戦国時代、幕末に次いで人気な時代といえば……源平合戦ではないでしょうか。源義経の大活躍や、壇ノ浦の平家一門の「あはれ」な最期など華々しい戦シーンが有名です。
平家方の武将で、当時からも名高く、時代を越えてなお人気のツワモノがいます。それが「悪七兵衛景清(あくしちべえ かげきよ)」です。『Fate/Grand Order(fgo)』にも登場しました。
平じゃないよ! 伊藤だよ!
悪七兵衛景清は「平景清(たいらの かげきよ)」と呼ばれる事も多いです。でも実際は平氏ではなく、藤原氏の庶流。平将門公を討ち取った藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)の末裔で、伊勢(いせ)に本拠地を構えた伊勢藤原氏。よって藤原景清もしくは伊藤景清です。
なぜ「平景清」になってしまったかというと、平家の家人として仕えていたためでしょう。源平合戦は、名前の通り平氏VS源氏であるという印象が強いようで、平清盛方は全員平氏で、頼朝方は全員源氏であると思っている人が少なからずいます。実際は平家の味方となっている源氏や藤原氏もいれば、頼朝の味方をする平氏や藤原氏もいました。
加えて昭和61(1986)年に発売されたファミコンゲーム『源平討魔伝(げんぺいとうまでん)』の主人公が「平景清」だったので、平景清で覚えているかつてのゲームっ子も多いでしょう。そしてつい先日、大人気のスマートフォンアプリゲーム『Fate/Grand Order』にも、満を持して「平景清」が登場しました!
でも歴史上の名前は「藤原景清」もしくは「伊藤景清」と覚えておいてくださいね!
ややこしい武士の名前事情!
昔の「名前」というのはちょっとややこしく、「姓名」の他に「本姓」「官職名」「通称」など、いくつもの名前があります。
例えば源義経を例にとると、幼名を「牛若丸」といい、比叡山の稚児となっている時の名前は「遮那王(しゃなおう)」。元服した後は「義経」を諱(いみな)として、通称を九男なので「九郎」。そして判官(ほうがん)という官職についたため、正式に名乗る時は「源九郎判官義経」と名乗っていました。
諱で呼ぶことは、目上の人からのみの呼び方です。同等以下の人が「義経殿」「義経様」と呼ぶのはとても無礼な事とされていて、本来は「源九郎殿」もしくは「九郎判官殿」と呼ばれます。
ちなみに、武士のへりくだった一人称は「自分の名前」です。将軍の前で意見を述べる時、「私はこう思います」という所を「義経はこう思います」とか言います。ちょっと可愛くて私は好きです。そして自分の名前が一人称のギャルが武士に見えてきて「謙虚な子だなぁ」と思えます。
ちょっと脱線しましたが景清の場合、『吾妻鏡(あずまかがみ)』には「上総悪七兵衛尉景清(かずさ あくしち ひょうえのじょう かげきよ)」と出て来ます。
本姓は藤原ですが、景清の父忠清が上総介だったので、その息子の景清も上総の姓で呼ばれることもあります。そして七男で兵衛尉(ひょうえのじょう)という官職に就いていたため、「七兵衛尉」です。尉を省略すると「七兵衛(しちべえ)」になります。
ちなみに上総は現在の千葉県南部。思いっきり坂東武者のナワバリ圏内です。そのため、忠清の名は坂東武者たちに知れ渡っていました。勇猛な坂東武者が「いつかあのようになりたい」と思うぐらいの憧れの存在だったようです。でもその息子が「悪」なのは一体なぜでしょう……。
▼吾妻鏡はこちら
眠れないほどおもしろい吾妻鏡―――北条氏が脚色した鎌倉幕府の「公式レポート」 (王様文庫)
悪は「悪人」というわけではないって本当かな?
中世の人物には、通称に「悪」がある人がたまにいます。今回の「悪七兵衛景清」の他に、義経の長兄「悪源太義平(あくげんた よしひら)」。平安後期の左大臣、藤原頼長も「悪左府(あくさふ)」と呼ばれていました。
これらの「悪」は「悪人」という意味ではなく「強い」とか「勇猛果敢」という意味で、カッコいい通称なのだと言われています。
でも私は、どちらかというと、そんなに良い意味でもないのでは? と個人的に思っています。「悪」の字は自分から名乗っていた通称ではなく、どちらかというと敵方から呼ばれる通称です。相手からしたら「この人、暴れん坊でめっちゃ迷惑したんだから!」ぐらいの意味で付けてるんじゃないかなぁと思っています。
でも敵方に「厄介者」と思われてるという事は、味方からしたら頼りになってカッコいい人なのかもしれません。武士ならば敵に「悪」と呼ばれるのなら本望とも言えるのかも。
鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』に「悪七兵衛尉」と書かれているからには、鎌倉にとって非常に厄介な相手だったのかもしれませんね。
景清って実際はどんな人なの?
実は景清については「実在した」ということぐらいしかわからず、その半生はほとんどが伝承です。
『平家物語』では、錣(しころ)という、兜についた首を守る覆いの部分を素手で引きちぎったという怪力の持ち主です。
そして壇ノ浦の後、鎌倉方に捕まり、のちの13人の合議制の1人である八田知家(はった ともいえ)の家に預けられます。そこで断食して自害したとも、プリズン・ブレイクして平家の生き残りの反乱に加わった後に行方をくらましたとも書かれています。
その後どうなったかというと、各地に潜伏しては頼朝暗殺を企てました。景清にまつわる伝承地は北関東から九州まで、日本全国に散らばっています。……とはいえ、『吾妻鏡』には書かれていないのであくまで伝承ですが。
ちなみに景清本人の暗殺事件は『吾妻鏡』にはありませんが、景清の兄・忠光(ただみつ)による頼朝暗殺計画がありました。しかしそれはすぐにバレて捕まっています。
景清はその勇猛さは伝わっていますが、実像は謎に包まれているため、後世の創作者たちの想像力を刺激したのか、歌舞伎作品の題材にもなっています。
反骨精神を持ち、敵に屈せず、何度も反撃のチャンスを狙う景清像は、庶民たちのダークヒーローとなっていました。たとえ伝承でもヒーローとして名を馳せるのは、景清にとっても誉れなのかもしれませんね。
「鎌倉殿の13人」13人って誰のこと? 人物一覧
「鎌倉殿」とは鎌倉幕府将軍のこと。「鎌倉殿の十三人」は、鎌倉幕府の二代将軍・源頼家を支えた十三人の御家人の物語です。和樂webによる各人物の解説記事はこちら!
1. 伊豆の若武者「北条義時」(小栗旬)
2. 義時の父「北条時政」(坂東彌十郎)
3. 御家人筆頭「梶原景時」(中村獅童)
4. 頼朝の側近「比企能員」(佐藤二朗)
5. 頼朝の従者「安達盛長」(野添義弘)
6. 鎌倉幕府 軍事長官「和田義盛」(横田栄司)
7. 鎌倉幕府 行政長官「大江広元」(栗原英雄)
8. 鎌倉幕府 司法長官「三善康信」(小林隆)
9. 三浦党の惣領「三浦義澄」(佐藤B作)
10. 朝廷・坂東の事情通「中原親能」(川島潤哉)
11. 頼朝の親戚「二階堂行政」(野仲イサオ)
12. 文武両道「足立遠元」(大野泰広)
13. 下野国の名門武士「八田知家」(市原隼人)
▼ガイドブックもチェック
NHK大河ドラマ歴史ハンドブック 鎌倉殿の13人: 北条義時とその時代 (NHKシリーズ NHK大河ドラマ歴史ハンドブック)