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2020.03.26

鎌倉時代の天皇・後鳥羽上皇の手相を占う。鑑定結果と生涯や時代背景も紹介

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歴史上人物の中でも、特に身分が高かった人は、さまざまな個人情報が残っています。

生年月日や生まれた時間や場所、直筆の文書。住所や病歴、恋愛遍歴。近代以降なら写真や音声・映像も残っているでしょう。

私たちが過去の人物を調べる時に、まず気になるのは「何をしたのか」「どんな性格だったか」ではないでしょうか。

「何をしたのか」は、さまざまな客観的な資料が残されているため、比較的調べやすいです。

けれど「どんな性格だったか」は、たとえそれが同年代を生きた人物の評であっても、知る事は難しいです。それは同じ人物でも見る人によってバイアスがかかるからです。

現代で生きる私たちでも、「あの人の事を、私はすごく優しい人だと思うけど、Aさんはすごくお節介な人だと言う。Bさんはハキハキとしている人だと言っているけれど、Cさんは空気が読めないだ人と言う」という事はよくあると思います。

それと同じで、歴史上の人物も「あの人は冷酷で陰険な性格だ」と書かれていても、それを書いた人のフィルターが掛かっているので、実際は「合理的な考えの元に行動する、無口で冷静な性格」なのかもしれません。

「性格」というのは実にやっかいなものです。自分の「性格」ですら正確に把握している人はどれくらいいるでしょう。その自分の性格を知るために「占星術」や「人相学」「手相学」といった統計学的な占術を使う人もいます。

ネット上にある無料占いをして「ここは当たっている」「ここは当たってないな」と、「自分とはこういう人間だ」と知る参考にしたことがある人も多いのではないでしょうか。

そこで、歴史上人物の本質的な性格を知るために「占い」に頼ってみました!

波乱万丈! 後鳥羽上皇の生涯

数多くの歴史上人物がいる中で、後鳥羽上皇を選んだのは、私が鎌倉時代が好きだということと、鎌倉時代を生きた後鳥羽上皇の手形が残っているからです。

大阪府史蹟名勝天然記念物調査報告書 第11輯 水無瀨神宮文書 国宝 後鳥羽天皇宸翰御手印置文

今回の鑑定結果は、後鳥羽上皇の事を知っていれば知っているほど、かなり驚く内容なので、まずは後鳥羽上皇の生涯を紹介します!

鳥羽上皇が生まれた頃の情勢は?

後鳥羽上皇は源平合戦がちょうど始まった頃、治承4(1180)年7月14日に生まれました。当時の天皇は、後鳥羽上皇の異母兄である「安徳天皇」です。

安徳天皇の母は平清盛の娘で、清盛は天皇の祖父として絶大な権力を得ていました。そして父方の祖父でもある後白河法皇がそれに対抗します。

しかし、アンチ平家勢力が拡大し、鎌倉には源頼朝、信州には木曽義仲といった源氏一族が周辺の武士たちを集めていました。

そして寿永2(1183)年、京都に木曽義仲が攻めて来て、平家一門は安徳天皇と、皇位継承に必須アイテム「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」「八咫鏡(やたのかがみ)」「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」の「三種の神器」を持って、西へと逃げて行きました。

当時の政治には「天皇」がシステムとして組み込まれていたため、天皇不在のままでは政治が停滞します。そこで新たな天皇を選ぶことになりました。

3歳の幼帝誕生! 決め手はあざとい可愛さ!?

候補として挙がったのは、安徳天皇の従兄にあたる、18歳の北陸宮(ほくろくのみや)と、安徳天皇の異母弟、4歳の惟明(これあき)親王、3歳の尊成親王(のちの後鳥羽上皇)です。

どの候補も後白河法皇の孫ですが、その立場には差がありました。惟明親王・尊成親王の父は天皇でしたが、北陸宮の父は天皇にも皇太子にもなっておらず、母の名も伝わっていないほどです。

