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尾上右近

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江戸の今を描く
鈴木春信の魅力【後編】

春信以前の時代は、浮世絵というと役者絵と美人画がほぼすべてでしたが、やがて家庭の日常風景や、若い恋人たちの姿などが描かれるようになります。春信もそうした流れの影響を受けて、家庭の日常の風景の中の幸せというような絵をたくさん描いています。

日常を愛おしむ

尾上右近
鈴木春信「風流五色墨 宗瑞」明和5(1768)年頃

この作品もその中の1つ。「これはこれは這子立ちたりころもがへ」という当時の句集の中の一句を入れています。衣替えをさせようとして幼子に着物を着せようとしたら、幼子が初めて立ってみせた…と、子供の成長を喜ぶ心情を絵にしているのです。後ろで見守るお姉さんが持っている帯には猫がじゃれつこうとしているなんとも平和な風景。よく見ると、子供のへその近くにお灸の跡があります。これはおなかの調子を整えるためのお灸、母親の愛情です。

尾上右近
ひとつひとつの何気ない日常を丁寧に

「題材が日常の風景に変わっていったということですね」と、ケンケン。「庶民のレベルも上がってきているということですね。この時代で日常風景の絵を受け入れていた国なんて、たぶん日本しかない。それがすごいですよね」と、高木編集長。「そういうことなんです。錦絵が誕生した1700年代半ば、世界では芸術や美術は貴族たちのもので、庶民は食べることで精いっぱいだった時代。色摺りの、これほどの質のものが安く手に入るなんて世界中どこを探してもあり得ないでしょう。日本が誇るべき文化だったということです。役者絵や美人画は直接本能に語りかけてくるものですが、こういう家庭のしみじみした幸福を見て楽しめる教養の高さ。しかも上に俳句があしらわれていますから、この俳句まで理解しないといけないということですもんね」と、藤村さん。「うん。でも俳句はなくてもいい。なくても十分に伝わりますね」と、ケンケン。

これは、明和の三美人のひとりで、笠森稲荷にあった水茶屋・鍵屋のお仙という娘を描いたものです。それまで美人画の対象となるのは役者絵の女形だったり、遊女でしたが、明和5年〜6年にかけて町娘ブームが起こります。

尾上右近
鈴木春信 「浮世美人寄花 笹森の婦人 卯花」 明和6(1769)年頃

描かれているのは、水茶屋の看板娘。「AKBのような、出会える美人ですね(笑)」と、ケンケン。「そうそう。遊郭の吉原の太夫は当時の大変なスターでしたから、なかなか直接見に行くことなんて出来ない。町娘は今のAKBなんかと一緒でいつでも会いに行けるアイドルなわけで、大変な人気になり、あそこの何々ちゃんが可愛いという娘評判記などがたくさん出版されています」と、藤村さん。

尾上右近鈴木春信「浮世絵美人寄花 路考娘 瞿麦」 明和6(1769)年頃

こちらは看板娘と地紙売りです。「右は、扇の地紙を売って歩く若い男性。箱の中にはたくさん地紙が入っています。女性は夏着の薄着なので、肌が透けて見えて色っぽい感じです」と、藤村さん。「黒の使い方がうまいですよね」と、高木編集長。「うん、いい絵ですね。でも、この立ち姿を見ていると、つくづく歌舞伎の女形の型はデフォルメされているなと思いますね。何でもなく立っているような感じですが、やっぱり自然と重心を見てしまうんです。腰を落として、下に重心があるから、この女性はそんなに若くないのかなとか…。若い娘だと胸のほうが前に出てきちゃうでしょう。役によって重心が違ってくるんです」と、ケンケン。「なるほど、それは面白いですね。そういう見方はしませんでした」と、藤村さん。

尾上右近
鈴木春信「丁子屋内てう山と巡礼」明和5-6(1768-9)年頃

春信が遊女を名入りで描いています。丁山(ちょうざん)とは、吉原の大見世・丁子屋長十郎きっての遊女が代々襲名した源氏名。生き仏のように美しい遊女に、巡礼の親子が「生き神様、生き仏様…」と拝んでいる状況を描いたものです。「当時、吉原の遊女が大門の外に出ることは厳しく禁じられていたので、本当は遣り手婆と遊女とお付きの禿が神社の境内らしき場所で3人でいるという設定はあり得ないのですが、おそらく明和5年に吉原が火災で焼けた際、近隣の地で営業を続けた仮宅(かりたく)の期間中は吉原の外をわりと自由に出歩くことが許されたので、その設定で描かれたものではないかと考えられます」と、藤村さん。「丁山は微笑んでいるんですね、拝まれて」と、ケンケン。「ええ。本人と禿は、あらっという感じで振り向いていますが、遣り手婆は眉間に皺をつくってしかめっ面です(笑)」

春信を慕う

尾上右近
喜多川歌麿「お藤とおきた」寛政5-6(1793-94)年頃

「これは非常に意味深な絵。お藤と難波屋おきたではないかと考えられています。お藤は笠森お仙と同じく明和の三美人のひとり。本柳屋という楊枝屋の看板娘ですが、人妻になって眉を剃りお歯黒をしています。おきたは歌麿の時代、寛政の三美人のひとりです。切れ長の目で、鼻の線が少し曲がっており、多少個性表現しています。のちの時代の美人に、美の秘訣でも書かれているのでしょうか、秘伝の巻物を渡している象徴的な場面と考えられています」と、藤村さん。「春信と歌麿は何年ぐらいズレているんですか?」と、高木編集長。「これが描かれたのが寛政5(1793)年ごろですから、30年ほど差があります。歌麿の作品にはもう一段階細かいほつれ毛が描かれた作品もあり、そういうのを見ると彫りの技術は進んでいると思います」と、藤村さん。ケンケンが目を凝らし、「生え際の線がすごいですね。それに、違う時代の女性を絡ませるなんて面白いなあ。明和の三美人のひとりだったお藤さんが年増になり、寛政時代に当代の三美人のひとりであるおきたに巻物を渡しているという…飛躍を感じます。すごく好きだなあ」

鑑賞を終えて

尾上右近

右近 春信のライバルみたいな人っていたんですか?

