歌舞伎では、衣裳や鬘(かつら)、小道具を身に着けた役の扮装を「拵え(こしらえ)」と言います。役によりガラリと印象を変えて様々な表情をみせる歌舞伎俳優の皆さんに、思い出の拵え、気分がアガる衣裳、そのエピソードを伺います。第9回は、歌舞伎女方として数々の役をつとめ歌舞伎界を支えてきた初代中村萬壽(まんじゅ)さんです。
2024年6月、43年にわたりご自身が名乗られてきた女方の大名跡、「中村時蔵」を長男に譲りました。そして萬壽さん、新・時蔵さんも名乗った「中村梅枝」の名前を孫が受け継ぎ、ご自身は「初代中村萬壽」としてさらなる俳優人生を歩みます。あの時の拵えで思い出す、心に残る言葉についてお話しいただきました。
片はずしは、女方の最終目標
萬壽さんの思い出の拵えは、『加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』の中老尾上(おのえ)です。御家乗っ取りを企むお局さまと対立する、奥女中の役です。
緋色の着付に白の打掛。「片(かた)はずし」と呼ばれる鬘(かつら)をかぶっています。片はずしとは、大奥に仕える身分の高い女中や大名の妻などの役に使う鬘のことです。これが元となり、この鬘をかぶる役柄そのものを「片はずし」と呼ぶようになりました。
古典歌舞伎に深く入り込んでいく。
それは我を忘れるような感覚なのでしょうか。あるいは、入り込んでいく自分を俯瞰するような感覚なのでしょうか。
「常に冷静ではあります。私たち役者は、緊張することはあってもアガってはいないんです。我を忘れるようでは舞台は勤まりません。ただ、役に集中し、役に没頭できる時があるんです」
没頭しやすいのは、義太夫狂言の“しどころ”と言われるような場面ですか。と聞くと、萬壽さんは柔らか表情のままゆっくり首を横に振ります。
「クドキやサワリといった“しどころ”は、僕らは文楽人形の代わりです。義太夫さんと息を合わせる難しさはあるかもしれませんが、僕としては楽なんです(笑)。それよりも芝居や、台詞だけで繋ぐ聞かせどころの方がむずかしいです。そこでお客様の心を掴みながら、役だけに集中できた時、本当に役の気持ちで台詞を言えて、ふと台詞が飛んでも役の気持ちで自然に修正ができ芝居を繋げられたりすることがあります。役に没頭していたなと感じられます。そんな芝居ができた時は、ご覧くださった方からの評判も良いですね」
片はずしの尾上も、その手ごたえがあった役のひとつでした。お局さまから侮辱的な仕打ちを受けた後、ひとつの覚悟を決めて尾上はひとり廊下に見立てた花道を自分の部屋へ。
1993年8月国立劇場『加賀見山旧錦絵』中老尾上
「涙をふり切って最後に花道を引っ込みます。でも歌右衛門のおじさんから言われました。『これでは駄目。涙を切ったんだから泣いていちゃいけない。泣くのは自分の部屋に帰ってから』と。記録映像を見返してみると、切ったはずの涙が頬に流れているのが映っていました」
萬屋一門が沸かせる6月の歌舞伎座
息子の新・時蔵さんは、襲名披露狂言として『妹背山婦女庭訓』でお三輪をつとめています。女方の大役で、萬壽さんも、五代目時蔵を襲名した時にもつとめました。今回萬壽さんは、お三輪が恋焦がれる求女という二枚目の役。
『妹背山婦女庭訓』2024年6月歌舞伎座 求女=中村萬壽。女方だけでなく、立役二枚目でも定評のある萬壽さん。
萬壽さんは会見で、“時蔵”の名前は譲るけれど「引退する気も隠居する気もございません」とお話しされました。これは六代目中村時蔵の誕生と同じくらいうれしい報せでした。時蔵家のみなさんの、これからのご活躍に一層期待が高まります。
「親子で張り合うわけではありませんが、お話があればもちろんこれからもお三輪やお嬢をやらせていただきたいです! 尾上もその後に一度やっておりますが、またやらせていただきたいお役のひとつ。ただ、今の時蔵にはまだできない『茨木』のような老け役を広げていきたいとも考えています。いつまで体力が持つかな、あんなに踊れるかな。そんな不安とのせめぎ合いですが、萬壽の名前で歌舞伎役者としての自分の芸を一から見直してまいります」
『山姥』2024年6月歌舞伎座。左から猪熊入道に中村萬太郎さん、怪童丸に新・梅枝さん、怪童丸の母の山姥を萬壽さんがつとめました。白菊に新・時蔵さんも出演。おめでたい一幕となりました。
公演情報
『六月大歌舞伎』(東京)
2024年6月1日(土)~24日(月)
会場:歌舞伎座
昼の部 午前11時~
夜の部 午後4時30分~
【休演】11日(火)、17日(月)
https://www.kabuki-bito.jp/theaters/kabukiza/play/873
『七月大歌舞伎』(大阪)
2024年7月3日(水)~26日(金)
会場:大阪松竹座
昼の部 午前11時~
夜の部 午後4時~
【休演】10日(水)、18日(木)
https://www.kabuki-bito.jp/theaters/osaka/play/887
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塚田史香
ライター・フォトグラファー。好きな場所は、自宅、劇場、美術館。写真も撮ります。よく行く劇場は歌舞伎座です。