また尊成親王の母は、宮中の女官のトップでしたが、惟明親王の母の身分は低かったため、「母の身分」が子供の地位に直結するこの時代の考え方では尊成親王が有利です。

それでも北陸宮や惟明親王を推す人は多くいたのですが、後白河法皇は、周囲の意見を無視して尊成親王を天皇に決めてしまいました。

その時の様子を、「平家物語」ではこう描いています。

惟明親王と尊成親王が後白河法皇の前にやってきました。二人とも後白河法皇とは初対面です。

後白河法皇は幼い孫たちに「こちらへおいで」と呼びかけるのですが、惟明親王は知らないおじいさんが怖かったのか、乳母にしがみついて離れません。

対して尊成親王はトコトコと近づいて膝に座り、甘えました。

後白河法皇は自分に懐いた尊成親王に、息子の高倉天皇の幼い頃を思い出し、この子を天皇にすると決意しました。

*こんな風になつかれたら、ついつい贔屓しちゃう!

こうしてわずか3歳のおこちゃま天皇が誕生します。しかし、天皇即位の儀式に必要な「三種の神器」は平家に奪われたままです。そこで後白河法皇は、三種の神器なしで即位の儀を決行してしまいました!

源平合戦が終わった後、鏡と勾玉は後鳥羽天皇の元に帰ってきましたが、剣は平家と共に海に沈んだまま見つかりませんでした。これがのちのち、後鳥羽のコンプレックスとなります。

18歳で息子に皇位を譲り、上皇となる

源平合戦が終わっても、朝廷の実権は祖父の後白河法皇が亡くなる建久3(1192)年まで、後鳥羽天皇はほぼお飾り天皇でした。

後白河法皇の死後、後鳥羽天皇の治世となるかといえば、そうではありません。その頃、後鳥羽天皇はまだ12歳で、実権は大臣である九条兼実(くじょう かねざね)が握っています。

しかし後鳥羽天皇が16歳となった建久7(1196)年、「建久七年の政変」と呼ばれる、朝廷最大級の政権交代が行われました。

この大改革は前年に、九条兼実のライバルだった土御門通親(つちみかど みちちか)の娘(正しくは養女)が、後鳥羽天皇の第1皇子を出産した事が発端です。これにより九条兼実一派は朝廷から追い出されてしまいました。

そして建久9(1198)年、18歳の後鳥羽天皇は、3歳の息子に皇位を譲って土御門天皇とし、18歳の若い上皇が誕生しました。

それから4年後、建仁2(1202)年に九条兼実は出家し、土御門通親は急死。すでに後白河も頼朝も亡くなっています。ついに後鳥羽上皇が名実ともに全ての実権を握る世が始まりました。

学問も武芸もマスターレベル! 完璧超人だった後鳥羽上皇

後鳥羽上皇にはさまざまなエピソードが残っています。

和歌や漢詩に精通し、蹴鞠も乗馬もプロ級。

学問だけでなく、武芸もたしなむレベルを超えていて、宮中に忍び込んだ盗賊を自ら撃退したと言うエピソードまであります。

これらは「神器なき即位」となってしまったことによる、コンプレックスの裏返しだとされています。

後鳥羽上皇は「朝廷の権威」にものすごくこだわっていて、上皇自ら完璧でいなければならないと考えていたようです。

特に、海に沈んだ「草薙剣」を取り戻せなかったからか、刀剣に関しての執着はすさまじいもので、鍛冶師を何人も採用して刀を作らせ、自らも刀を作っていたほどでした。

後鳥羽院が自ら焼き入れした「菊御作」 今村押形 第2巻

勝てると思ってたのに! 後鳥羽上皇の誤算

そんな後鳥羽上皇が気に入らなかったのが「北条氏」です。

鎌倉幕府とのやりとりは、源頼朝に貴族の身分があったから、ギリギリ対等な政治家同士としてやっていたことです。

ところが、頼朝の息子たちは若くして亡くなり、鎌倉幕府内で台頭してきた北条義時に後鳥羽上皇はイライラしました。

出自の怪しい田舎侍が、朝廷相手にあれこれと対等なやりとりをしようとするのが、気に入らなかったのです。

そして後鳥羽上皇が41歳となった承久3(1221)年、ついに北条義時を追討せよという命令書を発行しました。

しかし、北条氏は「北条義時を追討するということは、鎌倉幕府が無くなるということだぞ!」と命令書の論点を巧みにすり替えて、鎌倉幕府を守るため多くの武士たちが決死の覚悟で反撃をしました。

