頼る前に、細川藤孝が窓口となって信長と交渉したが、当時の信長は美濃攻めを優先し、交渉は失敗している。しかし美濃攻略を終えた今ならば、信長は乗ってくると光秀は確信していたのだろう。なぜ、光秀が確信を持てたのか。それは故郷・美濃の最新情報を仕入れることのできる人脈があったと思われるからだ。信長の正室濃姫がいとこであるのが事実であれば、信長の「天下布武」構想をいち早くつかんでいたかもしれず、濃姫以外にも複数のパイプがあったことは想像できる。その結果、光秀が交渉の窓口を託され、光秀の手腕を信長が認めたことが、二人の運命的な出会いになったのではないだろうか。

なぜ大切にされ、慕われているのか

光秀の前半生に良質な史料が残っていないのは、謀叛人となった光秀とつながりがあることをはばかった関係者が、処分してしまった可能性もあるだろう。とはいえ不思議なのは、一方で出生地説も墓所も複数存在しており、謀叛人であるはずの光秀が、多くの地で大切にされ、慕われている雰囲気があることだ。これは光秀に対し、少なからぬ人々が何らかの共感を抱いているからであるようにも感じられる。2020年の大河ドラマの主人公となるのも、そうしたことと無縁ではないのかもしれない。

大河ドラマ「麒麟がくる」には、光秀の叔父・光安(演・西村まさ彦)も登場するとのことなので、ある程度、ストーリーに『明智軍記』のエピソードも取り入れているのかもしれないが、果たして光秀の前半生をドラマとしてどう描くのか、楽しみに観てみたい。

参考文献:渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』、小和田哲男『明智光秀と本能寺の変』他

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