国宝『色絵雉香炉』(いろえきじこうろ)は、江戸時代の陶工・野々村仁清による傑作。すらりとした首と、きめ細やかな色絵による羽根などが特徴です。その美しい雉の姿は長年、多くの人々を魅了してきましたが、実はどうやって作られたのかはよく分からないままでした。
先日、その雉の造形がどのように作られたのかが判明。仁清の技術の高さを示す発見となりました。
野々村仁清は現代でも広く愛される「京焼」の代表的陶工。彼による『色絵雉香炉』の魅力を、石川県立美術館学芸員である村瀬博春さんにお伺いしました。
国宝『色絵雉香炉』と野々村仁清とは?不完全の美を現した香炉
1951年に国宝認定された『色絵雉香炉』。雉をかたどり、「色絵」と呼ばれる、焼いた器の釉(うわぐすり)の上に絵や文様を描き、低温で定着させる、いわば2度焼く手法が使われています。香炉としてはかなり大ぶり。羽根や尾の繊細さ、雉の顔は見事な美しさを見せ、どっしりとした座った姿は、泰然自若とした佇まいです。
実は正面から見ると首が少し傾いていて、顔面も完璧な左右対称ではありません。均整が取れた美を否定する、「不完全の美」を追求した作品とも言える傑作です。
学芸員村瀬博春さんに聞く『色絵雉香炉』の秘密
今回、『色絵雉香炉』の新たな発見をされた学芸員、村瀬さんにオンラインにて取材しました。
―今回、雉の首の部分の技法を発見されたということですが、特別な機械などでお調べになったのでしょうか?
村瀬博春さん(以下、村瀬):昨年、緊急事態宣言を受け、石川県立美術館も休館いたしました。その折、常設展示している『色絵雉香炉』のケースを丹念に清掃いたしまして……。香炉を外に出した2時間ほどの間に、内部を詳しく観察してみたことで発見しました。
―それで見つけたというのは凄いですね。
村瀬:首の内側の部分につなぎ目のようなものが見つかったのがきっかけです。どうやら、粘土の板を帯状にして、高さ1~2センチくらいの輪を積み重ねていって、首を成形したようです。
―首だけを作っていたということですか?
村瀬:おそらく、「首(頭)」、「胴」、「尾」の部分と、分けて作られたのではと思います。蓋裏側から確かめてみたものですが。尾の部分にも同じような痕跡がありました。
―細く長い首と尾は別に作られ、くっつけられたということですか。
村瀬:はい。雉香炉より後の時代の話ですが、九州の有田では、「土型」と呼ばれる、素焼きした粘土の型を使って人物や動物の置物を制作しています。この香炉には九州の色絵磁器の影響が認められるので、頭部も型を使用したのではと考えられます。ただ、敢えて輪を重ねて首を成形するというのは、仁清オリジナルと呼べる技法です。「不完全の美」を狙ったものであり、それがこの香炉の美しさを唯一無二にしています。
石川県の秘蔵っ子!歴史と香炉の不思議な関係
―そもそも、雉香炉はどのような背景で作られたのでしょう?野々村仁清は「京焼」「御室焼」、京都の陶工ですよね。
村瀬:野々村仁清は通名、清右衛門と言われ、仁和寺の門前で窯を開きました。茶人・金森宗和がプロデューサーとなり、後水尾天皇と関係が深かったとされています。
―京都の陶工の作品がなぜ、石川県に……?
村瀬:『色絵雉香炉』をいつ、誰が発注したのか、といった背景、どのようにして伝来してきたか、由来は不明なままです。ただ、加賀藩3代当主、前田利常が家臣に下賜(かし)したという言い伝えは残っています。
―ずっと加賀にいたのでしょうか。
村瀬:『色絵雉香炉』は、その後、子孫の手によって出入り商人の山川家に売り渡したとされています。明治時代には「金沢の山川家にて拝見した」と、数寄者の記録が残っている。
「謎」の多い作品ですが、作品の存在感が尋常ではなく、損傷もほとんどありません。その時々の持ち主が大切に扱っていたことが伺いしれます。石川県立美術館にご寄贈頂いたのも山川氏からでしたし、県外に出たことは考えにくいですね。
―加賀藩と言えば、茶の湯のさかんな土地としても有名です。
村瀬:前田家は初代・利家の時代から千利休と親交があり、三代目・利常も利休の弟子である小堀遠州を信頼していました。仁清のプロデューサーだった金森宗和は茶の湯に深く関わった人物ですし、彼らが仁清に「日本の色絵」を求めて作らせたのでは、と考えることは可能だと思います。
―香炉が作られた目的がわかっていないというのは意外でした。
村瀬:当時は江戸幕府の天下で、京都の朝廷や各藩の大名たちは従い、武装などは当然できなかった。文化は、そんな中、藩で育まれた技術や力を示せる数少ない場面でした。先程お話した難しい技法に挑戦したというのは、仁清たちの矜持とも言えるかもしれません。
―美を突き詰めると同時に、技術の粋を知らしめるという目的もあったのかもしれませんね。ところで、利常たちは香炉で実際にお香を焚いていたのでしょうか。
村瀬:全長48.3センチという大きなものですので、書院の飾りとして用いられることが前提ではないでしょうか。しかし、背面の煙出し孔が若干茶色に変色しているので、実際に香炉として使われたことも確かです。
利常が香炉を含む棚飾りについて、小堀遠州に教えを求めている書状も残っています。遠州は香炉を茶席で使用する茶人であったので、飾りと香炉、どちらとしても使われていたようです。
物事には裏がある?国宝に隠された技術と野心
美しい香炉の裏には、制作の秘密のみならず、歴史や政治、当時の人々の野心までも隠されていました。400年の時を超えて、ようやく判明した野々村仁清の技術と、強い意気込み。いつか本物を観に行きたいという気持ちがとても強くなりました!