当時、朝廷に逆らうということは、それこそ死を意味していました。

幕府側も誰も「勝てる」とは思っておらず、それでも自分たちの土地や権利を守るために、せめてもの抵抗の意志を示そうと立ち上がったのです。

しかし結果はなんと鎌倉幕府の圧勝。

朝廷は源平合戦以降40年以上もの間、戦を経験していなかったにもかかわらず、戦のプロである武士の力を「身分が低いから」という理由だけでナメていたことが原因でした。

この戦の勝利により、鎌倉幕府はますます朝廷に対して強気で口出しできるようになり、後鳥羽上皇は隠岐島へと流刑にされ、その息子たちもそれぞれ遠くへと流されていきました。

島で穏やかに過ごす晩年の後鳥羽上皇

隠岐島に流された後鳥羽上皇は、延応元(1239)年に59歳で亡くなるまで、静かに余生を過ごしていました。隠岐島の住民たちとの関係も良好で、現在でも島の人たちに「ごとばんさん」と呼ばれて親しまれています。

そして今回鑑定に使った「後鳥羽上皇の手形」は、亡くなる直前に書かれた「土地の権利書」です。

隠岐島で身の回りの世話を焼き、尽くしてくれた水無瀬親成(みなせ ちかなり)に、各地の荘園や自分の一番のお気に入りだった「水無瀬離宮(現・水無瀬神宮)」を譲り、菩提を弔ってもらうことが書かれています。

そして死後、後鳥羽上皇は火葬され、遺骨は隠岐島と京都の大原、そして水無瀬神宮に葬られています。

後鳥羽上皇の手相鑑定

さて、いよいよ手相の鑑定に入ります。後鳥羽上皇の手形は何を物語っているのでしょうか。

今回鑑定してくれた方は、歴史は好きではありますが鎌倉時代については「いい国つくろう鎌倉幕府!」ぐらいであまり詳しくありません。なので、あえて後鳥羽上皇の情報を与えずに手相を見てもらいました!
それでは、鑑定結果を聞いてみましょう!

可哀想すぎてゾッとした

「可哀想すぎてゾッとした」

いきなり、すごい感想が飛び出してきました。

この人、本っ当~~~~に、親の縁が薄い

「この人、本っ当~~~~に、親の縁が薄い! かなり小さい頃から両親から引き離されて、寂しい思いをずっとしてきたね」

確かに、後鳥羽上皇は生後半年ぐらいで父は亡くなり、3歳から天皇として政治家たちに囲まれていました。たしかに幼い子にとっては寂しい状況だったでしょう。

自分のやりたい事を全部否定された

「自分の意志を持ちはじめた頃、自分のやりたい事を全部否定された」

後鳥羽上皇の少年時代は、「後白河法皇」「九条兼実」「土御門通親」といった天皇をしのぐ強力な権力者が常にいました。確かに自分の意見を通すのは難しそうです。

優しすぎるから言いなりになっちゃう

「もの凄く優しい。優しすぎるから言いなりになっちゃう。文句は言わない。だけど恨み妬みも強いね」

これはちょっと衝撃的です。後鳥羽上皇は、最高権力者としてわがままを言って周りを振り回していたイメージがあるからです。

けれどそれらのイメージは、実は誰かのバイアスが掛かっていたのかもしれません。わがままに見える振舞も「権力者ならこうあるべき」という誰かの指示だったりしたら……?

芸術方面には通じてるけど、運動神経は良くなかった

「スラっと背が高くて、頭も良くて、芸術方面には通じてるけど、運動神経は良くなかったね。馬に乗っても手綱を握る握力もなかったよ」

これもちょっとイメージが違いますね。死の直前だからでしょうか。

でも若い頃に乗馬中に落馬したエピソードもいくつかの公家の日記に書かれています。武芸に通じる後鳥羽上皇は「作られたイメージ」という可能性もあるかも……?

