伊豆半島の中心に位置する温泉街「修善寺」。その地名の由来にもなっている寺「修禅寺」には、奇妙な面が寺宝として残されています。
その木彫りの面は、見開いたまん丸な目に大きな鼻や盛り上がった頬、威嚇するように歯を見せています。そして面の中央に上から下へと一直線に入った大きな亀裂が、ただならぬ雰囲気に拍車をかけています。
この面にまつわる情報は「鎌倉幕府・2代目将軍、源頼家のものだ」ということだけ。嘘か誠か、こんな話が残されています。
親子の政治対立
鎌倉時代のこと。二代目将軍・源頼家は母の家である北条氏より、妻の家である比企(ひき)氏を重用しようとしていました。当然、北条氏は抵抗し、長男の頼家を排除して、次男の実朝を将軍にしようと企てます。
建仁3(1203)年3月、頼家は体調を崩してしまいました。
将軍が倒れ、対立勢力が暗躍を始めたのでしょうか……。5月になると頼家は実朝の乳母夫であり、叔父でもある阿野全成(あの ぜんじょう)を謀反の罪で暗殺し、全成の妻である阿波局も逮捕しようとします。しかし阿波局は北条政子の妹なので、政子が庇って逮捕を免れました。
北条氏と頼家の対立の溝はさらに深まるばかり。7月の半ばに頼家の病も重症化し、8月に危篤状態に陥ります。そこで頼家は家督を弟の実朝ではなく、自分と比企氏の子である一幡(いちまん)に譲ろうとします。
これは北条氏最大のピンチです。なぜなら当時の北条氏の家柄は名門武士ではなく、初代将軍の妻で、現将軍の母である政子のみが拠り所でした。比企氏の子が将軍になってしまえば、北条氏はたちまち追放されてしまうでしょう。
そこで政子の父であり、頼家の祖父の北条時政は思い切った行動に出ます。なんと朝廷に「9月1日に頼家は亡くなったので、実朝が跡を継ぎました」と連絡し、9月2日に頼家の妻の家である比企を攻め滅ぼします。その戦火で頼家の妻と息子も亡くなってしまいました。
頼家は奇跡的に一命を取り留めましたが、当然ながら大激怒します。比企襲撃を命じた祖父、北条時政の追討命令を御家人たちに出しますが、それに従う者はいませんでした。
こうして頼家は9月7日、鎌倉を追放され、伊豆の修善寺に軟禁状態となります。その日は奇しくも、頼家が亡くなった偽りの知らせが京に届いた日でした。
修善寺の頼家
修善寺には、軟禁された頼家の伝承が数多くあります。
妻子を想い月夜の晩に物思いに耽った場所、村の子どもたちとの交流など、北条氏のバイアスがかかりがちな歴史書『吾妻鏡(あずまかがみ)』からは想像できないような、繊細で心優しい好青年ぶりです。
しかし、その生活は一年も持たず、元久元(1204)年7月18日に、満21歳の若さで亡くなってしまいました。
『吾妻鏡』にはただ亡くなった知らせが届いたとあるだけです。しかし世間にはその壮絶な最期の噂が伝わっていました。
男性は閲覧注意!? 頼家の最期
その日、頼家は風呂に入っていました。修善寺といえば温泉ですので、頼家もさぞかしリラックスしていたでしょう。
そこに北条氏の刺客が現れました。けれど幼い頃から武芸を修めていた頼家です。刺客に対して激しく抵抗します。
頼家の必死の抵抗はすさまじく、刺客は頼家の首に縄をかけ、「ふぐり」を取って無力化し、ようやく刺し殺すことができました。
そこまでしなきゃいけないほど、武器も防具もない頼家が強かったのでしょうか……。だとしたら、室町時代に剣豪将軍といわれた足利義輝に匹敵する「最強の将軍」に相応しい人物でしょう。ある意味、徳川吉宗以上の暴れん坊将軍とも言えます。
修禅寺の面の謎
以上が、当時の記録に残されている頼家の半生です。
修善寺にある寺「修禅寺」には「頼家のもの」とだけ伝わる木彫りの面が伝わっていて、いつからか、こんな伝承も語られるようになりました。
頼家は暗殺される前にも、暗殺未遂に遭っていた。漆がたっぷり入った湯舟に入れられて、全身が腫れ上がってしまったのだ。
そして頼家は、母・政子に対して「お前のせいで、こんな顔になったんだ」と知らしめるために、腫れ上がった顔を掘らせた、というものです。