藤村 春信が一時代をつくる以前は、奥村政信や石川豊信らが画壇の中心にいましたが、錦絵の時代に入ると春信がそれを塗り替えてトップに躍り出て、それ以来、春信は断然スターでした。しかし、春信は早死にしています。明和7年に40代で亡くなっており、活動期間はほぼ10年でした。

右近 ああ、そうなんですね。

編集長 絵暦の中心はやっぱり豪商ですか?

藤村 有名なところでは、大久保巨川という人が千六百石取りの旗本で、大きな連の主宰者でした。いくつか連があり、互いに競い合ったんです。明和2〜3年、絵暦がいちばん流行った時代です。それ以前から春信は紅摺絵の役者絵や美人画をつくっていたので、この絵師ならいいものをつくってくれるだろうと連に目をつけられていたんでしょうね。それで注文が殺到したんだと思います。

編集長 連が与えた当時の文化の影響力は相当なものがありましたね。

藤村 ええ。俳諧連歌というのは歌を連ね、上の句と下の句を別の人が連ねるものですから、基本的に1人では楽しめない。みんなで一緒にやるから連というものが出来て、それが俳諧だけでなく、その交流や文化・芸術を楽しみにしている文化グループになっていきます。そんな中で絵暦にお金を費やし、やがて錦絵の誕生に影響を与えたんです。

尾上右近

編集長 文化の成り立ちが垣間見えて面白いですね。

藤村 文化人たちは、古典、俳諧、和歌の教養も非常にあります。それに応えるために初期の春信は古典や伝説や故事をテーマにした作品を中心につくっています。しかしやがて、版元が絵暦の版木を買い取って錦絵が流行して大衆化していく中で、家庭の幸福を描いたり、若い恋人たちを描き、古典の知識がなくても一般の人でもわかり、楽しめる作品に移行していくわけです。今回の展覧会ではそういった流れを見ていただけたんじゃないかなと思います。

編集長 こういうのを見ると、写楽はとんでもないなと思いますよね(笑)」

右近 写楽とはどれぐらい時代が離れているんでしたっけ?」

藤村 写楽も歌麿の時代ですから、春信とは30年ほど離れています。

尾上右近

右近 僕は制約がある中での表現がとくに興味深いと思いました。そこから、時間とお金を持て余した富裕層の贅沢な芸術の発展につながってゆく。歌舞伎なんかもどこかそういうところがあるんじゃないかと思います。僕らもお客様あってのものですからね。

藤村 役者絵なんかも、江戸後期の役者の姿とは随分違っています。傾城の髪型ひとつをとっても全然違いますね。

右近 ええ、そうですね。実際、今の歌舞伎の中でもいろいろあります。元禄を扱った「元禄花見踊」や「二人椀久」などは、古いものを新しく見せるという感覚で、鬢上げという耳が見えるように結った鬘をつけたり…。

編集長 歌舞伎の場合、そういう時代考証は誰がするんですか?

右近 基本的に自己プロデュースの世界ですから、役者が自分でします。

編集長 衣裳とかは浮世絵を参考にされたりするんですか?

右近 時代によっても違うのかもしれませんが、よく僕らが言われるのは、役者絵というのは、こういう衣裳で出演するだろうと先に想像して描いていたりするので、実際の衣裳とは違っている場合もあり、錦絵の衣裳をそのまま参考に拵えると違う場合もあると…。そこは気をつけなければいけません。でも、浮世絵がこれだけいい保存状態で残っているということは歌舞伎役者にとってもとても本当に有り難いことです。

観賞後の右近さんからみなさまへメッセージ!

『ボストン美術館浮世絵名品展 鈴木春信』

開催期間 2018年4月24日(火)~6月24日(日)
開館時間 火~金 / 10:00~20:00、月土日祝 / 10:00~18:00
休館日  6月は休館なし

尾上右近プロフィール

尾上右近

歌舞伎俳優。1992年生まれ。江戸浄瑠璃清元節宗家・七代目清元延寿太夫の次男として生まれる。兄は清元節三味線方の清元昂洋。曾祖父は六代目尾上菊五郎。母方の祖父は鶴田浩二。2000年4月、本名・岡村研佑(けんすけ)の名で、歌舞伎座公演「舞鶴雪月花」松虫で初舞台を踏み、名子役として大活躍。05年に二代目尾上右近を襲名。舞踊の腕も群を抜く存在。また、役者を続けながらも清元のプロとして、父親の前名である栄寿太夫の七代目を襲名10月1日(月)〜25日(木)は御園座の顔見世公演に出演予定。【公式Twitter】 【公式Instagram】 【公式ブログ】

文/新居典子 撮影/伊藤信 構成/新居典子・久保志帆子

【尾上右近の日本文化入門】

第1回 北斎LOVEな西洋のアーティストたち♡
第2回 大観と言えば富士?!
第3回 東博に超絶御室派のみほとけ大集合!
第4回 ケンケンが刀剣博物館に!
第5回 錦絵誕生までの道程 鈴木春信の魅力
第6回 日本建築とはなんぞや!
第7回 国宝「合掌土偶」が面白い!
第8回 永青文庫で、「殿と姫の美のくらし」を拝見

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