自分の意志で何かをやったことは一度もない

「自分の意志で何かをやったことは一度もない。何か大きなことは全部誰かの意志で動かされて、いつもその責任だけを背負わされていた。それが一番強い後悔となっている」

承久の乱の時、幕府が反旗を翻して京都に攻めて来ると知った時、公家たちは黙りこくりました。そこに後鳥羽上皇は「あれだけ戦しろと私に言ってきたのに、いざ開戦したら怖気づくのか」と言ったといいます。

また戦に負けた時も「私は公家や武士にそそのかされただけなのだ」と言っていました。けれど敗戦の責任を背負って隠岐島に流されています。

「責任逃れして潔くない!」と評されがちなエピソードですが、本当にそそのかされただけだとしたら、また違った一面が見えてきます。

常に人に寄り添ってないと生きていけないぐらい繊細

「常に人に寄り添ってないと生きていけないぐらい繊細。男らしくあろうとしたけど、根っこの部分は女性的な性格をしているね」

後鳥羽上皇は隠岐島に流される時に、お気に入りの側近も一緒に隠岐島に連れていかせてくれと、幕府に懇願します。

その様子は幕府にとっても「これまでいろんな命令を出して来たのに、今はそれしか命令してこない」と言うほど衝撃的なものでした。

この置文も誰かに書かされたもの

「この置文も誰かに書かされたもの。本当は嫌々書いている」

最後まで自分に尽くしてくれた忠臣に、自分に残されたお気に入りの場所を託すという美しいエピソードが根本から覆る衝撃的な鑑定です。

後鳥羽上皇は晩年を穏やかに過ごしていたわけではないのでしょうか。

てっきり後鳥羽上皇は「煌びやかでゴージャスな俺様系スパダリ」だと思ってたのに……。なんだかちょっと悲しくなってきました……。

最期は穏やかに亡くなった

「でも最期は周りを人に囲まれて、穏やかに亡くなった。それが救い」

よかった~~~! 孤独を嫌っていた後鳥羽上皇は、人に囲まれて穏やかに亡くなったのですね。

人も惜し 人も恨めし あぢきなく

手相はあくまで手相であり、それが真実であるというわけではありません。

けれど、この鑑定結果は「歴史書から読みとれる後鳥羽院」を、また違う側面から考えてみるきっかけとしては十分ではないでしょうか。

「人も惜(を)し 人も恨めし あぢきなく 世を思ふ故に もの思ふ身は」

百人一首に納められている後鳥羽上皇の和歌です。

「人を愛し、人を恨んできた。この世はなんてつまらないのだと思っているから、私は悩むのだろう」

隠岐に流された後鳥羽上皇が世を儚んでいる……と思いきや、これは挙兵から9年も前に作られた歌です。

手相の鑑定を読んでから、改めてこの歌に思いを馳せると、後鳥羽上皇の心のうちに触れたような気になります。

他の人物でも、手相や生年月日、筆跡や人相から占ってみると、何か見えて来るものがあるかもしれませんね。

「鎌倉殿の13人」13人って誰のこと? 人物一覧

「鎌倉殿」とは鎌倉幕府将軍のこと。「鎌倉殿の十三人」は、鎌倉幕府の二代将軍・源頼家を支えた十三人の御家人の物語です。和樂webによる各人物の解説記事はこちら!

1. 伊豆の若武者「北条義時」(小栗旬)
2. 義時の父「北条時政」(坂東彌十郎)
3. 御家人筆頭「梶原景時」(中村獅童)
4. 頼朝の側近「比企能員」(佐藤二朗)
5. 頼朝の従者「安達盛長」(野添義弘)
6. 鎌倉幕府 軍事長官「和田義盛」(横田栄司)
7. 鎌倉幕府 行政長官「大江広元」(栗原英雄)
8. 鎌倉幕府 司法長官「三善康信」(小林隆)
9. 三浦党の惣領「三浦義澄」(佐藤B作)
10. 朝廷・坂東の事情通「中原親能」(川島潤哉)
11. 頼朝の親戚「二階堂行政」(野仲イサオ)
12. 文武両道「足立遠元」(大野泰広)
13. 下野国の名門武士「八田知家」(市原隼人)