そんな話を聞くと、なんともおどろおどろしい面に見えてきます。
面を題材にした歌舞伎作品
この面に惹かれた1人の作家がいました。それが大正時代の劇作家・岡本綺堂(おかもと きどう)です。
綺堂は修善寺に滞在中、この面からインスピレーションを受けて、歌舞伎の台本『修禅寺物語』を執筆しました。
それはこんな内容です。
昔、修善寺には面作師の夜叉王という者がいました。頼家は「自分の顔を面にしてくれ」と依頼していていたのですが、なかなか出来上がりません。いくら作っても面に生気を感じないと夜叉王は言います。
一方で、頼家は夜叉王の娘である桂(かつら)と恋仲になり、二人は仲睦まじく過ごしていました。
しかし運命は非情なもので、頼家に暗殺の魔の手が忍び寄ります。桂は頼家の顔の面をかぶり、身代わりとなって切り殺されてしまいました。そしてそんな桂の献身もむなしく、頼家もまた殺されてしまいます。
桂は最期に父の元へ行き、頼家と愛し合った日々が幸せだったことを語ります。夜叉王は頼家の面に生気が宿らなかったのは、この運命を予言していたからだと悟り、死にゆく桂の顔を「今後の面の参考に」とスケッチして、幕となります。
芥川龍之介の『地獄変』にも通づる、創作者の業を描いた作品です。
実際の古面の正体は!?
修禅寺の古面は「頼家のものである、と伝わっている」事しか、実際の事はわかっていません。
個人的には、雅楽で使われる『納曽利(なそり)』の面に似ているなと思います。
雅楽『納曽利』は、中国の英雄・蘭陵王(らんりょうおう)をモデルにした舞『陵王(りょうおう)』と対になっている舞です。
蘭陵王はその美貌に味方の兵士が見とれないように、龍を象った猛々しい面を被っていたと言われている武将で、納曽利は竜を表しているといわれています。
その面をなぜ頼家が持っていて、修禅寺にあるのかはわかりませんが、頼家の弟の実朝にも『陵王面』と『抜頭面』という愛用の雅楽の面が残されています。
雅楽は朝廷の儀式に欠かせないものですので、朝廷に文化的にも劣らない事を示すために、将軍たちも雅楽を嗜んでいたのかもしれません。
悲劇の将軍? 自業自得? 頼家の素顔
頼家は、吾妻鏡だけを読むと、粗暴で家来たちに威張り散らし、失脚して追放されてしまった事が自業自得のように描かれています。初代の志を、しっかりと3代目に繋ぐことができず、「暗愚な将軍」と評価されがちです。
しかし、ちょっと視点を変えてみると若いながら政治的な理念を持っていたにも関わらず、政争に敗れてしまった悲劇の将軍にも見えてきます。
頼家が最期を過ごしてきた修善寺には、頼家の墓や、母政子が建てた供養のための「指月殿」。数々の伝承の他に、毎年7月に「頼家まつり」という頼家を偲ぶ大々的なイベントが行われます。
頼家の素顔はどうだったのか、この修善寺の人々からの愛されっぷりを見れば、なんとなく見えて来るような気がしますね。
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参考
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「鎌倉殿」とは鎌倉幕府将軍のこと。「鎌倉殿の十三人」は、鎌倉幕府の二代将軍・源頼家を支えた十三人の御家人の物語です。和樂webによる各人物の解説記事はこちら!
1. 伊豆の若武者「北条義時」(小栗旬)
2. 義時の父「北条時政」(坂東彌十郎)
3. 御家人筆頭「梶原景時」(中村獅童)
4. 頼朝の側近「比企能員」(佐藤二朗)
5. 頼朝の従者「安達盛長」(野添義弘)
6. 鎌倉幕府 軍事長官「和田義盛」(横田栄司)
7. 鎌倉幕府 行政長官「大江広元」(栗原英雄)
8. 鎌倉幕府 司法長官「三善康信」(小林隆)
9. 三浦党の惣領「三浦義澄」(佐藤B作)
10. 朝廷・坂東の事情通「中原親能」(川島潤哉)
11. 頼朝の親戚「二階堂行政」(野仲イサオ)
12. 文武両道「足立遠元」(大野泰広)
13. 下野国の名門武士「八田知家」(市原隼人)
▼修善寺物語はこちら
修禅寺物語 新装増補版 (光文社文庫)