忍者というと、誰を思い浮かべますか?
徳川家康に仕えた服部半蔵(はっとり はんぞう)、真田十勇士の猿飛佐助(さるとび さすけ)。
現代でも語られる忍者たちはそのエピソードが創作だったり、そもそも実在が怪しい人物もちらほら。それでも魅力を感じるのは、なんといっても「歴史の影で活躍した闇のヒーロー」という事でしょう!
そんな風に歴史の闇の中で忍者のように活躍した人が、鎌倉時代にもいました。
必殺仕事人!御内人(みうちびと)の謎を追え!
まず御家人とは、将軍に直接仕える家来のことですが、その御家人に仕えている家来は「郎党」や「御内人」といいます。
御家人や郎党は「家」に仕える身分ですが、特定の個人に仕える人物は「御内人」と呼ばれました。鎌倉時代では、御内人といえば、特に北条氏の執権に仕えていた人々を指します。
今回紹介する「金窪行親(かなくぼ ゆきちか)」は、2代目執権である北条義時の御内人でした。
金窪行親の出身は? 年齢は? どういう活躍をしたの?
出身と生年月日は結論から言うと、分かりません。
「金窪」は埼玉県児玉郡に金久保という地名があり、金窪神社があります。しかし、そこの出身だからそう名乗っているのか、はたまた全く違う場所にある「かなくぼ」のゆかりなのかは不明です。
記録に初登場!
金窪行親の記録に残る初仕事は、建仁3(1203)年9月2日「比企能員(ひき よしかず)の変」です。
初代将軍・頼朝の妻の家である北条氏と、2代目将軍・頼家の妻の家である比企氏が大激突した内乱で、北条義時が大将となり、比企氏の館を攻めました。その義時の配下に金窪行親の名前があります。
忍び寄りあっというまに暗殺!?
比企一族の滅亡により、後ろ盾を失ってしまった頼家は、母方の実家である北条氏から追放され、伊豆の修善寺に軟禁されてしまいました。そして翌元久元(1204)年7月18日、かの地で亡くなります。
鎌倉の歴史書である『吾妻鏡』には単に「亡くなった」とありますが、鎌倉の事情に詳しい京都の僧侶慈円(じえん)が著した『愚管抄』ではハッキリと「北条氏に殺された」とあります。
頼家が亡くなった数日後の7月24日のこと。頼家の家来が鎌倉に潜伏し、反乱を起こそうとしているという噂が立ちました。義時は金窪行親を派遣して「たちまち以ってこれを誅戮す」。つまり、あっという間に暗殺してしまいます。
この家来は誰なのか、詳細は『吾妻鏡』には書かれていませんが、修善寺に残る伝承には13人いたとあり、この13人を供養する『十三士の墓』が建てられています。
……この伝承が本当なら、たった1人で13人を「あっという間に」暗殺してしまったということです。ここまで武力を持つ金窪行親とは一体何者なのでしょうか……。
無名の男が警察副長官!?
それから10年ほど名前は出て来ませんが、建暦3(1213)年2月15日。再び金窪が現れます。
この日、とある僧侶が御家人に捕まって、将軍の元へ引っ立てられて来ました。彼は打倒北条氏を企てる者たちの1人で、仲間を集めるために御家人たちの家を説得しに回っていました。
しかし僧侶は捕まって、尋問されます。その尋問を担当した人物が、金窪行親です。
翌日、この企てに参加していた約200名が一斉に逮捕されました。その中でも重要参考人として金窪行親が逮捕したのが、和田胤長(わだ たねなが)です。彼は幕府の重鎮である和田義盛(わだ よしもり)の甥にあたる人物でした。
和田一族が胤長の無実を訴えに集まっている目に前で義時は「もっと詳しい尋問が必要だ」として、胤長を(まだ罪が確定していないにもかかわず!)罪人のように後ろ手に縛って金窪行親から幕府の高官に引き渡すパフォーマンスをします。
結局、胤長は首謀者として流罪となり、胤長の屋敷は金窪行親の手に渡りました。これがきっかけで和田一族が北条氏に対しての不満を爆発させて、5月3日、鎌倉初期最大の内乱である和田合戦に発展しました。
合戦は和田義盛が討ち取られたことにより終息しますが、金窪行親はその翌日、負傷者や死亡者の確認(実検)を行っています。
そして5月6日、合戦の功労者に恩賞が与えられるのですが……金窪行親はなんと「侍所所司」に選ばれています。これは現代で言う所の、警察と軍事を合わせた機関で、そこの副官長にあたる役職です。ちなみに、官長にあたる「別当」は義時です。
しかし和田合戦以前は、この侍所の役職は和田義盛のものでした。義時は治安の要の役職を、自分に反発する和田一族から、自分の手足となって動く金窪へと移したのです。
これ、吾妻鏡ではサラッと書かれていますが……結構恐ろしいことだと思うんですよね……。ちょっと義時の「ワルイ」部分が出ていると思います。
