Culture
2020.10.09

大正三美人のひとり、夫の帰りを10年待ち続けた九条武子の人生。美貌の歌人は幸福だったのか?

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美人薄命。明治・大正の時代を生きた歌人、九条武子(くじょうたけこ)は40歳で亡くなった。歌人の柳原白蓮(やなぎはらびゃくれん)、法律学者・江木衷(えぎまこと)の妻・江木欣々(きんきん)と並んで「大正三美人」とうたわれるほどの美貌の持ち主である。彼女が亡くなったとき、新聞は一面で彼女の訃報を伝え、悲しみのあまり自殺する青年までもいた。
武子が世間から女神のように慕われていたのは、美貌だけでなく慈愛に満ちた心の持ち主だったからだ。

夫が10年帰らなくても

明治20(1887)年、武子は西本願寺の第21代法主大谷光尊(おおたにこうそん)の次女として京都に生まれる。幼い頃からフランス語を習い、おやつの時間には、当時まだ珍しいシュークリームやチョコレートがテーブルに並ぶ。現代でいうセレブの生活を送っていた。歌を佐佐木信綱(ささきのぶつな)に、絵を上村松園(かみむらしょうえん)に学び、芸術的センスも磨かれていく。

明治42(1909)年、23歳のとき、公爵家出身で正金銀行勤務の男爵・九条良致(くじょうよしむね)と結婚。良致は、のちの大正天皇の妃である九条節子(くじょうさだこ)とは異母姉弟である。

結婚の3カ月後、天文学を学びたいという良致と共に、武子もヨーロッパへと渡ることになった。良致はそのままケンブリッジ大学に留学するためイギリスに残り、竹子は1年後に単身帰国した。

「3年したら帰る」と聞かされていた良致の留守は、5年、7年と続き、10年待っても良致が帰ってくることはなかった。
10年間の生活を牢獄にたとえて、武子は次の歌を読んでいる。

かりそめの 別れとききておとなしう
うなづきし子は 若かりしかな

「武子は弱音も漏らさず良致の帰りを信じて待ち続けていた」という説もあれば「ヨーロッパへ旅立つ前からふたりは口もきかない夫婦仲だった」という説もある。
本当に愛する人を、10年も置き去りにすることができるのだろうか……? 後者の説が、今も根強い。

画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション

関東大震災の復興事業に注力

大正9(1920)年、武子は歌集『金鈴』を出版する。
歌集は一世を風靡し「金鈴堂」という絵具屋や「金鈴会」なる金融業の店までできたといわれる。

武子の人気に火がついたちょうどこの頃、良致が帰国した。

突如、目の前に夫が現れたことで、武子は非常に困惑したことだろう。
『金鈴』には、次のような歌が収録されている。

ゆきずりの人よりも なほ冷ややかに
瞳かへして 物のたまはず

10年の溝もあり、仲は決して良いものではなかったと推測されるが、武子は良致と共に東京の築地本願寺の近くで新たな生活を始めた。
良致がなぜ10年も帰ってこなかったかは、今も謎のままである。

関東大震災の復興事業に注力

『金鈴』が出版されてから、武子はスターのような存在として世間から注目を浴び、文筆家として仕事の幅を広げていた。

そんな矢先、大正12(1923)年に関東大震災が東京を襲う。
武子たちの家も被災し、下落合の借家にやっとの思いでたどり着く。

自身も被災しているにも関わらず、そのとき武子がとった行動は、困っている人たちに手を差し伸べることだった。全壊した築地本願寺の再建や、震災による負傷者・孤児の救援活動など震災復興事業へ尽力したのだ。大正14(1925)年、関東大震災の2年後には、自身の歌集の売り上げなどを使って、貧しい人々のための診療所を開き、次いで非行少女の更生施設も開いている。武子の愛が、被災に苦しむ多くの人を救った。

昭和3(1928)年、武子は扁桃腺炎を発症する。医者に外出を禁じられていたが、それでも震災復興事業を続けた。
奔走の無理がたたり、敗血症を発症。40歳でこの世を去る。多くの人を救い、幸せにしてきた武子だが、プライベートが果たして幸せであったかどうか、定かではない。その年の晩秋、歌集『薫染(くんぜん)』、2年後には『白孔雀』が出版され、歌人としても再評価された。築地本願寺には、武子の歌碑が建立されている。

おほいなる ものの力にひかれゆく 
わが足あとの おぼつかなしさ

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