この合戦がきっかけで、北条氏は幕府に絶大な権限を持つようになります。そして行親は常に義時の側に控え、すぐに命じられたことを実行する、まるで忍者のような行動を繰り返すのです。
疑惑深まる、和田一族と金窪の関係
さらに、金窪行親には合戦恩賞として、和田一族のものだった所領が与えられます。それが埼玉県の「金窪(金久保)」です。
実は和田義盛の4男が「金窪」の土地を所有していて、金窪を名乗っていました。ざっくりと言ってしまえば、埼玉県の一部を支配していた豪族の娘(金久保出身)と、和田一族の4男坊が結婚して、4男坊が管理を任されていた土地、と考えられます。
金窪行親が「金窪」を所有する前から金窪を名乗っていること、和田一族の排除に貢献し、その屋敷・役職・そして「金窪」の土地をもらう……考えれば考えるほど、歴史の表にはないドラマがありそうですね。
しかし、現在の埼玉県の金久保の歴史には、和田の4男坊の事は言及されていますが、金窪行親の事は出て来ません。一体何者なのか……謎は深まるばかりです。
刀剣にも詳しい目利き
金窪行親の記録をピックアップすると、まるで義時の命令を遂行するマシーンのような印象を受けます。
彼の人間としてのパーソナリティが唯一垣間見える記述が、仁治2(1241)年8月15日の事。
鎌倉幕府では毎年8月15日に「放生会(ほうじょうえ)」と言って、武士としての殺生の罪を清める盛大な祭りをします。
その時に、将軍の参拝パレードをするのですが、将軍のすぐそばには「御剣役(ぎょけんのやく)」という宝刀を携えたボディーガードがいます。その御剣役がしっかり持っていたはずの刀が鞘から抜けて落ちてしまいました。
将軍はこの出来事を、何か不吉な事が起こると刀が知らせているのではないかとものすごく怖がり、「刀に詳しい金窪行親を呼びつけて見てもらいました」と書かれています。
将軍直々に「刀に詳しいから」とお呼びがかかるのですから、よほど詳しかったのでしょう。「金窪」は「金」で「窪」ですから、元々は鍛冶関連の職人だったのでしょうか。
ちなみに将軍に呼ばれた金窪の答えは「刀はただの物ですから、人間に対して物申すとは考えられないですけど……でも、この刀は神社の宝刀なので、まぁ、何かあるとすれば、刀じゃなくて神社の神様からのお告げじゃないですか?」というとてもドライな感じです。
彼の人生観が見えて「良かった。マシーンじゃなくてヒューマンだった」とちょっとほっこりしますね!
歴史の闇から現れ、闇に消えた男
金窪行親の吾妻鏡での記述は、この話を最後に姿を消します。ほどなくして亡くなったのでしょう。
北条氏は幕府の執権として権力をもち、「御内人」たちもその下で力をつけていきます。
義時の御内人たちの子孫は、その後も泰時や時頼などの歴代の執権に代々仕え、御家人たちの政治争いにも参加し、ついには御内人同士でも争うようになります。
しかし……金窪行親だけは、子孫の記述がありません。御内人の金窪氏は、義時に仕えた行親だけしか歴史に登場しないのです。
出自も不明な男が、義時の忠実な部下として登場し、その軍事・警察機構を掌握する立場にありながら、たった1代で忽然と姿を消す。その後の歴史にも、所領のあった地元の伝承にすら登場しない、まさに闇から生まれて闇に消えた男……。
もし彼の子孫がどこかにいたとしたら、内乱を繰り返し、滅亡した鎌倉幕府や、その後の歴史をどう見ていたのでしょうか。
もしかしたら、今もどこかで息を潜めて、時代の流れを見つめているのかもしれませんね。
「鎌倉殿の13人」13人って誰のこと? 人物一覧
「鎌倉殿」とは鎌倉幕府将軍のこと。「鎌倉殿の十三人」は、鎌倉幕府の二代将軍・源頼家を支えた十三人の御家人の物語です。和樂webによる各人物の解説記事はこちら!
1. 伊豆の若武者「北条義時」(小栗旬)
2. 義時の父「北条時政」(坂東彌十郎)
3. 御家人筆頭「梶原景時」(中村獅童)
4. 頼朝の側近「比企能員」(佐藤二朗)
5. 頼朝の従者「安達盛長」(野添義弘)
6. 鎌倉幕府 軍事長官「和田義盛」(横田栄司)
7. 鎌倉幕府 行政長官「大江広元」(栗原英雄)
8. 鎌倉幕府 司法長官「三善康信」(小林隆)
9. 三浦党の惣領「三浦義澄」(佐藤B作)
10. 朝廷・坂東の事情通「中原親能」(川島潤哉)
11. 頼朝の親戚「二階堂行政」(野仲イサオ)
12. 文武両道「足立遠元」(大野泰広)
13. 下野国の名門武士「八田知家」(市原隼人)
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